■ジェットの時代だ
朝鮮戦争は空の戦いがジェット機時代に突入した後、最初の大規模戦争だったのですが、
そこで明らかになったのは、第二次大戦期から開発されていたアメリカのジェット戦闘機が
すでに完全に時代遅れになっていた、という事でした。
その第一号、ロッキード F-80Cシューティングスター。
アメリカ軍における2番目の、そして実質的には最初の(笑)ジェット戦闘機です。
なんで「実質的に最初」か、というと一番最初のベルP-59は完全に失敗作で無かったことにされてしまったから。
第二次大戦には間に合わなかったものの(ヨーロッパ戦線には持ち込まれたが実戦出撃はしてない)
Me-262辺りが相手なら、互角以上に渡り合えたと思われる戦闘機でした。
ところが大戦終戦後5年が経って始まった朝鮮戦争では完全に時代遅れとなっており、
ソ連製のMig-15に歯が立たず、結局、地上攻撃機という、当時のジェット戦闘機に最も不向きな任務に投入されます。
(ただし朝鮮戦争における世界初のジェット機どうしの空中戦は
このF-80とMig-15によるものでアメリカ側の主張によれば、1機を撃墜した、としてるが…)
とりあえず第二次大戦終了に伴って生産が縮小されたため、1700機ほどで生産が打ち切られていたのが、
せめてもの幸い、といった所でしょうか(これはドイツのMe262の約1400機とほとんど変わらない数)。
ちなみに前線の視察に来たロッキード社の設計責任者“ケリー”ジョンソンは、爆弾積んだF-80を見て、
なんて使い方をしてやがるんだ、とショックを受けた、といった話も残っておりますが、
現実にはもはや戦闘機としては使えなかったのです。
展示の機体は実際に朝鮮戦争に投入された後、ウルグアイ空軍に供与され、
その後1970年にこの博物館に寄贈されたものだとか。
実戦では使えなかったジェット戦闘機第二号、リパブリックF-84Eサンダージェット。
第二次大戦集結後の1946年2月に初飛行した、アメリカの第二世代ジェット戦闘機だったのですが、
これもすでに朝鮮戦争時には時代遅れだったことが判明、主翼下に爆弾が見えてるのからわかるように、
これまた対地攻撃に投入されました。
展示の機体では爆弾積んでますが、実際はロケット弾と高性能火炎弾、ナパーム弾が主要な武器だったはず。
ただし地上部隊との連携任務ではなく、主に輸送路を断つため鉄道や道路攻撃に投入されていたようです。
戦闘機としてはMig-15に全く対抗できないと判明した後、ノースアメリカン社のF-86にその座を譲るのですが、
この辺り、P-47とP-51の関係の再現のようでもあり、興味深い所です。
それでも新世代の主力ジェット戦闘機として、4500機近くが製造されてしまってたため、
アメリカの反共産主義活動の一環としてアジアや南米の同盟国にばら撒かれる事になりました。
ちなみに後に戦術核も搭載可能な後退翼型、F-84の“F型”が登場しますが(冷戦編で出て来ます)、
F-86の“D型”と同様に、これは事実上、ほぼ新設計の別の機体です。
ロッキードF-94A スターファイア。
上のP-80の複座練習型、T-33の機首部にレーダーを積み、
4門の12.7o機関銃を載せた全天候型戦闘機です。
F-80ではなくT-33が使われたのは、パイロットとは別にレーダーと火器管制をする搭乗員が必要なので、
最初から2名乗りの機体が選ばれたからです。
機首が不自然に長いのは、レーダーと真空管による大型電子装置を積み込んでるため。
後に先端部の武装がロケットランチャーに変更されたC型も出てくるのですが、
そちらは冷戦編で登場します。
本来はアメリカ本土の防空戦闘機として開発された機体ですが、朝鮮戦争中は
日本本土の米軍基地の防衛用、さらに夜間爆撃に出撃していたB-29の夜間護衛機としても使われてました。
ちなみにアメリカ空軍の戦闘機では最初にアフターバーナーを搭載した機体でもあります。
アメリカ本土防空用の全天候型戦闘機、すなわち夜でも雨の日でも、飛行可能で、
ソ連から飛んでくる戦略各爆撃機を迎撃できる機体としては、
1948年に初飛行してたノースロップ F-89 スコーピオン(冷戦編で登場)が決定してました。
ところが、これの開発が遅れまくってしまい、アメリカの空の防衛が空白を生じたため、
こういった既存の機体を改造した全天候型戦闘機が急造されることになるのです。
とりあえず、そんなその場しのぎな機体ながら、800機以上が造られてます。
この辺りも当時の核爆撃に対するアメリカ軍の迷走がうかがえるところではありますね。
とういうわけでソ連の脅威、Mig-15
bis。
1947年12月に初飛行、朝鮮戦争が始まる前年、1949年から配備が始まっていたジェット戦闘機です。
ちなみに現在までに最も大量生産されたジェット戦闘機でもあり、ソ連本国だけで12000機以上、
ポーランドとチェコスロバキアなどのライセンス生産分を含めると18000機以上は生産されたと見られてます。
(現在確認できる限りでは中国がミグ戦闘機の生産を始めるのはMig-17以降なのでこの機体は無いはず)
開戦から半年足らず、1950年の11月ごろにソ連からパイロットごと支給を受けた機体が
朝鮮半島上空に現れ、アメリカが投入していたF-51D(P-51Dの空軍呼称)、F-80を次々と撃墜し、
国連軍を軽いパニックに追い込んでしまいます。
驚いたアメリカ空軍はあわてて最新鋭の機体、F-86セイバーを朝鮮の空に送り込むことになるのでした。
ちなみにソ連軍空軍が介入してる事、ソ連人パイロットが参戦してる事は公然の秘密だったのですが、
あくまで北朝鮮軍の機体とパイロットであるとソ連は主張しており、
さらにソ連と本気で事を構える気が無かったアメリカもこれを黙認してました。
ソ連軍と戦ってる、という事が公になった場合、一歩間違えると第三次世界大戦になりかねず、
朝鮮半島というアメリカにとって心底どうでもいい地区で、そんな冒険を犯す気はなかったのです。
展示の機体は1953年9月に北朝鮮のパイロットが操縦して韓国に飛んできたもの。
この時期になると北朝鮮も独自のパイロットの育成が出来ていたようです。
ちなみに当時、アメリカ軍はMig-15を持ち逃げして来たら賞金あげるよ、という宣伝ビラを
北朝鮮にばら撒いており、それを目当てに数機のMig-15が1953年に投降して来てます。
最初は3月にポーランドからソ連軍によって北朝鮮に連れて来られた
パイロットが自分のポーランド軍のMig15で飛んで来ました。
彼は賞金を受け取り、さらにアメリカの市民権ももらってます。
ただしこの機体はポーランド軍の所有だったため、返還要求を受けて数週間の調査後には
ポーランドに向けて船便で送り出されてしまってます。
(この辺りは後に日本に飛んできたベレンコのMig-25の扱いに似ている)
そのせいか、本来は10万ドルだった賞金の内、半額しかこのパイロットは受け取ってないようです。
まあ、それでも当時としては大金ですけども。
さらに9月になると、この機体が北朝鮮のパイロットによって金浦基地に投降して来ます。
ちなみにこのパイロットは賞金の事を知らず、あくまで政治亡命だったようです。
(アメリカ空軍によればそれでも賞金は渡した、との事)
でもって、この機体は北朝鮮の所有なんですが、北朝鮮軍が返還の問い合わせを無視したため、
これ幸いと沖縄の基地に持ち込んでテストを行い、その性能を把握することに成功します。
その時のパイロットの一人が人類初の音速男、チャック・イェガーで、彼によると
操縦が難しい危険な機体で、特に急降下ダイブに入ると操縦が困難になりやすかったようです。
ただしデータを取ってみると最高速度こそ互角だったものの、
運動性では多くの面でアメリカのF-86の性能を上回っており、
この衝撃が後にアメリカ空軍の不遇の天才、ジョン ボイドがエネルギー機動理論、
そしてOODAループ理論を生み出す原動力となって行きます。
ところがソ連空軍部隊は北朝鮮とソ連国境付近からは南下せず、北朝鮮側も
韓国上空まではほとんど飛んでこなかったため、その性能でも
朝鮮戦争において、共産主義陣営が完全な航空優勢を握れなかった結果に終わります。
F-86が登場した後の朝鮮の空は、ソ連・中国国境線付近を別にすると、
ほとんどアメリカ空軍がその航空優勢を確保していた、と見ていいでしょう。
そのMig-15の高性能を支えたVK-1遠心ターボジェットエンジン。
遠心圧縮なので円盤型のエンジンであり、右側の筒部はただの排気ノズルです。
でもってこれ、イギリスの遠心ターボジェット、ニーン(Nene)のコピーなのでした。
第二次大戦終結直前、1945年7月(ドイツはすでに降伏済み)にイギリスでチャーチルから政権を奪った労働党は、
その名の通り共産党よりで、このエンジンのソ連への売却を認めてしまったのです。
軍用に転用しない、という条件で1946年から47年にかけて50基前後が売られたのですが、
スターリンの共産党がそんな約束を守るわけもなく、どうも労働党は底抜けのマヌケ、という印象がありますね。
ちなみにニーンはアメリカのプラット&ホイットニー社にも正式にライセンスが売られており、
このJ42エンジンはアメリカ海軍のF9Fパンサーに積まれてましたから、
米ソ両軍が同じエンジンで対峙した、という不思議な戦争でもあったのです。
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