■2014 バンコクの基礎知識■

さて、今年は10年ぶりにタイ王国の首都、バンコクに行ってきました。

タイは日本語で言うところの旧シャム王国ですから、シャムネコの本場…
のはずなんですけど、今回は全く見かけませんでした。
(ちなみにシャムは日本語発音で、現地でも英語でもまず通じない)

そんなタイで有名なのは海辺のリゾート、古い寺院遺跡、
さらにバンコクを中心とした歓楽街(そんなたいしたもんじゃないのだが)、
といった所ですが、私の主な目的は
博物館に展示された飛行機などの写真撮影となります。
…はい、あるんですよ、そういうタイ観光も(笑)。

バンコクは東南アジア最大級と言っていい規模の軍を運営して来た実績と、
近代戦で本土が戦場になった事がほとんど無いため、
(厳密には日本軍と連合軍相手に数回あったが被害は小さい)
非常に多くの貴重な兵器遺産が残っているのです。
まあ、それだけではさすがになんなので、普通の観光もやって来ましたが。

とりあえず最初はタイとバンコクの簡単な基礎知識から。



タイは東南アジアの中心部、インドシナ地域のほぼ中央に位置します。
バンコクはそのやや南、タイ湾からチャオプラヤー川を20q程北上した位置にあり、
その70q北には一つ前の王国、アユタヤ王国の旧都、
アユタヤがあり、こちらも今回は訪問してます。

インドシナは英語のIndo-Chinaのカタカナ表記で、
これはインド中国地域といった、結局どっちやねん、という名前です。
植民地時代のヨーロッパ系の皆さんがつけた名前ですから、
なんとも頭が優れない命名で、もう少しなんとかなりませんかね、これ。

そのインドシナの一部ですから、
タイは本来なら東南アジアになると思いますが、
ベトナムと同様に中国文化の強い影響下に置かれていたため、
日本や韓国と同じ、中国文化圏の一部、
と考えても大筋では間違いではないかもしれません。

実際、街中には意外なほど漢字が溢れてますし、
干支の十二支なんかもありますからね。
(十二支はモンゴルの呪いによってロシアにもあるけど(笑)…)

さらに、現世利益を強く願う欲望系宗教、
道教の影響もかなり根強く見られますから、
上海、香港といった南方中国文化圏あたりと比べても、
ほとんど違和感がありません。
(よく似たヒンズー教も入ってるので、ちょっとややこしいが)

もっともメンツと体面をやたらと重視するアホな思想体系、
孔子の野郎様による論語、儒教はほぼ普及してません。
この辺りは、日本、中国北部、朝鮮半島とは異なる部分で、
特に日本や朝鮮のように金儲けを卑しい行為と見なす文化は全く存在せず、
中国南方地域と同じように、カムカムマネーは美徳ですらあるようです。

さらにタイの特徴は、インドやイギリスと同じように、
征服民族が他の地域からやって来て原住民族を征服、
支配王朝を成立させた点でしょう。

こういった歴史を持つ国は、階級社会のイギリス、
カースト制度のインドからわかるように、支配者階級(征服民族)と
労働・農民階級(被征服民族)で
露骨な差別が存在する場合が多いです。
そして、タイも例外ではありません。

実際、20世紀初頭まではタイの社会は強烈な差別社会で、
上流階級のフゥ・ディ(Phu di)と、市民階級というよりは
下層階級と言った方が実態に近いフュライー(Phrai)に別れ、
官職は世襲制で完全に上流階級のフゥ・ディ階級の独占となっていました。
さらに下層階級の大半は奴隷だったとされます。

ちなみに上流階級のフゥ・ディ(Phu di)は
大きく二つの階層、王族と爵位持ちの貴族に分かれてましたから、
なんとなくイギリスの階級制度に似てます。
この上流階級、フゥ・ディ(Phu di)階層の主が、中国南部から侵入してきた
モンゴロイド(中国人)系のタイ族だったのは間違いありません。

下層階級のフュライー(Phrai)には、もともとこの地域に住んでいた住民たち、
征服されてしまった褐色肌のマレー系の人々が属する事になります。
ただし下層階級のフュライー(Phrai)にもモンゴロイド(中国)系の
人々が多少は居たようですが、
その逆、上流階級のフゥ・ディ(Phu di)に褐色肌の人種が入り込むことは、
ありえない状況だったようです。

実際、ここ30年くらいのタイの首相を見ると、
クーデターで軍人がその地位に就いた場合を別にすれば、
ほとんどが中国系、あるいは元貴族系の出身です。

現在ではそこまでヒドイ差別は無いようですが、
それでも外部の観光客の目で見ると、
両者の区別はそれなりに露骨に残ってるように見受けられました。

さらに今回、改めて驚いたのは芸能人、広告のモデルなどで、
褐色肌のマレー系の人をほとんど見かけなかった点です。
私が見たその手の人たちは、全員、モンゴロイド(中国)系でした。
ここまで露骨だったかと、今さらながら呆れましたが、
タイという国には、どうもそういった一面があるようです。



バンコク周辺で行動してますと、外見にはっきりと違いのある人々を見かける事ができます。

まずは一般的な日本人とよく似た、モンゴロイド系、
まあ中国から南下して来たんだろうな、という人々で、こちらが上流階級に近い人種となります。
バンコク中心部、日本人から見ても高いな、
という交通費と物価の地域で見かけるのはほぼこちらの人たちばかりでした。



そしてこちらは褐色系の肌、おそらくマレー系に近いと思われる人々。
こちらは郊外からスラム一歩手前、という地域でよく見かけた人たちとなります。
もっともモンゴロイド(中国)系の皆さんでも、貧しい街並みで見かける事はありましたが、
その逆、褐色肌の皆さんを裕福な地域で見た記憶はほとんどありません。

両者はあまりに外見に差があり、800年近いタイの歴史でも、
混血はそれほど進んでないように見えます。
相当強力な差別社会が構成されているな、と思わせるものがありますね、タイ王国。

特によく言われる国内の経済格差は、アメリカの一部のように、
実は人種格差でもあるような気がしなくもないです。



ここで、その支配者階級、現在の上流階級を構成する
モンゴロイド(=中国系)のタイ族と
タイの歴史を少しだけ見ておきましょう。
今回の旅行記では必要な知識だったりもしますので。

この民族が大規模に中国方面から南下し、
この地域に入ったのは11世紀前後だと見られます。
日本だと平安時代末期ですね。
実際、タイ語は音を聞く限りでは中国語に近い感じで、
私なんかはよく聞かないと、どっちだか判断がつきませんでした。

その後、1250年ごろ、ほぼ中国を制覇し終わった
モンゴル帝国(後の元王朝)が南下を始め、
雲南地区にあったいくつかの国、そしてインドシナ方面を支配していた
アンコール王朝を大混乱に陥れ、やがて滅亡に追い込みます。

これに乗じてアンコール王朝の主要都市の一つだった
スコータイにタイ族による最初の支配王国、スコータイ王国が誕生します。
現在のタイ文字を生み出したのはこの王朝です。
おそらくハングルと同じように、為政者によって、
計画的に産み出された文字だと思います。

このスコタイがタイ族がこの地に建てた最初の王国なのですが、
ほぼ現在のタイに近い領域を持つものの、
現代のバンコク周辺、チャオプラヤー川南部流域は
その支配下には置かれてませんでした。
このためか、現在のタイ王国はこの王国とは別の系統、
次に登場するアユタヤ(サイアム)王国の後継である、
とされるのが普通のようです。

そして14世紀に今のバンコクの北70km程に位置する
アユタヤの街を首都とするアユタヤ王国が成立、
スコータイ王国を滅ぼして、タイの再統一を果たします。
有名なアユタヤ遺跡はこの王朝の旧都です。

ちなみに山田長政で知られる日本人街が作られたのも
このアユタヤ王国時代でした。

この国からサイアム(Siam=シャム)王国の名称も使い始めており、
以後のトンブリー王国と、サイアム(現タイ)王国は、
単に王朝と首都が変わっただけ、中身はアユタヤ王国の
正当な後継者、という扱いになっているようです。

ついでながらSiamはタイ語でも英語でも発音はサイアム、といった感じで、
どこからシャムという日本語の発音が出てきたのかは謎です…。
ちなみにシャムネコの英語はSiamese cat(サイアミーズ キャット)で、
シャム キャットでは通じませぬ。

とりあえずこの記事では、Siamはシャムではなく、
国際標準のサイアムに表記を統一させてもらいます。



現代のタイ王国に繋がる流れを生み出したのがアユタヤ王朝でした。

ついでながら現在残されているアユタヤの街は廃墟の遺跡ですが、
これは1767年のビルマ軍侵攻時の人為的な破壊によるもので、
歴史的には意外に新しい街だったりします。



このアユタヤ王朝の全盛期には、
タイ全土どころかカンボジア地域まで支配したようです。

カンボジアの有名なアンコール・ワット遺跡、
あの街(寺院)をアンコール王国が放棄して、
首都をプノペンに移す事になったのは、
このアユタヤ王国の侵略によります。

ちなみにアンコールワット周辺地域は当時から現代に至るまで、
タイとカンボジア両国が領有を奪い合っており、
未だに微妙な問題を抱える地域となっています。
なので、アンコールワットは両国にとってはデリケートな話題らしいです。

ついでにワット(Wat)はタイ語でも寺院、神聖な場所を指します。
バンコクの地図を見るとWat で溢れてますね。
ただし、ヒンズー系、道教系の寺院もWat になってますが。

そのアユタヤ王国は18世紀中盤、日本でなら江戸時代初期と
かなり近世まで存在していましたが、
やがて隣の国、ビルマ(現ミャンマー)軍によって攻め滅ぼされます。

このビルマ軍による1767年の首都アユタヤ制圧時に
多くの書物が焼き払われたため、
このアユタヤ王国に関しても、あまり資料が残ってないようです。

その後、1768〜1782年までのごく短期間存在した統一国家、
トンブリー王国がチャオプラヤー川の南部に首都を定めます。
これがトンブリーの街です。
この街は現在は拡張されたバンコク市内に飲み込まれてしまいましたが、
バンコクの中心部があるチャオプラヤー川東岸ではなく、西岸にあり、
1950年代頃までは、バンコクとは別の独立した街でした。

で、アユタヤ王国の場合、タイ族の別勢力に滅ぼされたわけではないので、
このトンブリー王国は、アユタヤ王国と同じくサイアム王国の別名も継承し、
むしろその後継として自らを正当化してるようです。

が、それが事実上のクーデターであっさり倒されてしまい、
現在まで続くチャクリー(Chakri)王朝によって
サイアム(Siam)王国が1782年に成立し、
バンコクに首都が移されて(川を東に渡っただけだが…)、現在に至るわけです。
(ちなみにトンブリー王国の初代王は発狂したので殺されたとされるが
これはその殺害を主導し後継者となったラマ1世による捏造で、
実際は暗殺だったと考えるのが自然だろう。
タイの資料などでは国民の推挙でラマが王となったと書かれてるが(笑)…)

この新しい王国は、今までの命名ルールだとバンコク王国となるんですが、
基本的にはサイアム(日本語でシャム)王国の名を継承し、別名は無いようです。
最終的に現在の名称、タイ王国(Kingdom of Thailand)となったのは
第二次大戦勃発後、そして日本がアメリカに
ケンカを売っちゃう前の1940年の事でした。

そんなわけで、900年前の昔にこの地に侵入してきたタイ族が、
13世紀以降、スコータイ王国、アユタヤ王国(サイアム王国)、トンブリー王国、
そして現在のタイ王国と、常にこの地域の支配者階級であり続けたわけです。

ちなみにタイは20世紀に入るまで奴隷制度があった国で、
19世紀ごろにタイを訪れた欧米人の記録によると
タイの総人口の1/3は奴隷ではないか、と指摘してますから、相当なものです。
朝鮮半島級の、アジア有数の奴隷文化じゃないでしょうか。
これらには戦争捕虜、あるいは山岳地帯の少数民族を捕らえたもの、
そして金銭的な問題から奴隷の身に落ちたもの、といった区別があったようです。

ちなみに、仏教寺院(Wat)にも専属の奴隷がいるのが普通でした。
まあタイの仏教にはそういった一面があります。
ついでに、これはチベット仏教も僧なんですが、否、そうなんですが、
男色、同性愛の文化が根強く、当時の欧米人が驚いてます。

ただし誤解無き用に言っておきますと、日本で世界遺産になってるような寺院も
江戸時代以前には薄汚い、としか言いようの無い事を平気でやってますし、
チベット仏教なんてさらにアレですから、
タイの仏教だけが堕落していたわけではありませぬ。

仏教というのは、そういう宗教なのです。
キリスト教なんかは清濁が両極端に分かれやすいのですが、
仏教は中途半端に濁の中に沈むのが普通のように見えます。
なぜかは知りませぬが(笑)。


NEXT