■そしてエジプトへ
さて、ここからの展示は、この博物館のメインイベンターとも言える
古代エジプト関連となってゆきます。
展示を見るにあたって最低限必要な話を最初にちょっとだけ。
まず、古代エジプトは大きく北(ナイル下流)と南(ナイル上流)に分かれていました。
ここら辺はイギリスのイングランドとスコットランドの関係に似てます。
もともとは上流側から発展してるはずで、
最終的にはその上流側により、全エジプトの統一がなされます。
これが紀元前3150年ごろ。つまり、今から5200年も昔の話。
まあ、なんつーかベラボーに古い国ではあるわけで(笑)。
そこから紀元前30年、ローマによって完全に滅ぼされるまで続きます。
(途中で分裂したこともあるが)
約3100年、王朝の入れ替わりとかはあったものの、一つの国家として続いたわけで、
これだけアホみたいに長期にわたって地上に存在し続けた国は、
未だに他にないんじゃないでしょうか。
これだけ長く続いたのは、周囲に強敵が居なかった結果でした。
この点ははラッキーだったのですが、
ライバル不在で戦争に弱くなってしまう、という副作用を伴う事に。
この結果、やたらと戦争ばかりしており、ケンカ慣れしている、
北東方向にあったメソポタミア文明の国家に圧倒されてゆく事になるのです。
エジプトとメソポタミア周辺の大雑把な位置関係。
エジプト中心部とメソポタミア(ペルシャ)中心部は札幌から鹿児島くらいの距離があるので、
決して近所ではないのだが、紀元前1000年くらいから戦争が絶えない状況になります。
人類の宿業でございましょうか…。
メソポタミア文明圏から発展する大国は、最初にバビロニアとアッシリア、
その後、いくつかの王朝からなるペルシャです。
ペルシャ以降は、従来のイラク周辺から東側のイランへと、その中心を移していました。
が、その勢力範囲は現在のトルコ周辺まで及び(後には海の向こうのギリシャまで)、
エジプトへの侵攻は北側から行ってるようです。
ただし、上の地図だとバビロニア方面からの進軍は、まっすぐ西に向かうルートとしましが、
現在、この周辺は砂漠で、果たして当時でも軍の移動が可能だったのか、はわかりません。
ついでに、こうして見るとエルサレム、ユダヤ人が居住してたエリアの特殊性に気が付くでしょう。
エジプト、あるいはその敵、どっちが攻めてゆくにしても、
必ず通りに道に当たってしまう、という気の毒な場所なのですよ(笑)。
とりあえず、紀元前950年ごろより、エジプトはアッシリアから何度も武力侵略を受け、
そのスキに兄弟国家とも言える(連合体に近いかも)クシュに制圧されてしまいます。
以後、エジプトは独立国家であはあるものの、他国に隷属するという、
いわば二流の国家に成り下がります。
紀元前671年に今度はアッシリアに征服され、その後一時独立を勝ち取るものの、
紀元前525年には、改めてアケメネス朝ペルシャによる制服を受けます。
それが終わったと思ったら、紀元前322年にアレキサンダー大王が西からやって来て、
以後はギリシャ人の支配下に(プトレマイオス朝)入ることに。
で、紀元前30年にローマの初代皇帝、アウグストス(当時はまだ改名前でオクタウィアヌス)に
滅ぼされて、ようやくその歴史を終えるわけです。
余談ながら、上の地図でわかるように、
メソポタミア文明圏からエジプトに攻め込むには、
必ずシナイ半島を突破する必要があります。
その入り口にあったのがユダヤ人の国、イスラエルとユダでした。
なので、単にそこに国があった、というだけの理由で、
ユダヤ人の国家は何度も周囲の大国から蹂躙され続けます。
アッシリア、バビロニア、アケメネス朝ペルシャ、アレクサンダー大王、
そして最後はローマです。
ついでに途中で何度か反撃に出たエジプトからの攻撃にも巻き込まれてます…。
数百年に渡って、これだけ色んな大国から
ケチョンケチョンにされ続けた国と言うのもある意味珍しく(涙)、
あの民族が、かなり歪んだアイデンティティーを持つのもむべなるかな、
というとこかもしれません…。
余談ながら、蜜と乳が流れる地とか言って、
ユダヤ人をこの場所に連れてきたの、神さんなんだよな。
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