■空の戦争の始まり



さて、今回は第一次大戦の機体たちを見て行きます。
ライト兄弟の初飛行(1903年12月)からわずか10年半(1914年7月)の時間を経て始まったこの戦争で
航空機は兵器として本格的な運用が開始され、一気にその完成度を高めて行く事になりました。

ただし、この時代の航空戦力は単なる補助戦力に過ぎず、空を制する者が戦場を制する、
という第二次大戦以降のような状態ではありません。
理由は単純で、エンジンがパワー不足で対地攻撃に使えるまともな爆撃能力が無く、
さらに機体も軽量な合金、ジュラルミンが本格的に採用される前で
木製がメインですから、地上に脅威を与えるほどの重量級の兵器の搭載には耐えられません。
(飛行船には既にジュラルミンが普通に使われていたし、ユンカースが実験的な金属機は造っていたが)

つまり制空権を押さえたところで、後は地上も海上も攻撃し放題にはならないのです。
できるのはせいぜいイヤガラゼ程度の地上攻撃、
あとは偵察、着弾観測による砲撃の誘導くらいなものでした。
ただしドイツは飛行船、および巨大な飛行機を使ってのイギリス爆撃をやってますが、
これもイヤガラセの域を出てません。
よって、せいぜい補助兵力に過ぎず、このため第一次世界大戦後も、
世界中の陸軍、海軍共に航空機はあくまで補助戦力、という考えが抜けませんでした。

ちなみにアメリカは開戦から3年近く経った、1917年4月に正式参戦するのですが、
この段階で陸軍は132機の航空機を保有してるだけでした。
さらにそれらのほとんどは時代遅れの練習機、偵察機で、
アメリカは既に航空に関しては完全に後進国となっており、
戦場に送り込まれたパイロットたちはヨーロッパ製の機体で戦う事になります。
よってこの展示もメインはそういったヨーロッパ製の機体たちです。



第一大戦期の機体の構造模型。

この時期の航空機は、ごらんのように木材製の空飛ぶ家具のような存在でした。
実際、ヨーロッパでは戦争中の増産で、ピアノ製造会社が機体の製造を請け負ったりしてます。
自動車工場が航空機製造に活躍した第二次大戦とはかなり違う話なのです。

これは当時、普通に使えた金属、鉄や銅などでは重すぎて飛べなかったからで、
ここに羽布とよばれる布を貼り、ドープと呼ばれる一種のニスを塗って完成でした。
(後にエンジンパワーが上がると骨組みだけは鋼管製になってゆくが、
外皮を含めて機体全体を金属にするにはジュラルミンの量産と加工技術の完成を待つ必要があった)

モデルは1917年に初飛行したアメリカの機体、トーマスモース S-4(Thomas-Morse S-4 Scout)ですが、
ご覧のようにエンジン周辺部分まで完全に木製で、この点に関しては、
前回見たライト兄弟やカーチスの機体となんら変わりがありませぬ。

この構造では敵の本土を焦土化する戦略爆撃はおろか、対地攻撃すらあまり期待できませんから、
その戦力としての重要性は、後の第二次大戦以降とは全く異なるものでした。
特に第一次大戦の最前線は塹壕戦、地面に穴を掘った戦いでしたから、打つ手がありません。
地面の下にもぐられてしまうと爆風で吹き飛ばせないため、第二次大戦期の
急降下爆撃機どころか、ベトナム戦争時代でも効果的な攻撃は困難でした。
ましてやこんな機体では、ほとんど無力だったと思って間違いないでしょう。

よってその仕事は、偵察が主力で、あとは戦線後方のむき出しの物資集積所への爆撃、
移動中の脆弱な敵への空襲、といったくらいになってきます。
無いよりはまし、あれば便利、という世界なのです。

この点を理解して無いと、第一次世界大戦時の空戦がよく理解できませんから要注意。
空の騎士道なんてのが成立したのは、それほど致命的な戦力では無かったから、という事です。



でもってこちらがトーマス モースS4C偵察機の実機。
アメリカ参戦の年、1917年から製造が始まったもので、初期のB型が100機前後、
改良型となったこのC型を500機前後、あまり多数とは言えない機数をアメリカ陸軍は購入したようです。

一応、前線偵察機、Scout plane となってますが、実際はほぼ全てがアメリカ国内で
練習機として使われていたみたいですね。
1917年デビューで最高速度が時速95マイル(約152km/h)では
ヨーロッパの空では生き残れないでしょうから、当然の結果だったと思います。
ちなみにアメリカはいくつかの機体を第二次大戦中に生産してますが、
戦闘機とした使えた機体は一つもありませんでした。
この段階では、完全に航空後進国になってしまっていたのです。

ただしこれ、一人乗りなので、おそらく高等練習機でした。
先に2人乗りのカーチス JN-4Dジェニーなどで練習してから、
これでより実戦的な訓練をしたのだと思います。

展示の機体はフロリダ州の個人が所有していたものを、1965年ごろ、
デトロイトにある航空専門高等学校(Aero mechanics high school)がレストアしたものだとか。
専門高校がレストアした機体ってのは、ちょっと珍しいと思われます。



でもってこちらが二人乗りの初等練習機、カーチス JN-4Dジェニー。
シカゴの産業科学博物館にもあったあれです。

第一次大戦期を代表するアメリカの機体で、戦後、大量に民間に払い下げられた結果、
アメリカの航空発展に大きく寄与する事になった機体でもあります。

これはそもそもは民間機で、1916年から製造されていた機体でした。
それを1917年にアメリカが参戦するとなって、陸軍信号隊(まだこここが航空機の運用をしていた)が
大量に購入、終戦までに6000機近くが軍に納入されたと見られています。
当時としては膨大な機数で、アメリカの航空戦力の基礎となったのがこの機体と思っていいでしょう。

展示機はテキサスの個人が所有していた機体で、1956年にこの博物館に寄贈されたもの。

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