■国民党政府がやって来た
さて、その後、1945年(昭和20年)に日本が連合軍に完敗、無条件降伏したことで
台湾は中国(中華民国)に返還され、日本統治時代は終わりを告げます。
台湾は爆撃は受けたものの、アメリカの地上軍はここを素通りし、
フィリピン、マリアナ諸島から沖縄に向かってしまったため、
悲惨な地上戦には巻き込まれませんでした。
余談ですが、1945年に日本が無条件降伏した時、
その降伏相手である連合軍に含まれていたのは
中華民国、すなわち現在の台湾にある政府です。
つまり、共産党軍、現在の北京に居る中華人民共和国相手には
日本は降伏してませんし、そもそも宣戦布告もなく戦闘すらほとんどやってません。
中国の現地に居た支那派遣軍も、降伏相手は国民党軍でした。
(さらに厳密にいうなら、そもそも国民党相手でも日中戦争は両者の思惑から
宣戦布告がなかったので、降伏、という表現が適切か微妙な部分がある)
なので理屈の上では、現在の共産党支配下の現中国が
“対日戦勝記念”をやる資格も根拠もないのです(笑)。
事実上も、書類上も、勝利はしてないんですよ。火事場泥棒もいいところでしょうね。
フランスがちゃっかり戦勝記念日のパレードに参加してるのを見ると
いや、君ら何もしてないじゃん、と思ってしまいますが(笑)、
それでも連中はドイツと日本の降伏文章にサインしてますから、
最低限、その資格はあります。
現在の共産中国には、その資格すら無いはずなんですけども…。
話を戻しましょう。
戦後の台湾の事情をキチンと理解するには
中国の近代史を軽く理解する必要があります。
が、あの国の近代史ほどよく判らんものはなく、さらに独自の文化的な背景を知らないと
何やってんだかもよくわからん、という世界が待ってます。
なので、ここでは最低限の単純なお話だけにしておきます(手抜き)。
ちなみに、中国人以外によく理解できない風習というは多く、
20世紀初頭の段階ではこれが色濃く残っていて、その歴史の理解の障害になりやすいです。
例えば、号という風習。
これは一定の社会的地位のある人間がやる習慣で、自分が自分に名付ける一種の匿名です。
そして目下の人間が目上の人間を呼ぶ場合、基本的はこの号で呼びます。
中国では目上の人間の本名を呼ぶのは失礼に当たる、という風習があったためです。
(他人に付けてもらった字(あざ)という名もあり、これを使う事も多い。
諸葛孔明なんかは孔明は字(あざ)で、本名は亮である。
諸葛孔明と呼ぶのは一種の尊称というか、謙譲となる)
例えば中国、台湾どちらの中華国でも、国父とされる孫文ですが、
彼が自分でつけた号は中山(ヂョンシャン)であり、通常、
中国でも台湾でも、孫文とは呼ばず、この謙譲呼びとでも言うべき孫中山を使います。
(姓はそのままで名だけ替える。さらに普通は先生をつけて孫中山先生となる)
恐れ多くて、孫文とは呼べない、という事です。
この辺り、孫文を平気で連呼する日本人は、中国人から見たら、
なんて失礼な連中だ、という事になるんでしょうね。
中国建国の父、孫文さん。
愛すべき大間抜け、というのが私の評価です。
それ以上でも、それ以下でもない人物でしょう。
その号が中山なので、中国でも台湾でも、この展示のように孫中山先生と書かれる事が多いです。
ちなみに中国、そして台湾中にある中山という地名は、ほぼ全て孫文から来てます。
が、これが地名くらいなら別に問題ないですが、歴史的な文章でも
皆、敬意を表して号で呼ぶため、中山って誰?という混乱を生じます。
そもそも本名から類推できるような名では無いので、知らないとどうしようもない、という世界です。
さらに孫文以外でも当時の清国政府の高官の多くが号を持っており、このため、
そもそも誰が誰なのか、という把握すら門外漢には困難だったりします。
例えば清国海軍の李鴻章なんかは儀叟という号をもっており、
多くの文献でこの名で登場するのです。
当時の中国の文献を読んで理解するのは中国語の知識だけではどうしようも無いんですね。
(この辺り、日本の戦国時代の資料に似てなくもない)
さて、そういった難解な中国の風習を全て無視して(手抜き)、
大雑把に中国の近代史を説明すると、
これは既に20世紀に入った後の1912年の清王朝滅亡から始まります。
1894年の日清戦争を生き延び、1904年に始まった日露戦争に巻き込まれながらも、
20世紀まで生き延びてきた最後の王朝、清ですが、さすがに1911年に起きた
辛亥革命によって命運を断たれます。
最終的には1912年に正式に宣統帝が退位して、
ここに清が滅び、中華民国が中国の新しい政府となるのでした。
(余談だが日本が関係した明治、大正の戦争は全て4の付く年に10年おきに発生してる。
日清戦争が1894年、日露戦争が1904年、第一世界大戦が1914年。
ちなみに太平洋戦争の開始は第一次大戦開始から1と4を入れ替えた1941年だ)
さて、この辛亥革命の中心になったのが、中国各地で清王朝打倒の活動をしていた
各種政治団体で、革命前、ばらばらだったそれらをまとめ上げたのが孫文でした。
日本の東京で組織された、その政治団体が中国同盟会であり、
1905年に設立された、この政治団体の総理に収まったのが孫文だったのです。
これが後に国民党へと発展してゆく事になります。
このため、孫文は近代中国の父とされ、後に日本以外の後援者を求めて
ソ連とも接近、中国共産党の誕生に間接的に関係したため、
中国共産党、そして国民党、すなわち中国と台湾、両者から英雄視されています。
実際は、それほどの人材ではないんですけどね(笑)。
ちなみに孫文本人は辛亥革命には参加してないんですが(アメリカに居た)、
すでに中国同盟会の総理であり、知名度も高かった孫文が帰国すると、
革命で設立された中華民国の初代大統領(正式には臨時大統領だったらしい)に指名されます。
ちなみに、革命に成功と言っても中国南部の各地が清朝からの独立を宣言しただけで、
中国の北半分はまだ清王朝が実効支配しており、
このため中華民国の首都は当初、南の南京に置かれてます。
ただし経済的、軍事的な背景の無かった孫文と中国同盟会は、
革命後の1911年以降、まだ北で生き残っていた
清朝を完全に打倒する手段を持ちませんでした。
そこで清朝の元総理大臣で、当時失脚中で南部に逃げ延びていた
袁世凱と手を結び、清の皇帝である宣統帝に退位を迫ります。
清軍部に多くの内通者を持っていた袁世凱により、
最終的にこれが成功、ようやく清朝を倒して、中国全土の統一を果たすのです。
ところがドンスコイ、この取引の見返りに
袁世凱は中華民国の大統領の座を求めて来ます。
武力的にも経済的にも何ら基盤を持たない孫文はこれを拒否できず、
就任からわずか1年ほどで大統領を辞任、袁世凱にこれを譲ってしまいます。
ちなみに袁世凱は辛亥革命とは全く無関係で、孫文らの民族革命の思想を知らず、
どうもこの革命を歴代中国の革命と同じ、すなわち、新しい王朝をつくるもの、
程度に考えてたフシがあります。
実際、彼は後に国名を中華帝国とあらため、ちゃっかりその初代皇帝に就任してしまいます。
ただし、これが中国全土に大混乱を招き、彼は失意のうちに病死するのですが。
話を少し、戻します。
袁世凱が大統領となった後、1913年に孫文率いる中国同盟会は国民党と名を変え政党となり
中華民国の最初に国会選挙に臨み、第一政党の座を占める事になります。
現在の台湾に居る国民党のルーツがこれですね。
この結果、大統領である袁世凱と激しく対立、ここで軍事力を背景とする
袁世凱が国民党の弾圧に出たため、第二革命が勃発(辛亥革命が第一革命)、
再び中国は内戦に突入して行く事になるのでした。
その後の大混乱をイチイチ説明してると、終わらなくなるので
とりあえず最終的には孫文の率いる国民党が1922年、ソ連の支援を受けて再度、
中国を支配する組織となります。
その後、1925年2月に死去するまで、孫文は大元帥の肩書で
その支配者の地位にとどまる事になりました。
ただし当時の中国では、各地で軍事力を抱えた軍閥が乱立、
半独立状態で存在していたので、あくまで肩書だけの中国の最高責任者、
という部分がありましたが。
その孫文の死後、国民党指導者の地位についたのが蒋介石でした。
この男は近代史上まれに見る人間のクズでスカタン野郎ですが、
政治的な駆け引きには長けておりました。
このためルーズベルト率いるアメリカ政府の支援をとりつける事に成功、
これを利用して日中戦争中は日本相手に必死に戦うふりをして(笑)、
さまざまな支援を引き出し、自らの支配力を強めて行きます。
(同じようにアメリカの全面支援を受けたソ連は4年でドイツを打ち負かしてしまったが、
中国は8年かかって最後の最後まで、たかが日本軍相手に何もできなかったに等しい。
同じ独裁者でも、これがスターリンと蒋介石の違いなのだ)
左の頭髪に問題を抱えた男が蒋介石、右が美人で有名なその奥さん、宋美齢。
(ただし実際はそれほど美人でもないのだが…)
Madame
Chiang
Kai-shek(蒋介石夫人)の名で1940年代、
アメリカでもっとも有名で、かつ人気があった東洋人が、この人でした。
中国の上流階級出身の女性で、中学から大学までアメリカで過ごしたため、
英語は流ちょうで、さらにクリスチャンでもありました。
このため、アメリカの社交界でもマスコミでも
大人気となり、そこで自分に有利な話ばかりを流したため、
結果的にアメリカが中国共産党の実力を見誤る原因の一つを造りました。
アメリカの大統領夫人が政治を動かしてしまった例は珍しくないですが、
近代の東洋の女性で、こういった影響力を持った人は珍しいんじゃないでしょうか。
でもって日中戦争、第二次大戦を通じて結局何もしてなかった中国の国民党ですが、
アメリカの活躍で日本が負けると、ちゃっかり勝者として日本の降伏文章にサインしてます。
これによって中国は国民党のモノになり、
先に見たように、これによって、台湾は中国国民党の支配下に入るわけです。
ところが当時、中国国内では共産党が徐々に支配力を強め、
蒋介石の下で腐敗しきった国民党政府を圧迫し始めてました。
(その後の歴史を見ればわかるように共産党が清廉潔癖の完璧軍団だったわけではない。
国民党よりはまだマシだ、という程度の話である)
ちなみに国民党と蒋介石がどれだけ腐っていたか、という話の一つとして、
当時のアメリカの軍事顧問の証言があります。
彼が顧問を務めていた国民党軍の師団に対する武器の補給が一向に来ないので、
アメリカ本国に問い合わせると、とっくに荷下ろしした、との事。
驚いた彼が現地の国民党の担当者に電話で問い合わせると、関税の支払いがまだなので、
師団に送るわけには行かない、と答えられ愕然とするのでした。
君たちが共産党軍に負けないよう無償で供与した武器に、
税金をかける馬鹿がどこに居る、とどなりつけると、
あなたは蒋介石という人物を全く理解してないね、と言われ、
電話を切られてしまったそうな。
そんなワケでいわゆる国共内戦において、共産党に圧倒された国民党軍は、
完全敗北となる直前の1949年12月に、その首都を海の向こうの台湾に移します。
これは共産党軍には十分な渡海能力が無かっので安全だった事、そして日本の統治によって、
台北には首都として十分な機能を果たせる設備があった事、などが理由でしょう。
が、突然やって来た本土人たちに対する台湾側の抵抗も強く、
このため、蒋介石率いる国民党は台湾人に対する不当逮捕、
そして虐殺に近い弾圧を繰り返してゆく事になります。
その後、中国南部の奥地ともいえる西昌にあった最後の国民軍による大陸の拠点も
1950年4月に陥落、さらに台湾と同様に国民党軍が入っていた海南島は、
大陸からわずか20q前後しか離れていなかったため、あっさり共産党軍に渡海されてしまい、
これも同年5月に陥落してしまいました。
その後、1950年代に何度か紛争が起き、その中で北部の台州列島を中国が奪い返したため
以後、大陸から170q近く離れた台湾本土と、
中国大陸沿岸部の島、金門島と馬祖周辺だけが国民党支配下に置かれたまま残ります。
そして戦後に中国全土を奪回した共産党政府は北京を首都と定めて中国を名乗り、
こちらは中華人民共和国となります。
対して、台湾に逃れた国民党政府も、中華民国の存続を主張しており、
こちらも自分こそが中国ある、としております。
この結果、世界には二つの中国(China)がある、という不思議な状態が
2016年現在に至るまで続いてるのです。
そして当初、西側諸国は国民党を支持してましたから、アメリカを始め、
日本も含めてすべて、台湾を中国と認めてました。
共産中国は、西側諸国では国家として認定されてなかったのです。
ところが、ニクソン大統領が1971年に突然、ベトナム戦争のいざこざを水に流し、
北京の共産党中国を訪問、共産中国とアメリカの関係が新な段階に進みます。
さらに1979年にはアメリカが共産中国と国交を樹立したため、
台湾の中華民国政府とは国交断となってしまいます。
ちなみ日本はそれより早く、1972年に共産中国と国交を結んでいたため、
台湾は次々と国交断絶をされてしまう事になり、現在は
中南米やアフリカなど、先進国を含まない22カ国とのみ国交を維持している状態となってます。
(例外的に宗教を否定する共産主義を嫌う教皇のバチカンは国交を残してる)
この辺りが中国と日本と台湾の微妙な関係に繋がってるわけで、
記事中でも、機会があれば何度か見て行くことになるでしょう。
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