■日本の沈む船
こちらはおそらくフランスのオチキスの8mm機関銃でしょう。
誰も覚えてないでしょうが(涙)、昨年のスミソニアンのウドヴァー・ハジーセンターで
航空機関銃として見ましたね、これ。
本来はこっちの地上用が元祖らしく、これをほとんどそのまま
航空機に積んでしまっていた感じがします…
重量とか相当不利だと思いますが。
しかし、タイ海軍、8mmなんていう中途半端な機関銃にまで
手を出していたとは、ホントに何でもありだな、もう…。
こちらは1875年ごろ(タイ暦2418年)導入したと書かれていたガトリング砲。
こんなものまで使っていたんですね、タイ海軍…。
実際、これは1870年代後半にアメリカで使われていたものと
ほぼ同じ形状ですから、同時代のものでしょう。
ただしこの台座は適当なシロモノだと思われます。
発射時のガス圧、または反動を利用して次の弾を装填、
連続発射する機関砲が登場する前の世代の連射式銃がこれで、
アメリカを中心にいくつかの国で使われてました。
理屈は単純でたくさんの銃を束にして、それをグルグル回転させながら、
順番に発射して行く、という感じになります。
ただし、現代のヴァルカン砲などでも構造は同じようなものですから、
より高速の連射に向いた形式で、
決して過去の遺産というわけではありません。
余談ですが、ヴァルカン砲は固有の商品名だったりするので、
この手の多銃身回転連射銃を指す場合、ヴァルカン砲ではなく、
ガトリング式連射砲(銃)と呼ぶのが正しい呼び方に近いと思われます。
解説が読めませんでしたが、これも恐らくガトリング銃。
しかし海軍で使うような銃ですかね、この短銃身のタイプ。
その先でなんだかまた記念碑みたいなものが見えてます。
なんだろう、と近づいてみると、あ、これ潜水艦の
指令塔部の外殻部じゃないですか…しかし、やけに小さいな。
例によって解説はタイ語なので、現地ではなんだろな、
程度に思っただけでしたが、帰国後に調べてビックリ、
これ、例の日本で建造された4隻の潜水艦の一部でした。
こんなに小さかったんだ…
ちなみに昨年の旅行記でも書きましたが、
当時の潜水艦の外板は単なるカバー、
水の抵抗を減らすための一種のカウルであり、
本体である耐圧船体とは別のただの板です。
なので簡単に切り離してこうやった展示が可能になったんでしょうね。
余談ですが、現在のタイ海軍は潜水艦を所有してないんですが、
なぜか潜水艦の作戦本部はあるそうな。
モンゴルに海軍省があるのはなぜだ、と聞いたスターリンに、
ソ連に文化省があるのと同じ理由ですよ、
とモンゴル代表が答えた、という話を思い出す…。
三菱重工の神戸造船所で建造されたタイ向けの4隻の潜水艦は
水上での排水量は375t、ドイツのUボートの約半分でしかない大きさだったとか。
そこに4門の魚雷発射管と8発の魚雷を搭載していたそうな。
これはその1号艦 HTMSマッチャーヌ(Matchanu)のものだそうです。
ちなみに、同じような司令塔が
今回訪問に失敗した(涙)タイ海軍博物館にもあり、
こちらもHTMSマッチャーヌのものだ、と紹介されていたりするので、
どうも怪しい部分があります、タイ海軍(笑)…
まあ、両者ともマッチャーヌ級の司令塔部分、というのは間違いないですが…。
とりあえず2隻分の日本製潜水艦の司令塔外殻がタイには現存する事になります。
参考までに2号艦の名前はウィルン(Wirun)、
3号艦の名前はシンサム(Sinsamut)
4号艦の名前はパイシュンポン(Phlai-chumphon)です。
(表記は英語表記より現地の人の発音を優先してます)
とりあえずインタビューフィルムが残ってる
当時のタイ海軍の潜水艦士官の話によると、
41人の潜水艦部隊の海軍士官が訓練と、
潜水艦の受け取りのため、日本へ派遣されたのだとか。
(その後から、一般の水兵も送られたらしい)
下関に上陸後、列車で東京に向かったそうで、
東京の二重橋前で全員が記念撮影をした写真が残ってます。
その後、東京周辺で6ヶ月の訓練をしたらしいですが、
実際の艦が完成前だったので、原寸大の木製模型をつくり、
それを使って訓練を行なったようです。
ちなみに当時第一線を退いて予備になっていた
呂号第六四潜水艦でも訓練をしたそうで、装備が似てたんでしょうか。
訓練終了後、三菱造船所があった神戸に向かい、
マッチャーヌ級は1937年10月から引渡しが始まります。
その後、瀬戸内海で2〜3週間の訓練をした後、
4隻そろってタイへの帰国航海に出たそうなので、
(2隻ずつだったという話もあり)
すでに基礎訓練は終了していたんでしょうね。
(台湾、マカオを経由したらしい)
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