■負け戦の展示法



特に説明が無く展示されていた時鐘。

時鐘は艦船においては一種のシンボルのようなものになっていて、
それぞれに搭載した艦の名前が入っています。
が、これは残念ながらタイ語のみで読めず…。



一番奥にあった海戦の再現ジオラマ。
HTMSトンブリの艦橋下部にはどうも装甲司令塔に似た構造があったようで、
これはその内部の再現じゃないでしょうか。
ただし2300t前後の艦艇に本格的な装甲司令塔を載せれたとは考えがたいので、
あくまでそれっぽい構造、という感じだと思いますが…。

この辺りの展示はシカゴの産業科学博物館のUボートコーナーに
よく似てるんですが、そっちも観に行ったのかなあ、タイの皆さん。

ついでに、ここではボタンを押すと、左のスクリーンで
コーチャン沖海戦の解説動画が上映されます。
英語版もあるのですが、どうもあまり内容が無い、という感じのものでした…。



でもって、その先はタイにとって、
もっとも微妙な第二次大戦の展示です(笑)。

フランス タイ戦争は日本の仲介によってタイ有利に終結するのですが、
その直後、タイが欲しかったインドシナ南部のフランス領に
よりによって日本軍が自ら進駐してしまいます。
タイにしてみれば、そんなアホな、というところでしょう。
なので表面的には友好を維持していましたが、タイ側の対日感情は
結構微妙だったような印象もあります。

実際、太平洋戦争開戦直後には
タイ領内を通過しようとした日本軍とも戦闘がおこなわれました。
とはいえ、戦争になったら日本に抵抗する力はタイにはありませんから、
すぐに日本側に付いて連合国に対して宣戦布告する事になるわけです。

このため、戦争中からタイ国内の反日運動は活発でした。
さらに運動の一部はアメリカに地盤を持っていたこともあって、
終戦直前に、宣戦布告は日本に強要され、
しかたなくやったんだよ許してね、テヘ、
という言い分で宣戦布告を取り消してもらい、
敗戦国になるのを避ける事になります。

とはいえ、タイは枢軸国側として大戦に参戦したのは事実で、
英領ビルマに自分から侵攻して失敗、
さらに何度かインド方面から来た連合軍の爆撃を受けてもいます。

この展示ではそこら辺りを極めてぼかして解説しており、
知らずに見学してると、あれ、タイって連合国側だったっけ?
と思ってしまう内容になっております(笑)。



その先には1934年ごろから日本陸軍が採用し始めた92式 7.7mm 重機関銃の展示が。
ホントにいろんな日本製兵器が残ってますね、タイ。
これは歩兵部隊が携行する強力な機関銃で、
タイでも輸入してたとは初めて知りました。

ちなみにこれ、さわり放題でして、92式銃機関銃に触れるのが夢だった、
という人は今すぐバンコクに行きましょう(笑)。

ついでに、この台座にも注目しておいてください。



その先にある、これも92式 7.7mm 重機関銃。
ただし、こっちは台座の前後に運搬用の取っ手を差し込んだ状態。

上の写真と比べると、
あ、台座にそのまま運搬用の取っ手を差し込んで運ぶのね、
というのがよくわかると思います。
運搬の取っ手が、こんな構造になってるとは、初めて知りました。

この状態で4人がかりで運搬するほど重いのがこの機関銃。
その代わり、火力も強力だったようで、
当時の兵士の回想で、軽機関銃に比べると、かなり頼もしかった、
というのを読んだ事があります。


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