■はるばる来たぜアユタヤ
というわけで今回からいよいよアユタヤ探索が始まります。
例によって最初にアユタヤの街の基礎知識をまとめておきませう。
何度か書いてるように本来は中国南部に居たタイ族が南下
この地域を征服して打ち立てた王朝の2番目のものがアユタヤ王朝で、
その名の通り、アユタヤの街に都がありました。
ちなみに現在の正式な街の名は
テーサバーンナコーン・プラナコーンシー・アユタヤだそうな…。
ついで現地の発音はアユッタヤーという感じに近いです。
タイ政府公式の歴史によると
1351年にこの地でアユタヤの街の建設が始まってから
1767年隣国のビルマ(現ミャンマー)によって滅ぼされるまで、
417年栄えたのがこの街です。
(諸説あるのがタイの歴史だがここでは政府公認説を採用する)
これも先に書いたように、
アユタヤはタイ族の王朝の中では
唯一国外の勢力によって滅ぼされた王朝でもあります。
街中にはこんな廃墟のような寺院跡がいくつか点在しており、
まるで古代遺跡のような印象を受けます。
が、実際にこの街が滅んだのは1767年ですから、
せいぜい250年前、日本で言ったら江戸時代中期、
田沼意次全盛期の頃なのです。
近代、と言っていいでしょう。
そんな街がここまで完全な廃墟になってしまったのは
侵入したビルマ軍が徹底的に破壊したからでした。
このため跡を継いだトンブリー王朝はその再建をあきらめ、
現在のバンコク西側地区にあたるトンブリーに都を移すことになります。
戦争による破壊によって捨てられたかつての都、
それがアユタヤなわけです。
そんなアユタヤの街はパーサック川と、
もはやおなじみチャオプラヤー川に挟まれた
アユタヤ島と呼ばれる地域が中心となっていたようです。
このため現在残ってる主な遺跡もこの島の中に集中してます。
旅行記をずっと読んでくださってるありがたい読者の方なら、
これを見て蘇州と同じような、お堀で囲まれた街だな、
と思われたかもしれません。
駅の位置も堀の外で、蘇州と一緒ですしね。
実際、街の規模は一回り以上小さいものの、
あきらかに川の流れを変えて掘に利用してる部分があり、
東アジア式の城塞都市だった可能性は高いです。
徹底的に破壊されてしまっていて、
その面影はほとんどありませんが…。
そして島の中では南西に位置するスリナカンドラ公園、
そしてほぼ中央にあるラマ公園周辺に多くの遺跡が集中してます。
今回は上の地図に書かれた点線のように移動してるのですが、
結局、この二つの公園以外ではそれほど見るものがない、
というか普通に20世紀の田舎町が展開してるだけでした。
ただし、二つの公園によって市内に極めて大きな緑地が広がる、
という東アジアでは珍しい街となっており、
日本だと奈良市の中心部に印象としては似てます。
奈良の公園内の東大寺の建物を全部廃墟にしてしまうと、
印象は近いかもしれません。
ただし鹿の代わりに居るのは象ですが(笑)。
その中で例外と言っていいのが、日本では山田長政で知られる
アユタヤの日本人街の跡地で、これは堀の外、南東に位置します。
ただし、現在は何も残ってないらしいので、今回は訪問しておりませぬ。
ついでに言うと、2011年にチャオプラヤー川流域で起きた大洪水で、
この街も一部が水没したはずで、その影響がどの程度あったのか、
と思ってあちこち観察して見たのですが、よくわからず…。
全く被害が無かったとは思われませんが、
現状の破壊が洪水で悪化した結果なのか、最初からそうなのか、
私にはわかりませんでした。
といった感じで、基礎知識編は終了です。
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