■ギリシャ文化へゴー
まあ、こんな感じのギリシャ風の文化が、ダルダネルス海峡&ボスポラス海峡どころか
インダス川まで越えて、東に流れ込むわけです。
これがさらに中国、一部は日本にまで流れて行くんですから、世界は広いようで狭いのか。
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テラコッタ粘土による素焼きの人形たち。
およそ紀元前300年ごろのもの。
テラコッタによる焼き物って、ローマ以降だとおもってたんですが、
この時代からあったんですね。
まだギリシャの作風が強く残ってる時代で、右側にいる2人が被ってるのは、
古代ギリシャで流行った円盤型の帽子の一種です。
未だにあれをどうやってアタマに固定してるのかがわからない…。
その先は、半地下室になっており、ハリカルナッソスにあった
マウソロス霊廟(Mausoleum of
Halikarnassos)の彫刻類が展示されています。
ハリカルナッソスはダルダネルス海峡の向こう側、アジア側にあったギリシャの殖民都市でした。
後にアケメネス朝ペルシャの支配下に入り、アレクサンダーと戦い、
その堅固な防御力で、なかなか落城せず、マケドニア軍を苦しめています。
その街にあったのがマウソロス霊廟で、大理石によって造られた巨大な建造物でした。
高さだけで40mを超えていた、と考えられています。
そのあまりの大きさから、世界の7不思議に数えられていました。
本来、ペルシャの地方官に過ぎなかったのがマウソロスなんですが、
事実上、この地域の支配者となり、やりたい放題だったようです。
その霊廟のものだった、とされる彫像の一つ。
あれ、右側のは女性だ、こりゃ一般市民を襲撃する
戦争の残虐行為の描写?と思ったら、アマゾネス相手に戦うギリシャの皆さん、
という内容なんだそうな。
墓場に飾り付けるようなテーマですかね、それ…。
これも同じく。
ついでながらマウソロス霊廟からのカッパライ行為は二段階に分かれまして、
まずは15世紀初頭、聖ヨハネ騎士団がこの近所に居ついてしまいました。
その後、要塞建築を始め、その時、廃墟となっていたマウソロス霊廟から、
大量の石材を持ち出しており、彫像類も一緒に持ち逃げしてます。
二度目は例によって、19世紀のイギリス人による発掘なんですが、
この展示がどっちの時のものかはよくわからず。
紀元前546年にペルシャの支配下に入るまで、
現在のトルコ南岸にリュキア(lycia)と呼ばれる都市国家群がありました。
ある意味、東のギリシャとでもいうべき独立した地域だったのですが、
その遺跡から出土した遺物たち。
土器などを見ると、まさにエーゲ海文明、という感じですが、
全体的にもギリシャ文明の濃厚な支配下にありました。
ギリシャ人は地中海とエーゲ海を縦横無尽に走り回って
貿易で生きてる連中でしたから、その影響は大きかったのでしょう。
ただし、言語的にはギリシャとは別だった、との事で、
地中海沿岸に多かった、ギリシャの殖民都市ではないようです。
後ほど、ここから出土した神殿風の霊廟が登場します。
建物まるごとです(笑)。
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