■三方が原の戦い
さて、そこの展示で最も力が入れられていたものが、
武田信玄と徳川家康が激突した、三方が原(みかたがはら)の戦いでした。
この合戦は戦場が浜松市内でしたからね。
この時、家康は信玄の軍団に一蹴されてしまうのですが、
それでも信長、秀吉、家康のホトトギス3人組みの内、唯一、信玄と戦ったのが家康でした。
この3人組の内、おそらく野戦をやらせたら最強だったのが家康とその家臣団で、
浜松引っ越しと同年に行われた姉川の戦いなどにおいても、本体の信長軍を差し置いて、
合戦の行方を決定するような活躍をしてます。
(ただし城攻めに関しては天才としかいいようがない秀吉の敵ではないだろう)
その家康が、数の上で不利だったとはいえ、一蹴されてしまったわけですから、
当時の信玄軍団の無敵ぶりがうかがわれます。
残念ながら、この直後、真冬の行軍が祟ってか、信玄は体調を崩し、
京都へ上る途中で死亡してしまうわけですが。
(そもそもこの西方進撃には無理があり、もともと病気で、
そのため急いで行動に出た、という可能性も高い)
…さあ、ここからが大脱線だ(笑)。
この天守閣での展示は一度、置いておいて(笑)、
以後は甲陽軍鑑、信長公記、三河物語を資料に、ちょっと詳しくこの戦いを見て置きましょう。
この三冊の内、筆者本人が戦場に居たと思われるのは三河物語(大久保彦左衛門)、
居た可能性が高いのが甲陽軍鑑(高坂弾正)、
聞き取りによる第三者の執筆となったのが信長公記となります。
他に主な三方が原の戦いの記録としては当代記がありますが、
これは後代の記述で、必ずしもあてにならないので無視します。
また、いろいろ言われる甲陽軍鑑ですが、歴史的記述はある程度信用していい、
というか意識してウソをついてる部分は意外に少なく見え(素で間違えてる、という部分は多いが)、
一族の自慢話が多くてイマイチ信用に欠ける三河物語より信用は置ける気が個人的にはしてます。
ちなみに司馬遼太郎さんも、その作品で何の注記もなく、甲陽軍鑑に載ってる話を
バンバン引用してますから、これを信頼していた、という事になります。
司馬さんがそこまで判断してたなら、私がとやかく言う事は無いです。
最初に信玄の西方進出大作戦(仮称)について、見て置きましょう。
甲陽軍鑑によると1572年(元亀(げんき)3年)旧暦10月中旬、すなわち現在の暦だと11月ごろ、
信玄は甲府からその主力3万人の軍団を率いて西に向かい始めます。
なんでそんな季節に、と言えば北の越後に居る上杉謙信が動けななくなる雪の季節を待ってたからでしょう。
ただし、この寒空の下で長距離移動のため、後に信玄は体調を崩し、死去する事になったと思われます。
ちなにに、なぜ甲府から西に出撃したの、というと三河物語によれば
京都に信玄に組するものが多く
「三河へ出て、それより東美濃へ出て、それより切って上がらんとて」の事とされます。
すなわち三河(愛知県東部)から美濃(愛知西部 名古屋周辺)へ抜け、
そのまま京都まで攻め上がろう、
当然、途中の妨害は全て蹴散らして行こう、という事だったらしいです。
京都に上がってどうするの?といえば、室町幕府に入れ替わるか、
あるいはそれを牛耳るかして、天下とったれ、という事なんでしょうね。
(天皇を利用しよう、というのは信長の独創に近く、信玄は考えてなかったと思う)
当然これは当時、破竹の勢いで勢力を伸ばしていた信長を粉砕して進む、
という事であり(尾張から先は信玄の同盟者が多いから楽勝だろう)、
途中の徳川家もやっちまえ、という事でもあります。
家康が浜松に移ったのは1570年(元亀元年)でしたから、引っ越して2年目の大ピンチでした。
どうにもいい迷惑だったのが徳川家、という感じですが、この直前に家康は北の謙信と同盟し、
信玄包囲網を造っておりましたから、自業自得、という面もありました。
この信玄を刺激した同盟に信長は反対してたと思われ、
さらに自分の意見を無視して本拠地を東に移した家康を快く思ってなかったこともあってか、
この戦いへはそれほど真剣に援軍を出してません。
(わずか3年後(1575年)の、勝ちが見えてて自身までが出馬した長篠の戦いとは大違いとなった)
この結果、家康は生涯最大と言える大敗北を喫する事になるのです。
さて、またこの地図を。
信玄の本拠地は甲斐の甲府であり、そこから京都に抜けるなら、直線で真西に向かうのが最短距離です。
が、天にまします神さんが試行錯誤しながら造ったらしい日本列島は品質が均一ではなく、
このため甲府と京都の間には2500mを超える尾根筋が連なる木曽山脈(別名中央アルプス(笑))が存在してます。
さらにその西には3000mを超える活火山、御岳山があったり、飛騨山脈(別名北アルプス(泣))の南部が
伸びてたりしており、そのまま大軍が西には迎えません。
そこで冬に木曽山脈をさけて平地沿いに京都に抜けようとすると、これは太平洋沿いに出るしかなく、
それは遠海国経由であり、これすなわち浜松直撃コースになるわけです。
この時、徳川家が手配できた軍勢は約8千人前後、織田家からの援軍が来てはいても、
歴戦のツワモノ信玄率いる3万を超える武田軍相手では、どう考えても負けは見えてます。
徳川家史上、最大のピンチ、到来です。
浜松城の展示から。信玄軍団の推定進出コースの図。
この辺り、どの砦が落とされたかは記録に残ってるので、ほぼ正確な推測でしょう。
画面左下の辺りにあるのが浜松城で、
中央を南北に流れてるのが天竜川です
浜松城から三方が原に向かってるのは徳川軍の推定進出路ですな。
でもって三河物語によれば、この年1572年(元亀3年)の初め、
今川家がボロボロになったのを見て信玄は家康と協定を結び、
天竜川を境に、その東を信玄が、西を家康が切り取ってしまおう、という事にしてました。
(この辺り東西からドイツとソ連に攻め込まれた1939年のポーランドに似てる)
ただし天竜川なんて既に切り取っていた浜松の目と鼻の先に過ぎず、
家康はより東の大井川を境にすることを望んでいたのですが、
三河物語によると、信玄がこれを拒否したようです。
ただし、この分割協定が結ばれた年に関しては、
司馬遼太郎さんなどは浜松に引っ越した1570年(元亀元年)説を取っており、
私も前後の事情からして、1572年に話が来た、とは思いかねる部分です。
そもそもそのために浜松に本拠地を移した、と考えた方がいろいろ辻褄があって来ます。
が、実際には信玄が駿河の国(静岡県東部)に兵を出してる間に、
家康はさっさと天竜川の東岸も取り込んでしまい、現在の掛川市西部の辺りまで、
その勢力圏内に収めてました。
このため、信玄は甲斐から南下しつつ、天竜川東岸にある砦を
片っ端から踏みつぶして進撃する事になります。
それがこの地図の東側から南下し、進行してくる信玄軍となります。
この1572年の進撃では、信玄は主力を率いて京都まで長期間出かけてしまうわけですから、
隣国である徳川領の主な軍事施設は叩き潰しておく必要があります。
留守の間に甲斐の国にちょっかい出せなくするためで、
よって徳川家の主戦力も、当分、立ち上がれないくらいに叩いておく必要があるのです。
このため、信玄軍の浜松方面進出は不可避と見るべきでした。決戦は不可避なのです。
ちなみに、この点をキチンと見抜いていたのは家康ただ一人で、
この人もやはり只者ではありませぬ。
再度その地図を。
信玄の西方進撃が天竜川から浜松に直行せず、一度北上してるのは、
この辺りでもっとも強固だったらしい砦、そして信濃に向かう
秋葉街道ににらみを効かしていた二股城を落とすためでした。
さらに、ここを残したまま浜松に向かうと、背後から挟み撃ちにされる可能性も出てきます。
ちなみに二股城攻めは、この城が水を天竜川から汲んでいたため、これを妨害し、
水不足によって城を明け渡させる事に成功、力攻めせずに済ましてます。
三河物語も、甲陽軍鑑も、この点は一致してるので、水を奪っての持久戦は事実のようで、
とにかく片っ端から力で蹂躙してたわけでは無いんですね。
(甲陽軍鑑によると城を守っていた中根、青木の武将はそのまま浜松に引いたとされる。
この内、青木又四郎は後に三方が原の戦いで戦死)
ちなみに同じく甲陽軍鑑によると後に長篠の戦いで惨敗する信玄の息子、武田勝頼が
この城攻めでは活躍したとされます。
後の三方が原の戦いでも勝頼の活躍が甲陽軍鑑に出てきますので、
この人も勇猛ではあったようです。
ただし甲陽軍鑑の言う所の“強すぎる武将”であり、自分を頼むところが強すぎて
失敗するタイプなんだよね、と解説されてますが。
さて、その後、武田軍団は、いよいよ南下して浜松に向かいました。
この地図では、なぜか天竜川を東に渡って、再度西に渡りなおす、
という変なルートになってますが、この根拠となった資料を私は知りません。
普通に考えると二股城から秋葉街道沿いにそのまま南下したと思うんですが。
大軍の進撃にはこれ以外に適した道がなかったはずですから、
とにかくそのまま行けば浜松、というルートに入りました。
この間、浜松城では年寄(宿老)と家康が対策を必死で協議する事になり、
そこに織田家からの援軍が到着する事になるのです。
(信長公記では二股の城が責められた、と聞いて信長は援軍を出発させたとしてる。
ただし堀江城の攻防中に浜松着、としてるが堀江城は浜名湖岸で浜松の先であり、間違いだろう)
ところが信玄は浜松城の直前までくると、急に転進し西に向かってしまい、浜松城直撃コースを外れ、
西の台地、三方が原(味方が原とも書く)に向かって上って行くのです。
この転進は城からわずか1里、約4qほど北の有玉(浜松基地の東に当たる)周辺、
当時は欠坂(かけさか)の砦があったあたりで行われたとして、この地図には書かれてます。
(現在でも秋葉街道の有玉の辺りから西に向かうと、間もなく台地に上る坂になる)
司馬遼太郎さんもこの説を取ってますが、少なくとも先に上げた三つの資料では、
この地の名前は見えませんから、その情報の出どころはよくわかりませぬ。
とりあえず、これが事実なら人間が歩いても1時間前後の距離ですから、
まさに浜松の直前で針路変更となったわけです。挑発してる、とも見れます。
さて、これによって、とりあえず信玄が南下を止め、
少なくとも浜松城が信玄軍の直撃を受ける事はなくなりました。
これが旧暦だと元亀3年12月22日、太陽暦だと年が明けた1573年1月25日の事です。
真冬の冬至の直後の日の短い季節だ、というのに注意してください。
ところが三河物語によると、その直後、家康は城を出て信玄軍を撃つ、と言い出します。
驚いたのは家臣の宿老たちでした。せっかく信玄がこちらを無視して行ったのだし、という事で、
多勢に無勢、ここはやり過ごすべきだ、と進言します。
ところが家康は
「己の領地の裏庭を多勢で押し通る敵を見逃すヤツがあるか。負けようが勝とうが一撃を加えるのだ。
とにかく合戦だ。戦は数の大小じゃない、天運しだいなんだ」
と、この人の言動としては珍しく男気あふれる発言をして打って出た、とされます。
まあ、その結果、一方的に蹴散らされるのですが(笑)。
この行動を家康が血迷った、と見る話が多いですが、血迷ってるのは、
このまま信玄が徳川軍を無視して西に向かう、などと考えてた能天気な人たちでしょう。
家康の判断は間違ってません。間違ったのは、後で見るように、この決断が遅すぎた事でした。
そもそも信玄が浜松に近づいた目的は家康の主力軍の殲滅にありました。
でなければ、二股川の城からそのまま西に向かえばいい話です。
が、この段階で、徳川家の主戦力を温存させたまま、信玄が西に向かうわけはありません。
そんなことをしたら、留守の間に徳川家は喜んで甲斐に攻め込んでゆくでしょう。
さらにこの後の織田軍との戦いでは背後から突かれる恐れが出てきます。
となると、信玄は徳川軍殲滅のため、どこかで必ず決戦を挑んで来ます。
徳川軍は潰して行かないとならないのです。
そして信玄としては城攻めは時間が掛かるので、短期決戦の野戦に持ち込みたいと考えるはずです。
となると、浜松城下に攻め込まず、その直前で方向転換して誘い出すのが最良の策でした。
(なので信玄が浜松を素通りしようとした、と考えるのもおかしい。
実際、どの資料にもそんな話は出てこない)
当然、家康はそこまでは読んでたでしょう。城攻めは無い、と彼なら考えたと思われます。
そして同時に、このまま武田軍が去る事もない。
となると主導権を握られる前に、追撃、有利な状況で決戦を挑もうと考えたはずです。
この点までは、間違ってはいないのです。
問題は敵が武田信玄だった事でした。
信玄はさすがに戦上手で、後で見るように、高台の三方が原に陣取ってしまい、
結果的に、これは完全に家康が誘い出される形になってしまいます。
三河物語を読む限り、家康としては、三方が原の台地を超えた西の先、
祝田(ほうだ)と呼ばれる川沿いの低地に
信玄の大軍が降りたところで背後から襲う考えだったようです。
これなら家康軍が三方が原の大地の高台から低地に居る信玄軍を押さえつける形になり、
数は少なくとも有利に戦いは始められる、と踏んだようでした。
もし信玄が家康の行動を読み違えていれば、それこそ信長の桶狭間のような戦果も
期待できたかもしれません。
が、20歳以上年上で経験も積んでる信玄の方が(家康31歳、信玄52歳)
やはり一枚上手で、三方が原の台地上の有利な位置に留まると
台地を降りず、そこで行進をやめて陣を展開し始めてしまいます。
三河物語では、徳川軍の攻撃が早すぎたから祝田に行く前に決戦となった、とされますが、
甲陽軍鑑を見る限りそんなことは書いてないですし、
信玄は最初からそのつもりだった、と見るべきでしょう。
こうなると、後から追いかける形になってる家康は
三方が原にいる信玄に上から頭を押さえつけられる形で陣を構えるしかありません。
弓であれ、突撃であれ、重力を利用できる上方が有利なのはこの時代でも変わりません。
数で劣る以上、この段階で勝敗は決した、と言っていいでしょう。
ただし甲陽軍鑑によると信玄側もそう自信があったわけではなく、
特に徳川方と戦って疲れたところを、織田家の援軍に叩かれる、
という展開を恐れていたとされます。
よって当初はここで戦うか迷っており、偵察によって徳川方が思ったより手薄な事、
援軍の織田家の軍隊がどうもやる気が無い感じな事を見て取り、
(織田家の軍は出撃前に信長から無理をするなと言われていた、と司馬遼太郎さんはするが、
これがどの資料から出て来た話なのか私は知らない)
信玄はようやく勝利を確信して、この日の内に勝負する事に決します。
このためもあって、戦闘開始は午後4時〜6時近く、おそらくほぼ日没直前となりました。
寒かったでしょうね。
この時、もし万が一にも家康に勝機があったとしたら、
とにかく秋葉街道を南下してくる信玄を迎え撃つため、
さっさと城を出て、武田軍団を横から突く形になるように、
三方が原へ先に布陣してしまっておく、というものだったでしょう。
が、これは城を捨てる、という勇気ある決断が必要で、
さらに残念ながら、その決断は既に遅すぎたのです。
このため、家康は、3万もの人数の武田軍をほぼ上に見る形で
三方が原の下から向かえ撃つ形になったと思われます。
(甲陽軍鑑によると信玄軍は三方が原の上、犀が崖周辺に布陣した。
ここから南東に向けて下り坂となるので、
おそらくその下に徳川側は布陣することになったと思われる)
逆に言うなら、敵の地元でこれだけ有利な地形を利用した信玄恐るべし、です。
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