■全煩悩まであと8つ



コスフォードの目玉展示物のひとつ、三菱100式司令部偵察機の三型。
日本機らしく、ややこしい事にキ-46という名称もある上、
連語国側のコードネームのダイナ(Dinah)という名前まであります。

これは世界で唯一の現存機。

ちょっと見づらいですが、機首部が独特の形状をしてます。
おそらく空気抵抗軽減のためかと思いますが、
その左右に前面面積がやたらデカイ空冷エンジンを二つも積んでるんだから、
あまり意味無いような気もしますが…。

ちなみに、これのレストア費の多くを日本側が負担しているためか、
博物館の解説は“イギリス式の賞賛”となってるので、
まあ、その部分は軽く読み飛ばしておきましょう(笑)。

とりあえず、この博物館の調査書によると、
1943年5月製造の5439号機、サブタイプは三型の丙で、
飛行第81戦隊に配属され、東南アジア方面に持ち込まれた機体だとか。
1945年9月、マレー半島のカハン基地にあったものを、
連合軍航空技術情報部 東南アジア局(ATAIU SEA)
が押収したものだとされています。

当初はプロペラが付いておらず、現地の日本人に修理をさせ、
1946年1月頃に飛行可能なコンディションとなってから、
部隊に居たパイロット、M.モリタさんの手でテスト飛行をしている、との事。
ちなみに、このモリタさんは、1990年、この機体のレストアの時にも、
アドヴァイスを行ってるみたいです。

で、試験終了後、しばらくシンガポールで連合国の手で連絡機として使われ、
最終的に1946年6月、ロンドンにあった五式戦、あとで出てくる
帝国戦争博物館のコクピットだけのゼロ戦などと一緒にイギリスに持ち込まれます。



偵察機というのは、基本的に、敵の航空優勢が確保されてるエリアで仕事をします。
友軍の上を飛んで写真を撮っていたら、それは偵察ではなくデバガメです。
仕事は、敵の勢力圏内にあるわけで。

なので、とにかく高速で、敵の対空砲火と戦闘機を振り切って飛んで来る必要がありました。
が、ほとんどの国が偵察機の高速性の重要性を理解してなかったので、
高速偵察機、というジャンルの機体は意外に珍しく、
世界でも専用機として最初から設計されたのは、
この機体と、後のドイツの双発ジェット機、アラドのAr234くらいかも知れません。

偵察というのは、何も作戦前に情報を集める、というだけでなく、
爆撃、砲撃を行って、その後で成果を確認する、という任務もあり、
とにかく現場での需要はウナギ登りという機種になってゆきます。

イギリスとアメリカは、全くそんな機体を考えていなかったのですが、
幸い、大型でカメラなんていくらでも積めて、高速で高高度を飛び回れる戦闘機が、
掃いて捨てるほどあったので、それらの転用で、乗り切ってしまいます。

そう考えると、日本のこの機体の開発は、先見の明があったと見るべきか、
そんなヒマがあったら、高速戦闘機つくろうよ、と見るべきか、微妙な気もしますが、
まあ、“日本機の中では”優秀な部類だ、というのは確かでしょうね。





ドイツの戦場の便利屋さん、フィゼラー Fi-156 C7シュトルヒ。
最終生産タイプのC7で、1944年に製造された475081号機。
イギリス側の記録だと4750“61”とされるのですが、レストア中に見つかった
この機体に書かれた番号は“81”だったとの事。

シュトルヒは戦中から戦後にかけて、ドイツ国外で多くの機体が造られるのですが、
これもチェコスロバキア製の機体。
終戦後、Flensburgという基地でイギリス側に接収されたものらしいです。

接収後、この機体も戦利品として、いろんな雑用に使われるのですが(笑)、
1946年5月にはイギリスの空母、HMSトライアンフで着艦試験を成功させてます。
海軍が短距離地着陸に魅力を感じたのかもしれませんが、
すでにヘリコプターが実用段階に入りつつありましたから、そこまでとなったようです。

ちょっと強い風が吹くと、地上駐機中でも浮いてしまったと言われるくらい、
簡単に飛んでしまう機体で、広大なヨーロッパ大陸の戦線で、
連絡、偵察、エライ人の移動手段として使われました。
これも地味な用途の割には現存機が多いですね。
ムッソリーニ救出とか、派手な作戦に投入されてるから、という面もあるかもしれませんが。



ちょっと珍しい、アルゼンチン空軍の、FMA-1A58 プカラ(Pucara)。
ターボプロップ(ガスタービンで、プロペラ機でも大戦機とは全く異なるエンジン)双発機体で、
アルゼンチンが国産機として開発したものです。
当然、戦後の機体で、これはフォークランド戦争における鹵獲機。
プカラと言うのはアルゼンチンにある城砦遺跡の事らしいです。
日本で言ったら、F-2姫路城、みたいなネーミングでしょうか。

ちょっと脱線すると、このプカラと一番上の百式とコクピットの位置を比べてみてください。
プカラの方が前に出てます。エンジンどころか、プロペラよりも前の位置にありますね。

対して、百式はもちろん、後で出てくるMe410、モスキートなど、第二次大戦期の双発機は、
エンジンとコクピットの位置がほぼ並んでいて、横方向の視界がほとんどありません。
なんで、このプカラのように、コクピットを前に出して視界を確保しないのか、
という最大の理由が、緊急時の脱出の問題でした。

プロペラがコクピットより後ろでブンブン回ってると、緊急脱出時、
風圧で後ろに飛ばされたパイロットは、それに巻き込まれる可能性が高く、
事実上、脱出不能、という恐ろしい機体になってしまいます。

が、戦後は例の射出式シートによって、
上方向に盛大にドーンと打ち出されるようになりましたから、
プロペラの位置をここに持ってきても何の問題もなくなりました。
このプカラやOV-10ブロンコといった戦後の双発プロペラ機が
一歩でもコクピットからはみ出したらミンチにするぜ、という
チャレンジャーなポジションにプロペラをつけてるのは、そんな理由によります。
(ブロンコなんて、後部座席よりも後ろにある)

ただし、射出式座席も、高速の空気流の中にすさまじい加速力で
パイロットを打ち出すわけで、決して安全な装置というわけではありません。
安全性を追求したというより、こうするしか無かった、という方が現実に近いでしょう。

ついでに、戦後のパイロットが皮の帽子ではなく、
頑丈なヘルメットを被るようになったのは、射出座席で打ち出される時の用心です。
脱出時、コクピットを覆うキャノピーを吹き飛ばすのに失敗した場合、
それを突き破って外に飛び出すわけで、この時の頭部保護が目的でした。
これは量産機では世界初と思われる射出座席搭載機、
ドイツのHe162のパイロットが最初に採用してます。



珍しい機体なので、正面からの写真も。
機首下面に見えてるのが20mm機関砲×2、横に見えてるのが7.62mm機関銃×4のはず。
主翼下の武装搭載用パイロンに、ライトがついてますね、これ。

この機体は、本来COIN(Counter Insurgency/反乱鎮圧)機とわれる1960年代ころ流行った機種で、
高価なFCS(火器管制装置)や射撃管制レーダーの類は積まず、
目視で適当に小型の爆弾やロケット弾を叩きこむ、というタイプの安価な攻撃機です。
当然、ろくな命中率は期待できませんし、さらに最低限の防弾装備しかありませんから、
相手からの重火器による反撃はない、という前提で使われる事になります。

まあ、その適当な設計からわかるように、本来は戦争に使う機種でなく、
アジアや中南米で当時やたら登場していた共産主義を掲げるゲリラ相手に投入される機種でした。
せいぜい小銃とピストルくらいしか持ってない相手を想定した機体で、
そういった連中はだいたい共産主義の反政府組織でしたから、その名もCOIN、反乱鎮圧機なのです。
実際、アルゼンチンがこの機体を開発した理由は、国内の共産ゲリラ対策で、
その方面ではそれなりの成果を上げていました。

ところが1982年、国内の政治問題を外交(笑)で解決しちゃえ、と思った
当時のアルゼンチン軍事政権は、
イギリス領だった近所のフォークランド諸島を武力占領してしまいます。

当時既に貧乏のどん底にあったイギリス、しかも首相はケチの代名詞、サッチャーさんで、
おそらく軍事的な反撃は無い、との見通しでやっちゃたんですが、
これはアルゼンチンの大誤算で、サッチャーはケンカっぱやい性格の上、
バックについてたレーガン大統領はさらにケンカ好きでした。
さらに歴史上、売られたケンカを買わなかったことのないイギリス、
即座に戦争状態に入り、ここにフォークランド紛争がスタートするわけです。

その結果、この機体も投入される事になるのですが、
相手は正規軍で、やたらケンカ慣れしてるイギリス、この機体では荷が重く、
前線に派遣された24機(25機説あり)のうち、最後まで飛行できる状態にあったのは
わずかに3機(4機説あり)という状態になります。
その中で、飛行可能だった3機と状態の良かった2機がイギリスに押収されてしまったわけで、
この展示機はその中の一つとなります。


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