■メークロン号を一周せよ



なぜか船体後部横に艦名表記が。
แม่กลอง でメークロン、こちらはアルファベット表記でもタイ語でも発音は同じです。
ついでにタイ語表記ではHTMSといった冠頭詞はないみたい。

船体上に見えてるのは機雷です。



こちらは艦体下部を埋めてしまったため、外して展示されてる舵とスクリュー。

ここでタイの軍事博物館の基礎知識 1。
タイの人たちは、自分の好きな色で展示物を塗っちゃう傾向があるので(笑)、
塗装に関しては、全く参考になりません。

この展示も、金色の部分、現場の皆さんが、タイ人が大好きな
金色(仏像の色であり、お金を象徴する色)に
勝手に塗ってしまった可能性が否定できませぬ…。



スクリューは2軸だったようで、シャフトごと2本展示されてます。

これ、エンジン部の根元から外してあるようで、
スクリューのシャフトってこんなに長いんだと今さらながら驚く。



少し離れた斜め後ろから。
ね、スクリューシャフト、長いでしょ。

船体後部には日除けのキャンバスが張られていますが、
実際、南国には必須だなあ、と見学しながら思いました。

これは単に直射日光を避ける、というだけではなく、
強烈な日光によって船体が熱くなるのを避ける目的があります。

金属製のコンテナに入って夏の太陽の炎天下に置き去りにされたら
恐らく中の人間は熱中症と脱水症状で生死をさまよう事になりますが、
それに近い状態になるのが海の上の軍艦なのです。

下半分は海水に漬かってますが、水温だって30度近かったりするので、
力石に水、否、焼け石に水で、
中の人間は凄まじい環境に置かれる事になります。
実際、日本海軍の機関部では熱中症による死者が出た、
という話も聞きますし、アメリカ海軍の大型艦に第二次大戦期から
クーラーが付いてたのは、別に贅沢ではなく、
南太平洋が主戦場になるなら、無ければ死にかねん、という
切実な問題があったからです。

ちなみに個人的にずっと気になってるのが
水温10度以下がごく当たり前、というヨーロッパ最北の艦隊として建造された
バルチック艦隊が日本海海戦前に赤道を越えてる、という点です。
おそらくマトモな熱対策はなかったはずで、
当時はさらに運転条件が厳しい石炭による蒸気機関ですから、
相当、過酷な状況になっていたと思われます。

なので普通に考えると、日本近海に来た段階で、
既に機関員にかなりの欠員があったんじゃないか、と思うのですが、
残念ながら連合艦隊がことごとくこれを沈めちゃったので、
そこら辺りの正確な資料が残ってないのです。



艦中央部を横から。
普通の軍艦に比べて、船体に多くの窓が開いてますが、
これは恐らく先に書いた熱対策でしょう。

赤道まであと何マイル、というタイ近海で活動する以上、
せめて窓が開けられるようにしないと、死人が出かねませんから。

ついでに艦首部の第二砲塔前に、かなり大きなひさし、
波除けが付いてるのも注目。
このサイズで外洋航海までやる、となると、
あの位の位置まで波を食らう、という事なんでしょうね。

艦橋の屋上には背の低い覆いが見えてますが、
小型の軍艦らしく、あそこにむき出しの戦闘指揮所があります。

注目は艦橋後ろのマストのレーダー関係の装備で、
この艦、戦後に一度大幅な改修が行なわれてるのに、
探照灯の上にあるTの字型の小型レーダーくらいしか見当たりません。

あれ、おそらく航海用の民生レーダーだと思うので、
戦闘に使えるかは微妙でしょう。
となるとタイ海軍で1995年まで現役だったにもかかわらず、
この艦、まともな対艦、対空射撃管制レーダー、
それどころか警戒レーダーすら積んでなかった事になります。

展示にあたって高価なレーダー類は外して
他の艦に移された、という可能性はありますが、
引退前の写真を見ても、大型レーダー類は一切見えないので、
おそらくこの状態だった可能性は高いです…。



参考までに、やや新しい世代のアメリカの駆逐艦、フレッチャー級の写真を。
ご覧のように船体には窓(舷窓)はありません。
HTMSメコンの窓だらけの船体は、やはり特異なもの言っていいでしょう。

ちなみにさすがのアメリカでも駆逐艦にクーラーはなく、
ダクトとファンによる艦内換気で熱気を逃がすのが精一杯でした。
実戦での活躍もあわせ、駆逐艦ってのはホントによくがんばってるんですよね。



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