■石の墓
次は4号墳墓。
これなんかも、周囲に石が立てかけてあったりして、高句麗式じゃないの、
と思ってしまうのですが、現地の説明によると、
石の枠組みの中に土を入れてつくった土マンジュウ式の墳墓で、
純粋に石積みで造られる高句麗式とは異なるんだとか。
なので高句麗のものを参考にした4〜5世紀前後の百済式古墳だろう、という話。
とりあえず出土品は百済系の文化のものらしい、
という事なんで、そういうものなんでしょうかね。
ちなみに、私も初めて知ったのですが、百済は475年になるまで、
ソウル(漢城)の南方、漢江の南岸近くに首都を持っていたんですね。
後に高句麗に追われて首都をより南方の公州に移したんだとか。
実は韓国の人がたまにソウルは2000年の都と言うのを見て、
国民的な資質として引き算が苦手なんだろうか、と思ってたんですが、そういう事でしたか。
とはいえ、475年に百済が出て行った後は1390年代に李氏朝鮮が首都にするまで、
約900年以上の空白があるような…。
それにそもそも、百済が首都にしていたエリアは現在のソウルとは少々ずれていて、
東京で言ったら千葉の浦安、あるいは埼玉の川口か、神奈川の川崎辺りだと思われ…。
そこら辺りから、邪推すると(笑)
百済の古墳という事なら最低でも5世紀より前であり、
韓国内ではかなり古い文化財、という事になります。
逆に高句麗式古墳としてしまうと、6世紀以降の遺跡となってしまうのです。
ハクをつけるなら、百済式だ、とした方がいいわけで、
なんとなく、ここが百済式古墳と呼ばれてるのは、そんな理由があるような…。
で、これが復元された方の2号墳墓。
ただ解説を見る限り、復元前のサイズと復元後のサイズが全然違うので、
復元と言うよりは純粋にレプリカみたいなものでしょうか。
ちなみにこれも百済式だそうな。
でもなあ、基部とかは完全に石積みの高句麗式ですよ、これ(笑)。
さて、その先に松林の奥に続く歩道がある。
ちなみにこの公園は1985年に整備されたものだそうで、
この取ってつけたような松林はその時、植林されたものでしょう。
これは土壙墓だそうな。
日本語だと土坑墓で、要するに地上に穴を掘って埋めただけのお墓。
とはいえ、石室と言っていい立派な穴ですから、それなりの身分の人のものでしょうか。
ちなみに解説によるとこういった墓が他に10基近く、
例の3号墳墓の近くで見つかったそうですが、
それらがどうなったかは、全く不明(笑)。
…公園にするのに邪魔だから潰しちゃった?
余談ですが、朝鮮半島では墳墓の発掘には強い抵抗感があるようで、
日本の占領時代もほとんど日本人ばかりが発掘をやってたそうです。
これは人のご先祖様の墓を暴くなんてとんでもない!
という儒教思想によるものだそうな。
戦後の日本で二世の方が大学の発掘のため地方に行き、
たまたま現地の一世の方と話をしたとき、
お前は、あの日本人らと一緒に人の墓を暴くのか、
と汚いものでも見るような眼で言われた、という話を読んだ事があります。
むう、さすがは儒教の国、と思ったんですが、
今回の旅行記を書くに当たって韓国の遺跡の現状を調べてみたのですが、
道路や工場の開発でバンバン古墳は取り壊されておりました(笑)。
…あれ?
それどころか、朝鮮戦争時代の写真とかを見ると、古墳の上に
皆さん平気で家を建てて住んでらっしゃいます。
…よくわからんな、儒教社会の礼節…
そこから見た2号墳墓。
まあそれでも、なかなか貴重なものを見れたな、という感じで
時間があるなら訪問して損はないでしょう。
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