■アメリカ陸軍大型機編

さて、今回は残りのアメリカ軍機とついでに日本機も見て、
一気に第二次大戦期の展示を片付けてしまいましょう。
まずは大型機から。



コンソリデーテッドB-24D リベレーター。
B-17と並んで第二次大戦期の主力戦略爆撃機として活躍した機体です。

初飛行は1939年12月とB-17より4年も遅く、完全な新世代機でした。
このため、航続距離、爆弾搭載量などでB-17を上回り、さらに途中から大量生産の権化、
フォード社がその生産に参加した事もあって、約19000機、すなわちほぼ2万機近い生産がなされ、
多発エンジンの爆撃機としては世界最大の記録を保持してます。

これはアメリカ軍に限れば過去最大の数が造られた軍用機でもあり、
P-51もP-47もこの4発爆撃機より少ないのです。
むちゃくちゃだよな、フォード、という感じですね。
(途中から生産に参加したフォードだけで8000機、4割以上を造ってしまった。
フォード以外にもノースアメリカン、ダグラスも生産に参加していたのに。
ちなみに本家のコンソリデーテッドは二つの工場でより長期間生産しながら工場一つのフォードとほぼ同数)

ただし、書面上の性能ではB-17を上回ったものの、操縦にやや癖があり、
特に低速飛行時は操縦が厄介で、事故が少なくなかったとされます。
さらに堅牢性についてもやや弱く、撃たれればすぐに落ちる、という印象が
アメリカ陸軍の兵士たちに持たれ、このため、B-17の方が現場では好まれました。

ただしヨーロッパ戦線における第8航空軍の実際の損失を見ると、

B-24  損失機数 約1000機
B-17 損失機数 約3100機


とB-17の方が圧倒的に多くなってます。
実際に出撃した作戦数と損失数の平均を見ると、以下の通り。

B-24 出撃作戦数 約3460 1回あたりの平均損失 0.29機
B-17 出撃作戦数 約7170 1回あたりの平均損失 0.43機


これもB-17の方が1.5倍近い損失率であり、必ずしもB-24が撃墜されやすい、とは言えません。
ただし特に損失の大きかった、護衛戦闘機なしの初期の作戦では主にB-17が使われており、
このためB-17の方がどうしても数字が大きくなってしまうので、
実際は両者はほぼ同じような損失率だったのではないかと思われます。
(数字はダックスフォード帝国戦争博物館の資料による)

ただし事故損失率を見ると話は逆で、全損失中、訓練中を含めた事故損失機の比率は

B-24 約48%
B-17 約34%


とB-24の方が圧倒的に多くなってます。
やはり扱いにくい機体だったのは事実のようで、
どうもこの辺りが現場で嫌われた原因ではないかと思われますね。
といってもB-17でも3割以上が戦闘以外の事故損失な訳で、
戦争ってのは大変だなあ、と思わずにいられないところです。
ちなみにこの辺りは後のベトナム戦争でも変わりませぬ。

展示の機体は1943年に北アフリカに進出したアメリカ軍が使用していたもの。
何度も損傷を受けて44年には退役、以後、本土に送り返されてしまった機体のようです。
その後の履歴がはっきりしないのですが、とりあえず1959年とかなり早い段階で
自力で飛行してこの博物館に持ち込まれています。

ついでに塗装はアメリカ軍が北アフリカ、地中海方面で利用した乾燥地帯向け迷彩ですが、
これもあくまで地上で駐機中に見つかりにくいように、という塗装です。
高高度を飛行するB-24に砂漠の色塗っても飛行中は何の意味も無いですから。

余談ですが、この機体の塗装は空軍博物館にしては珍しく、
キチンとオリジナルの状態を再現したものとなってます。
が(笑)、ノーズアートの横に描かれた機体の愛称が、
Strawberry BITCH と凄まじいもので、よくこれそのまま残したな、という感じです。
歴史的展示物、ってことで誰も目くじら立てなかったんですかね…。
(直訳すると赤いメス犬、赤毛の尻軽女、と言った意味で、
あまり上品な意味ではなく、ウーマンリブ運動の皆さんが顔色変えるような名前。
ちなみに日本語訳だとBitch を売春婦とすることが多いが、普通にメス犬と言った方が
ニュアンス的には近いような気がする。
ちなみによく知られた罵倒言葉、Son of a bitch にはちゃんと相手の父親を罵るバージョンもあり(笑)
こっちはSon of a gun と言います。大砲が何を象徴するかは判りますね…)



スペリー S-1爆撃照準器。
アメリカの爆撃照準器といえば、既に見た自動操縦までやっちゃうノルデン式が有名ですが、
こちらも1943年ごろまで使われていました。
特にB-24はこれを搭載していた機体が多かったようです。

この照準器、なにせ資料が少ないのでよく判らん部分も多いのですが、
どうも自動操縦まではできず、ノルデンに比べるとやや旧式なものだったみたいですね。



マーチンB-26Gマローダー。
前回来た時は機首部がまだ完成して無かった機体。

アメリカの双発爆撃機といえば、例のドゥーリトル爆撃にも使われた
ノースアメリカン社のB-25があまりにも有名ですが、このB-26も5000機以上が造られてます。
(B-25は9800機以上、ほぼ1万機なので、それと比べると約半分だが)
初飛行もB-25が1940年8月、このB-26が11月なので同世代機と考えていいでしょう。
参考までに両機の識別は簡単で、機首部が滑らかな円錐型で垂直尾翼が1枚なのがB-26、
機首部がほとんど絞り込まれず、2枚尾翼なのがB-25です。

ちなみに大戦中にはA-26 インベーダーという双発攻撃機もあり(朝鮮戦争編で登場予定)
これが戦後、B-26と改名されてしまったため、非常にヤヤコシイ事になってます。
第二次大戦中のB-26と大戦後のB-26は実は全く別の機体なのです。
前者がマローダー、後者がインベーダーです。
なんでこんな変な命名をやったんでしょうね、アメリカ軍…

でもってB-26では初期の機体で工作不良ではないか、という事故が多発、
脚は折れる、プロペラピッチのピッチ変換機構がすぐ壊れて
プロペラごと吹っ飛ぶ、などの悲劇に見舞われたとの事。
この結果、アメリカには何機も存在する(笑)、ウィドーメーカー、後家造り、
すなわち搭乗員殺しな機体としてその悪評は広く知られていたようです。

でもって、これらの欠陥は間もなく改善されたのですが、それでも事故は減りませんでした。
この機体は妙に重く(タイプにもよるがB-25より平均2トン近く重い)
着陸に必要な速度が速かったため(速度が落ちれば主翼の揚力も落ちる)、
そういった機体になれてなかったパイロットにより着陸事故が多発する事になったのでした。
ただし逆に言えば着陸さえ気を付ければ問題ない、ともいえるわけで、
後にこの点が広く理解されると、事故はかなり減ったとの事。

でもって、実は実戦での損失率はアメリカの全爆撃機の中で最も低いとされ、
戦闘損失率は1%を切っていた、とする資料もあります。
本当なら事実上の不死身じゃないの、という感じの数字です。
ただしイギリスを拠点としていた部隊の損失は確かに低かったものの、
地中海、そして太平洋畝面ではかなりの損失があったらしいので、やや怪しいです。
とりあえず言われてるほど悪い機体では無い、くらいに考えて置くのが良いかもしれません。

展示の機体はパリ解放後の自由フランス軍が使用していたもので、
戦後、1965年まで現役だったそうな(ただし整備学校の所属なので地上教材の可能性が高い)。
その後、どうやってこの博物館に来たかは不明。



双発の大型機ですが、アメリカ陸軍の分類では攻撃機となる、ダグラス A-20G ハボック。
Havocは大崩壊、といったような意味で、なんか微妙な気もします…。

ただし実際に戦争が始まってみると、こんな大型な機体で地上軍との協力、近接支援攻撃は不可能、
と速攻で判明したため、実際はほぼ小型爆撃機として運用されて行く事になり、
すでに見たようなA-24(ドーントレスの空軍版)の採用、そして後で登場するA-36アパッチの開発が行われるのでした。
ちなみにアメリカ軍が最初にヨーロッパ本土に対して行った爆撃は、この機体によるものとされており、
1942年7月4日に、ドイツ占領下のオランダにある航空基地を襲撃してます。

なんだかんだで7000機以上は生産されてるんですが、
その内4割以上、約2900機はソ連に送り込まれてるので、あまりパッとしない機体だった可能性もあります(笑)。
ついでに一部はP-61が登場するまでの繋ぎとして、夜間戦闘機に改造され、P-70の名をもらってます。

写真のG型はまともな爆撃はあきらめて、火力を強化したタイプの機体で、機首部の爆撃手席を廃止、
そこに12.7mm機関銃6門を搭載してしまった、戦争でもやる気か、という機体。
ちなみにこのG型が最も多く、2800機以上生産されたのだとか。
(ただし初期のG型は20o×2、12.7o×4の搭載だった)

展示の機体の由来はよくわからず、とりあえず1961年にシカゴの企業から
この博物館に寄贈されたのを、南太平洋戦線の仕様に塗装したものだとか。
ちなみにA-20は意外に現存機は少なかったりするので、貴重な展示ではあります。



ボーイング B-17G フライングフォートレス。

戦略爆撃空軍であった第二次大戦時のアメリカの事実上の主力機。
あまりに有名過ぎて書くことがないですね(笑)。

第二次大戦が始まるはるか前の1935年に初飛行した機体ですが、
終戦に至るまで一線級の能力を持った機体のままでした。
最終的にドイツが降伏する1945年5月(B-29の生産開始後だ)まで生産は続き、
12500機以上が生産されています。
つまりこの排気タービン搭載エンジン四発搭載の爆撃機は
日本のゼロ戦よりも、というか日本のあらゆる戦闘機よりも大量に生産されたのでした。

そもそも1935年初飛行で排気タービン搭載4発エンジン、というのはベラボーな装備で、
かなり速かった当時の航空技術の発展の中でも、
その先進性は、以後、10年間に渡り全く陳腐化しませんでした。
アメリカの軍用航空技術が、初めてヨーロッパのそれを突き破った機体と言っていいと思います。

すでに書いたように1934年に募集されたB-10の後継爆撃機競作では
ダグラスのB-18に敗れたのですが、その性能を惜しんだ陸軍が少数の生産を発注、
細々とながら生産が行われる事になりました。
(実際の競作飛行は初飛行後の1935年。さらにここでB-17は事故を起こしてしまい、
これが競作に負けた原因とされたが、実際は高すぎて当時の陸軍には買えなかっただけ。
そもそも事故原因は舵に取り付けた地上用固定具の外し忘れで機体の欠陥ではなかった)

このため当初はわずか1936年初頭に13機が発注されただけで(後にB型の原型となる試作機1機追加)、
以後、予算は付かずにそのまま生産が打ち切られそうになってました。
あわてた陸軍は予算をやり繰りして10機だけの追加生産(最初の改良方のB型)を発注し、
なんとか生産ラインを維持したものの、結局、初飛行から5年経った1940年までに
総数25機前後が生産されただけで、あって無いような存在だったのです。

ところが1939年にナチスのハイテンションちょび髭がヨーロッパで第二次大戦を開始、
1940年の6月にはフランスと低地諸国を完全に粉砕、その支配下に置いてしまいます。
これに驚いたアメリカ議会はようやく512機の追加生産を許可、
さらに1941年8月にルーズベルトの命令で参戦に必要な航空戦力を見積もった
ハロルド・ジョージ率いる航空戦計画部(AWPD)の要求によって、
一気に大量生産への道が開かれたのでした。

もしナチスのハイテンションちょび髭が戦争を始めなかったら、
そのまま歴史の狭間に送り込まれて忘れ去られていた機体でしょう。
ちなみにその作戦計画、AWPD-1ではB-29、さらにはB-36まで入っており、
B-17とB-24はそこまでの繋ぎの“中型爆撃機(Medium bomber)”の分類になってます。
これで中型かよ、という感じですね。

ついでに今さらですが、爆撃機の機首部が眺めのいい特等席になってるのは
地上の目標を照準する爆撃手があそこに座るからで、
天井まで窓なのは上からも一定の明るさが無いと下向きの照準付のスコープが暗くて見えないからです。

展示の機体もオリジナルの塗装を再現されたB-17Gで、1944年3月からイギリスで作戦に参加、
直後と言っていい5月に作戦中にエンジンが故障したために中立国のスウェーデンに緊急着陸、
そのまま拘束されてしまったもの。
後に戦後、1968年になってからなぜかフランス国内で破棄状態になってるのが見つかり、
これがアメリカ空軍に寄贈されたのだとか。
ちなみに1978年までデラウェア州の基地で保管されていたようで、
そこでレストアされ、自力でこの博物館まで飛んできたそうな。


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