■B-36がやって来た
終戦後、1950年代後半までアメリカの戦略爆撃部隊の主力だった超巨大爆撃機、コンベア B-36J。
ピースメーカーの愛称を持ちますが、これ、公式なものなのかどうか、どうもはっきりしません。
1946年8月に初飛行、という点から判るように、設計そのものは第二次大戦中からスタートしており、
当初はB-29の後、この機体まで使用してドイツをコテンパンにする予定でした。
もし日本やドイツがあと2年がんばってたら、これで爆撃されてた事になりますね。
終戦後に独立したアメリカ空軍は、核爆弾を搭載した戦略爆撃機で世界最強の軍隊となる、というのが
その基本方針であり、その戦略の要がこの爆撃機でした。
ただし全部で380機前後の生産で終わってしまうのですが、軍事予算がどんどん削られた戦後に
ベラボーに高価な(B-29の5倍以上とされる)この機体をそれだけそろえたのは大したものなのです。
全長約70m、全幅約49.4mは未だにアメリカ軍が採用した爆撃機の中では最大で、
(輸送機のC-5ギャラクシーがかろうじてこれよりデカい)
このためレシプロエンジン(狂気のカタマリ、R-4360)6発を後ろ向きに積む、という独特のレイアウトで搭載、
さらに補助出力として小型のターボジェットエンジン二発も付けてました。
(ジェットエンジンの補助が付くのは途中のD型以降だが)
ちなみにアメリカ空軍の呼称だと“大陸間爆撃機(InterContinental
bomber)”と壮大なものになってますが、
実際、戦後に実用化された空中給油によって、無着陸で地球一周とかをやってしまえた爆撃機です。
これによって世界中どこにでも飛んでゆけるのだから、もはや海軍の空母は不要、として
空軍と海軍の縄張り争いの発端ともなる機体でした。
その辺りは結局、朝鮮戦争の勃発により、海軍の空母が緊急展開可能な航空戦力として大活躍、
その結果、海軍航空部隊も存続が認められて決着が付きます。
展示の機体は最後まで部隊配備されていたB-36で、1959年4月に自力でこの博物館まで飛行して来たもの。
ちなみにこれがB-36の最後の飛行だそうで、現在に至るまで、以後、B-36は一度も飛んでないそうな。
その横には、こんな展示も。
右側を歩いてる人物と比べてその巨大さに驚いていただければ幸いです。
これは試作型のXB-36が搭載していた主車輪。
B-36は当初の設計では一個の車輪で主脚を支える仕様になっていため、
こんな巨大なタイヤとホイールになってしまったのだとか。
ちなみに直径2.79mあるそうで、これ、ブレーキとかどうなってたんでしょうね。
当然、いろいろ無理があるので(特に設地圧が高くなりすぎ滑走路を破壊する可能性が出て来る)
量産型では、こういった普通の4輪式に変更されております。
この時代の軍用機はいろいろ迷走してるなあ、という部分の一つでしょう。
こちらはB-36に搭載されていたリモコン式収納型20o機関砲塔。
これが二基並んで胴体上にあるのですが(それが前後に2セット、さらに機体下面に1セット、計6つの砲塔があった)、
空気抵抗を減らすため、通常は機内に格納されてしまってました。
必要な時にパカっとフタが開いてこの砲塔がにゅっと出て来るのです。
今見てもなんとも特撮的なデザインですが、これが機体内に収納される、と聞いて、
それって未来少年コナンのギガントじゃん、と連想できる人は何人くらいいるでしょうか(笑)。
未だにコナンのギガント戦は日本の創作史上最高傑作の一つだと個人的には思ってるのですが。
ちなみに航続距離を延ばすため、後にB-36は全機、軽量化改造を行われるのですが、
最大の重量物であり、さらに故障も多かったこのリモコン砲塔は、その時に全て取り外されてしまったそうです。
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