■合戦開始
さて、もうちょっとだけ、脱線は続きますぜ。
天守閣の中で展示されてた合戦図。
この合戦における武将の配置とかは記録が無いはずで、この図の根拠はさっぱりわかりません(笑)。
そもそも織田家の援軍も資料ごとに内容が異なるのです。
それぞれに出てくる織田家の家老衆を上げると、
■信長公記 佐久間信盛 平手汎秀 水野信之
■三河物語 名前が出てくるのは平手汎秀のみ
■甲陽軍鑑(三方が原の記述がある品四十九ではなく品十四にこっそり出てるので注意)
佐久間信盛 平手汎秀 水野信之 安藤守就 林信勝(誰だ?)ら9人(4人名前がわからない)
この中で、平手だけが討ち死にしてる、というのは全ての記述が一致してます。
さらに後に佐久間信盛が信長から追放された時、
三方が原で平手を見殺しにした、という罪状が見えるので、
この二人が参戦してたのは間違いないようです。
それ以外は保証外となります。
ちなみに彼らの陣容もよく判らず、甲陽軍鑑によると平手が織田軍の大将として全軍を指揮し、
徳川軍の九の軍団(九手)に織田家の軍団を合わせて十軍団、十手であるとしてます。
ただし、織田軍の人数の記述は一切なく、これは他の資料も同じです。
よって徳川方が全部で何人だったのか、全くわかりませぬ。
三河物語では、徳川方8千人、という数字が何度か出てくるのですが、
これが織田軍を含むのか、別なのかはこれまた不明なのです。
ただし甲陽軍鑑には織田の援軍は「人数多といへども」という記述があるので、
少なくとも数千人は居たと思われます。
その一方で、同じ甲陽軍鑑で、敵の人数は「味方五分の一」としてるので、
三河物語の言う所の8千人、が全軍の人数だったような気もします。
とりあえず、人数では武田側に完全に負けていたのは事実でしょう。
ただし、よく言われるようにやる気のない織田軍の援軍から崩れて負けた、
という話はこれもどの資料にもそんな記述はなく、怪しいです。
さて、話を戻します。
ここで、もう一度、同じ写真を。
とりあえず細かい布陣はともかく、武田軍がこの図に似た魚鱗の陣、
対して徳川軍がこれを迎え撃つための鶴翼の陣だったのは
三河物語に出てるので、ほぼ間違いないと思います。
よって、大よその陣形は、この図のような感じ、と思っていいでしょう。
そして、これは推測ですが、甲陽軍鑑の記述が正しく、信玄が風邪でボケてなければ、
間違いなく、武田側が高台に居たと思われます。
(司馬遼太郎さんもほぼ同じ説を取るが、こちらの根拠は不明)
武田軍の魚鱗の陣形は突撃突破陣形で、狭い範囲に兵を集中させ、
この突破力によって敵の中央を粉砕、そのまま本陣を殲滅するものです。
対して徳川軍の鶴翼の陣は、中央の精鋭軍団が敵の進撃を正面から受け止めて足止めし、
その間に左右に伸びた両翼の兵がこれを取り囲んで包囲殲滅する、という陣形です。
数で優位の武田軍が攻勢の陣形で一気に踏みつぶそうとし、
数で不利な家康がそれを受けて立つ陣形を取ったわけです。
両者とも、定石といえる戦術を選んだことになります。
ちなみに鶴翼の陣とは陣形が全く異なりますが、発想としてはハンニバルが
カンナエの戦いで数で優るローマ軍を完全に包囲殲滅した戦術に近いものです。
(カンナエでは左右の騎兵の利用が前提になってるから陣形はもっと短い)
ただしこの戦法を取るには、敵の攻撃をひたすら受け止める中央の部隊が、
最後まで持ちこたえる必要があるのですが、相手が武田軍ではこの点は難しかったわけです。
さらに後で見るように、どうも家康は自ら前進してしまってます。
ついでに、この図では徳川軍の中央に家康となってますが、特に資料に記述はないものの、
この点は普通に考えて、この通りだと思います。
さらに徳川側は、包囲戦を行う両翼の戦力が少なく、包囲殲滅は心もとないものでした。
三河物語でも自陣について「手薄く見へたり」と書かれており、現場で見ても不安だったようです。
信玄側も甲陽軍鑑によれば「ただ一かはなり」と布陣が薄い事を指摘してますから、
どうもよほど人数は少なかったように見えます。
その後、日没直前に始まった合戦の経過についても資料ごとに記述が異なるのですが、
武田側の郷人、あるいは水股の者と呼ばれる身分の低い兵が一斉に前に出て
投石する事で始まったというのは、信長公記、三河物語に共通なので、確かでしょう。
鉄砲をほとんど持たなかった武田軍ですが、この投石部隊がその代わりとなってました。
徳川軍は武田軍と何度か小競り合いはやってますが、信玄本隊との衝突は初めてで、
この戦法には面を食らったと思われます。
この投石部隊に関しては、ほとんど記録が無いので詳細は不明ですが、
おそらく手ぬぐい、あるいはシャモジのような投石機を使って威力を上げていたと思われ、
少なくとも普通に手で投げていた、という事はないはずです。
それじゃさすがに戦力にならんでしょうから。
さらについでながら有名な武田の騎馬軍団ですが、
武田軍は通常、騎馬突撃などはやってないそうで、
甲陽軍鑑では三方が原でも長篠でも、騎馬突撃なんてやってない、と断言してます。
ちなみに信長の影響で、ある程度の鉄砲部隊を持ってたはずの家康ですが、
連れて行かなかったのか、使う前に乱戦になってしまったのか、
少なくとも合戦本番では、鉄砲部隊の話はどの資料にも全く出てきません。
(後に夜襲で使ったとされるが)
あれば優位に立てたと思うんですが、この辺りはよく判らない部分ですね。
その後の合戦の経緯は資料ごとに記述が異なるので、ざっとまとめると以下の通り。
■信長公記
武田軍の投石部隊の攻撃後は詳細な記述無し。
その後、戦闘の終わり近くになって武田軍に中央突破された家康は、
単騎で脱出、途中、先回りした武田の兵を騎乗からの弓で射殺して駆け抜け、
無事に浜松城に帰還。その後、城の守りを固めた。
■三河物語
武田側の投石部隊の攻撃後、家康側が攻撃に出て武田軍の先鋒、二の手までを切り崩し、
さらに交代して出て来た敵陣も突破、信玄の旗本(この場合は本陣の事)まで切り込んだが、
ここで温存されていた信玄直属らしい部隊が時の声を上げながら反撃に出てくる。
この新手を少数で予備戦力もない徳川軍は押し返せず、その敗北が決まると、
家康は部下がバラバラになって簡単に討ち取られないよう、円陣型を維持して退却をはじめた。
その後、無事に浜松城に戻るが、先に逃げ帰った連中が家康は討ち死にされた、
と報告していたりして、軽い混乱があった。
夜に入ってから信玄の本陣がまだ犀が崖に居るのを知り、
大久保忠世が鉄砲隊による夜襲を家康に進言、これが認められて実行される。
約百丁の鉄砲を敵陣に撃ち込み、これを見た信玄は三方が原から撤収した(さすがに翌日だろうが)。
■甲陽軍鑑
まず家康の旗本(これも本陣の事)が、武田四天王の一人、
山県昌影率いる武田軍の先鋒を押し返し3町(約330m)も後退させてしまう。
この点については“山県日来に違い”と、あの山県が、と驚きをもって書かれてる。
さらにこの時期は武田についていた、家康をよく知る山家三方衆も
その勢いに飲まれて先に逃げ始め、4丁(約440m)も下がってしまう。
そこに家康方の酒井忠次が乗じて山県勢に襲い掛かった。
特に書かれてないが、おそらくこの辺りが中央軍どうしのぶつかり合いだったと思われる。
同時に左手では小山田信茂がこれも徳川勢に押され、3町ほど後退するも、
ここに武田四天王の一人、馬場信春が駆けつけて押し返し、徳川勢を敗走させた。
(この小山田信茂を先の投石部隊の指揮官とする小説などがあるが、
そのような記述は、これら三点の資料には一切ない)
この間、中央で家康旗本により山県勢、山家三方衆が押し込まれてるのを見ていた
信玄の息子の武田勝頼が、大文字の旗を掲げながら、
横から斜めに家康の本陣に突入して行く。
この結果、家康旗本を突き崩して形成を逆転、山県勢も酒井勢に対して逆襲に転じた。
この状況で信玄は兵糧の担当だった小荷駄奉行である甘利衆(信忠か?)に
横槍を命じ、そこに居た米倉丹後守の一団が酒井勢に横から突入、これを敗走させ、
その後、徳川軍全体が敗走に転じた。
結局、武田軍は先鋒とその次の二の手の戦いだけで決着が付き、
この間、信玄の旗本(本陣)、その後備は全く動かなかった。
記述は無いが、前後の状況からして、日没前には勝負がついたと思われる。
徳川の敗走を見た信玄は、これは信長の罠で、
追走した先に信長軍の伏兵がいるのでは、と疑い深追いはしなかった。
さらに本陣とは別の場所に篝火を点け(すて篝)、夜襲に用心したが敵は来なかった。
翌13日になって家康側が多少の斥候を出してくるが、穴山信君(梅雪)の勢に打ち取られてしまう。
一方では、浜松城を攻めるかが協議されるが、城を囲っても落すのに20日は掛かる、
この間に信長が後詰で出て来る可能性を恐れ、これを諦める事に決する。
ついでながら、三方が原の戦いに関する記述がある品四十九とは別に、
品十四に三方が原の時、信玄軍で犀が崖から落ちた者があったが、
これは敵を追って行った結果で、非難されるような筋合いはない、と唐突に書かれてる。
ただし前後関係が不明で、よく判らず。
こうして見ると三河物語と甲陽軍鑑ともに、
家康の旗本が信玄軍を一時的に圧倒したとするのは変わりません。
ただし先鋒も二の手も突破して、信玄本陣まで突入した、とするのが三河物語、
対して苦戦したのは先陣のみで、二の手によって徳川軍は撃破された、
信玄本陣は全く仕事が無かった、とされるのが甲陽軍鑑となります。
私は現場に居なかったので断言はできませんが、前後の状況からして、
甲陽軍鑑の記述の方が実態に近い気がします。
ついでに夜襲の記述も全く異なり、やってやった、効果絶大だった、とするのが三河物語、
そんなのそもそも無かった、とするのが甲陽軍鑑の記述です。
これも三河物語がちょっと怪しく(笑)、この夜襲の功を大久保忠世のものとしてますが、
これは筆者の大久保彦左衛門(忠教)の兄であり、彼はその配下にありました。
つまり自分の一族、そして主の自慢話になってます。
実際に夜襲があったとしても、例の偽装された篝火に対するもので、
実害はなかったんじゃないかなあ、と思います。
また信長公記だと、退却中の家康がワンマンアーミー ヤング家康と化して大活躍
となってますが、三河物語では集団で撤収したことになってます。
これは後者が正解でしょう。作者はおそらく現場に居た人ですし。
ちなみに三河物語の中で彦左衛門ちゃんは信長記の1/3は嘘だ、と非難してますが、
家康配下の彦左衛門ちゃんが信長の事をそこまで知っていたと思えず、
これは“家康に関する記述は”といった意味なんじゃないかと思います。
ただし信長公記ではなく、信長記、としてるので娯楽小説版の甫安信長記の事かもしれません。
(1623年(元和8年)に出版されてるので、彦左衛門ちゃんも読んでるはず)
ちなみに司馬遼太郎さんの小説を始め、家康が敗走中に漏らしちゃったとか、
浜松城に帰った後、篝火をたかせ、門を開けたままにしたため、
信玄軍は用心して攻め込まなかったといった話が出てきますが、上記の資料には
一切そんな話は出てきません。
何か元ネタがあるのか、完全なフィクションなのかはよくわかず。
後者、門をあえて開けて置いた、といった話は戦国策か墨子に似た話があったので、
その逸話のパクリのような気がしますが…。
ちなみに完全な負け戦ながら家康は無事帰還、
さらに物主(配下の兵を引居る将)、大名衆と呼ばれる
主な武将たち、酒井忠次、本田平八郎、本多忠勝、石川数正なども一人残らず生還してます。
おそらく日没に助けられたのと、先に見たように信玄が伏兵を警戒したのとで
無事に逃げ延びだたのだと思いますが、これによって家康の軍勢は
かろうじて、壊滅を逃れることになるわけです。
といった感じで、大脱線、終了です(笑)。
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