■とにかく銀ピカ そしてダメダメ
全天候型迎撃ジェット戦闘機、ノースロップF-89Jスコーピオン。
戦後のアメリカ軍は戦略爆撃空軍街道一直線だったため、F-86を最後に
以後はダメ戦闘機大行進状態になるのですが、その先頭を切ってダメだった機体です(笑)。
機首が妙に長いのは、全天候型対応のため、アナログ計算機とレーダーがここに入ってるから。
ちなみに全天候型、というのは屋根があるから雨の日でもお出かけ可能、という話ではなく、
視界が無い日でもレーダーによって障害物を避けて飛べ、なおかつ目標を発見、迎撃できる、という意味です。
第二次大戦期の夜間戦闘機の発展型と思ってもらえばいいでしょう。
(まともなレーダー積んでない日本の夜間戦闘機は例外というか、あんなものは夜間戦闘機じゃない)
ただしこの時代のレーダーで、夜間、雨天時の完全な地上地形の把握なんて無理ですから、
夜間や雨天でも飛べなくはない機体、といった所が実態に近いですけども。
それでも迎撃機は低空飛行は無いので、基地周辺を別にすればそれほど障害物への警戒は要りません。
この点は全天候型地上攻撃機とは全く異なる部分で、攻撃機で十分なレーダー能力を持った機体は、
結局、ベトナム戦の最後の最後に登場するF-111までアメリカ空軍にはありませんでした。
また迎撃も機載レーダーだけではほぼ不可能で、地上レーダーからの誘導は必須となります。
このため、地上のレーダーサイト網の構築が、
この機体の活動の前提条件にもなり、当然、アメリカ空軍もそれをやっています。
でもって、なんでそんないつでも出撃可能な迎撃戦闘機が必要なのか、といえば核爆弾によって
たった一機の爆撃機を見逃すだけで都市が一つ蒸発してしまう時代になった結果でした。
夜だろうが雨の中だろうが、これを迎撃する戦闘機が必要とされたのです。
また、その目的のため、あらゆる爆撃機に追いつく必要があり、
このための高出力装置、アフターバーナーの搭載も行われてます。
ただし最初はそこまで本格的な事を考えておらず
(開発スタート時にソ連はまだ原爆を持って無かった)、
後から泥縄式にいろいろ加えて行った結果、
このF-89は迷走に迷走を重ね、失敗作の王道を行く事になるのですが…。
とりあえず終戦直後の1945年8月、まだ陸軍航空軍時代に出された全天候型戦闘機の要求仕様と、
それに基いて行われたコンペに勝って採用されたのがこのF-89でした。
全翼機大好きジャック・ノースロップ率いるノースロップ社の設計で、
同社にとっては初代夜間戦闘機、P-61ブラックウィドウに続いての
レーダー搭載戦闘機の採用ということになります。
で、1948年8月には初飛行に成功、1949年1月には正式受注となり、最初の量産型F-89Aが、
初飛行から約2年後の1950年9月に完成します。
ここまでは、まあ、普通でしょう。
問題はここからで、最初の量産型のA型は問題続出、
わずか半年間後、1951年3月までに11機だけ生産して製造打ち切りとなります。
続いて登場したB型もエンジンに欠陥が見つかるは
昇降舵(エレベーター)にフラッター(高速飛行時に振動→破損)がでるわ、
と問題続出で実用に耐えず、これも半年だけ製造して1951年の9月に速攻で製造打ち切り。
生産数は50機前後だと思われますが、正確な数字はわかりません。
その結果、さらに改良されたC型が造られる事になり、
B型の製造打ち切り直後の9月から生産が開始されました。
わずか1年ちょっとの間に2回の改修、3つのタイプが生産されたわけですが、
このC型から本格的な量産がスタート、部隊配備も始まります。
ところが、部隊配備が進むにつれて本格運用の前に見落とされていた
致命的な欠陥、主翼の強度不足が露呈して来てしまうのです。
C型の生産開始から半年も経ってない、1952年の2月25日、最初の空中分解事故が発生し、
以後、9月22日までの間に次々と5機ものF-89Cが飛行中に主翼が吹き飛んで空中分解、墜落します。
主翼の無い状態では凄まじい回転と落下速度で堕ちて行きますから、そこからの脱出は不可能でした。
これはもう、事実上の殺人機です。
本来なら、これ以上こんな機体に関わる理由はないはずですが、
なぜか空軍はノースロップの設計改修案を受け入れ、この後、D型としての製造を発注しています。
ここら辺、メーカーと軍上層部の間に、なんらかの癒着があったと考えないと、
説明が出来ない行動のような気がしますねえ…
そこまでして、やっと運用できる状態となったD型の配備が開始されたのは、
初飛行から6年近くも経った1954年初頭となります。
この機体から機首部の20mm機関砲が外され、ロケット弾のみが搭載される、
というこの時代の全天候型迎撃戦闘機の標準装備にとになりました。
さらに生産途中から、世界初の誘導ミサイル、ファルコンも搭載できるように改修され、
世界初の空対空ミサイル搭載戦闘機としての運用も始まります。
ところがその時期にはその後継機、F-102(これもかなりアレな機体だが)が初飛行済みで、
既に生産準備に入ってるという段階でしてたから、
一体全体、なんだったんだこの機体、という感じでしょう。
ちなみに展示のJ型は、空対空“核弾頭”ミサイル、AIR-2 ジーニー(Genie)を
搭載できるようにD型から改修された機体で、1957年初頭から運用されてました。
左右の主翼に搭載された、空対空核弾頭ミサイル、という冗談みたいな装備、ジーニーミサイル。
狂ってるとしか言いようがない装備ですが、これも侵入してくる敵の核爆撃機を、確実に撃墜するための工夫でした。
戦闘機相手の空中戦で使う兵器では無いのです。
といっても、記録上は一回しか実射試験をしてないと言われ、どこまで効果があったのか疑問という気もしますが…
こちらも全天候型迎撃戦闘機、ロッキードF-94Cスターファイア。
上で見たF-84の開発が遅れまくったため、アメリカの空の守りはガラ空きになってしまう、
という想定外の事態が発生したため、それを補完する全天候型戦闘機として急遽開発されたもの。
ちなみに朝鮮戦争編で見たF-94Bの発展型がこのC型…とされてますが、
実は大幅に再設計されており、F-94Bとはかなり異なる機体となってます。
実際、この機体は当初、F-97という新型機として採用される予定でした。
そもそも先に見たB型は単なる夜間戦闘機に近く、いわゆる全天候型迎撃機としてはちょっと力不足なのです。
(まあ、このC型も完全か、と言われればかなり微妙なんですけども)
この辺りは、当時のアメリカ軍はなにせ予算がなかったため、財布のひもを握る議会に対し、
新型機では無いですよ、すでにある機体の改造ですよ、と説明するために、
こういった命名上の小細工をやったと言われてます。
ちなみに両者を比較するとこんな感じ。上がB型、下がC型。
機首先端の形状が違うのはレーダーと火器管制装置(FCS)が全く別物な上、
C型ではより確実に大型の戦略爆撃機を撃墜できるよう20o機関砲を外して
ロケットランチャーが装備されてるため。
機首部に円環状に並べられた筒がロケットランチャー発射器で、
飛行中はシャッターが閉まるようになっています。
さらによく見れば空気取り入れ口の構造が異なり、
そしてC型では胴体後部上のヒレが追加されてるのが判ります。
この角度からは判りませんが主翼の形状も微妙に変わっており、
その主翼の途中にはロケットランチャーが刺さってる(笑)というスゴイ設計になってます。
このC型の主翼ロケットランチャー搭載方法、反対する人間、居なかったんでしょうか…
どうもドイツ末期の対戦略爆撃機に特化した戦闘機たちと言い、確実に爆撃機を撃墜するぜ、
という目的を持った機体の武装は、ビックリドッキリメカになりやすい気がしますね。
とりあえず1949年の始め、F-89の初飛行からわずか数ヶ月後にロッキード社に対し
T-33改造の夜間戦闘機としてF-94(A&B型)の開発が打診され、
その後、わずか四カ月で試作機が初飛行、そのまま採用されたのがこの機体のルーツです。
ただしこれは第二次大戦中の夜間戦闘機の延長線上の機体と考えられており、
敵の戦略爆撃機をあらゆる状況で確実に撃破する、という全天候型迎撃機とは
ちょっと違う機体として発注されたものでした。
ところが困ったことに1949年の夏、ソ連が原爆実験に成功し、
アメリカは世界で唯一の原爆保有国では無くなりました。
すなわち自分もまた核攻撃にさらされる可能性が出て来たのです。
こうなると空軍としてはF-89の登場なんて待ってられませんから、すぐに実用化できる
全天候型迎撃機が必要となって来ます。
うかうかしてると、明日にもソ連から戦略爆撃機が核爆弾を抱えて飛んでくるかもしれないのです。
このため、ロッキード社がF-94の改良型として提案して来た
このF-94Cが急遽、採用される事になりました。
その後、1950年夏に初飛行後、1951年7月から、すなわちソ連の核武装から2年たって、
ようやくアメリカに全天候型迎撃機の配備が始まるのでした。
(F-89の量産もその前に始まっていたが、欠陥機のA型とB型であり、まだ迷走中)
このため、開発開始時期も、型番の上でもF-89の後輩であるこの機体が、
事実上、アメリカ初の対核爆撃機用の全天候型迎撃機となってしまいます。
ちなみにB型の所でも書きましたが、アメリカで最初に
アフターバーナー付きエンジンを搭載した実用戦闘機でもあります。
ノースアメリカンF-86D セイバードッグ。
これも例のソ連の原爆実験成功とF-89の開発の迷走を受け、
ノースアメリカン社が自主開発してた機体をアメリカ空軍が急遽採用したものです。
ちなみにそんな機体なので、これも武装はロケットランチャーのみで、
胴体下に収納された発射装置がガコンと飛び出して来て撃ち出す、という構造になってます。
ちなみにアメリカ空軍の正式呼称は従来のF-86と同じセイバーであり、
セイバードッグは非公式の愛称らしいのですが、詳細は確認できず。
ちなみに何でドッグ?というと顔が犬顔でD型だからDogらしいです。
この機体もF-89の迷走を埋めるための全天候型の対戦略核爆撃機用迎撃戦闘機であり、
従来のF-86の改良型…としながら、実はほとんど新設計、というF-94Cによく似た存在だったりします。
なのでこれも最初はF-95という別の名前の戦闘機になる予定でした。
従来のF-86と違って機首部に鼻が付いてるのはレーダー収容のため。
ただしこの時代の全天候型戦闘機はレーダー手、そしてナビゲーター(航法士)を後部座席に乗せた
2人乗りが普通だったのに、このF-86Dは全自動化によって1人でも行ける、としてしまってます。
まあ、結果からすると、トランジスタすらないこの時代の電子機器でそんなのは無理で、
いろいろと大失敗に終わるのですが(涙)…
ちなみにF-89、F-94C、F-86Dの全天候型迎撃機三姉妹の中では唯一、後退翼を持った機体です。
さらに三姉妹の標準装備、アフターバーナーはこの機体にも付いてます。
1949年11月、全天候型迎撃機三姉妹の中では二番目に初飛行に成功した機体となるのですが
その後の開発に手こずったため、後から飛んだF-94Cに実戦配備では後れを取ります。
これは先に見たように一人乗りとしてしまったため、火器管制装置(FCS)から開発する必要が出て来たためで、
この結果、火器管制装置の製造元、ヒューズエアクラフトを巻き込んでの迷走に突入してしまったのでした。
結局、この火器管制装置のトラブルは部隊配備後も完全には解消されず、
この機体の泣き所として最後まで残ってしまう事になります。
ちなみにこれは航空自衛隊にも供与され、運用されてました。
その中の一機が東京都立産業技術高等専門学校荒川キャンパスという、
覚えるのに3年くらいかかりそうな長い名前の学校に教材として保管されており、
現役時代から塗装をいじってないため、これ、世界レベルで資料性の高い機体となってます。
興味のある人は年に何度かある見学日に行って見てくださいませ。
NEXT