■X
Planes
さて、お次はX-planes,、すなわちX番台機大進撃となります。
何度か書いてるようにX番号は試作機を意味し、XBなら試作爆撃機、XP、XFなら試作戦闘機です。
が、純粋にXの文字だけの型番を持つ機体が空軍にはあり、
これがいわゆるX-planes、ほとんどが純粋に技術的な試験を目的にした機体となります。
この第四ハンガーの目玉の一つがそれらの機体の展示で、
すでに見たX-15や、さらに初期の実験機、X-1B、X-3、X-4、X-5がズラリと並ぶのです。
ある意味、この博物館の目玉展示がこれです。
ここからは、それらを中心に紹介して行きます。
ベルX-1B。
チャック・イェガーにより人類初の“水平飛行による音速突破”に成功したX-1の発展型。
スミソニアンの航空宇宙本館で見た“マッハ1世代”の無印X-1は全部で3機造られ、
(ただし3号機は一度も飛行せずに事故で損失)
さらにその発展型として、“マッハ2世代”のX-1A、B、C、Dの4機が発注されました。
このB型はその中の一機です。
さらにX-1Eという機体もあったのですが、これは無印X-1の2号機を改造したもので新造ではありませぬ。
(すなわち現存する無印X-1はスミソニアンの1機のみ)
ただしマッハ2世代の4機の内、Cは製造前にキャンセル、Dはこれまた飛行前に事故で損失、
結局まともに飛んだのはA、Bの2機のみでした。
この第二世代X-1ではコクピットがまともなキャノピー式に改められたほか、
マッハ2超えを目標としたため、ロケットエンジンもパワーアップされました。
さらにB型では姿勢制御用の噴射装置を積んで、宇宙船のような姿勢制御をする、
という実験まで行われています。
この辺りの技術は後にX-15で活かされることになったようです。
で、この機体、当初は空軍が運用してたのですが、初飛行した1954年9月になると、
すでに前年にX-1Aでマッハ2の飛行に成功しており(パイロットはこれもチャック・イェガー)、
空軍の興味はすでに失われてしまってました。
このため、10回目の飛行でマッハ2を無事突破すると(パイロットはフランク エヴェレスト)、
NACA(NASAの前身)に貸し出されてしまいます。
その後は、超音速飛行時における高温対策(衝撃波背後熱)などの研究に利用され、
最終的に1958年1月の27回目の飛行で退役、この博物館に持ち込まれる事になります。
ちなみにNACAに管轄が移った後のパイロットの一人に、人類初の月面男、アームストロングが居ます。
あの人、X-15に行く前はこの機体を飛ばしており、かなりの腕前のテストパイロットでもあったようです。
ダグラス X-3 スティレット(Stiletto)。
スティレットは小型の刀、ハイヒールの脚、といった意味で、まさにそういった形状の機体。
ハッキリ言ってヒマだったから頼まれた、という部分があったX-1、X-2のベル社に比べ、
まともな機体制作の実績があった老舗のダグラスが制作会社に選ばれたのですが、
これがXプレーン史上、最低とも言える失敗作になってしまうのです。
ちなみに後退翼でマッハ3までを目指していたベルX-2は制作された2機とも事故で損失、
しかも両方ともパイロットも巻き添えになる、という最悪の実験機となってしまいます。
よって現存機がありません。
この時代の空軍は間違えなく狂ってるのですが(そもそもX-1世代には脱出する手段が無かった)
それにしても…という感じはしますね。
その次、三番目のX機であるこのX-3はマッハ2時代の実用的な機体をテーマに造られました。、
X-1、X-2が空中の大型機から投下発進するのに対し、
自力で地上から離陸できる、実用的な超音速機として開発が始まったのです。
このため、経験豊富なダグラスが選らばれた、という面があります。
ところが搭載予定だった小型高出力ジェットエンジンが完成せず、
他の高出力エンジンは大きすぎて機体に入らないと判明、その開発は完全に迷走してしまうのです。
最終的には低出力の小型エンジンを搭載して飛んだのですが、
同時期にX-1Aがマッハ2の壁を突破したのに対し、こちらは音速すら突破できずに終わるのでした。
1952年10月にとりあえず初飛行、その後、1040q/h前後までは出たものの、
最後まで水平飛行では音速を超えられず、最終的に降下飛行、ダイブでようやく音速を超えたようです。
このため、2号機はキャンセル、展示の機体が唯一の制作機となってます。
ちなみに高速飛行する気持ちだけは強かったため、おそらく世界初のチタン合金を一部に使用した機体でもありました。
独特ないかにも速そうなスタイルではあるんですけどね…。
ノースロップX-4 バンタム。
バンタム(Bantam)は、闘鶏、チャボ、といった意味で、ボクシングのバンタム級のアレです。
X-2に次ぐ後退翼実験機ですが、こちらは見て判るように無尾翼(水平尾翼無し)の機体で、
この記事を読んでる皆さんは直ぐに気付くであろう、あのMe163の影響で設計された実験機となります。
無尾翼機、というか垂直尾翼すら無い全翼機を得意としたノースロップ社が
製造メーカーに選ばれたのはそれが理由でした。
1948年12月には早くも初飛行しており、これは先に発注されたX-2、X-3よりも早く、
X-1の初動力飛行と比べても8カ月遅いだけです。
この辺りは無尾翼機の実績を積んでいたノースロップの強み、そして同時に
超音速を目指してなかった、という機体の特性によるでしょう。
あくまで超音速前の高速飛行用の実験機だったのです。
まあ、後退翼というのは本来、そういうモノですしね。
(ジェット旅客機は後退翼だが音速を超えることは無い)
こちらも1950年まで空軍が試験した後、NACAに移管され実験が続けられたようです。
最終的に事故損失無し、当初の実験目的も達成、というX番台機としては初めて(笑)
キチンとまともな成績を残した機体となりました。
1953年まで飛行し、その後、この博物館に寄贈されてます。
ベルX-5。
主翼の付け根を見るとなんとなく判ると思いますが、こちらは可変翼実験機です。
しかしX-5までの5機種のうち、X-1、2、5と3機種がベル社なのはなんか異様ですね。
実戦向けの機体ではP-39、P-59と失敗作を連発、なんら実績のない会社なのに。
倒産させないための救済処置、という面もあるのかもしれませんが、
そんな会社に技術的に最先端の機体開発を依頼する、というのはなにか軍との癒着的なイヤラシサも無くは無いです。
実際、ベルはそういう部分がある会社ですから。
ドイツが大戦中に開発していた可変翼実験機、P.1101の影響を受けた、というかほぼそのまま、
という感じの機体ではあるんですが、とりあえず世界初のジェット可変翼機でもあります。
P.1101は可変翼と言っても地上で角度を変更、固定するもので自力で変更はできませんでしたから。
1951年6月に初飛行なので、これもX-2、X-3より先に飛んだことになります。
というか、ベル社、X-2とこの機体は完全に同時開発だったようです。
ついでに2機制作された内の1機はこれまた事故損失で失われており、
これすなわち、ベル社が開発した機体は全て事故損失が発生してる、という事です。
X-3は失敗作でしたが、少なくとも最後まで大きな事故は起こしてませんし、
X-4は上で説明した通りのパーフェクトゲームでしたから。
やはりベル、ダメメーカーじゃないですかねえ…
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