■高句麗疑惑
ここは全体が公園として整備されており、
見学しながら1周すると15分くらいかかります。
ちなみに緑豊かですが、ここもソウルの住宅街のど真ん中です。
公園の全体図。
数字が振られている場所に古墳があります。
上の3つが既に写真で見た石積みの方墳、
一番下が土マンジュウ型の円墳で、他は基部や石室のみ残ったもの。
解説によると、元々、独立(日本からの方ね(笑)…)した当時には
周囲に90ちかい古墳が現存していたそうなんですが、以後、
開発が進み、完全に残ってるのが2基となった段階で、トドメとばかりに
道路の開発が決定、全てが失われそうになったのだとか。
でもって、さすがにこれは残した方が…という事になった結果、
1976年ごろ、その保護が決定、道路は先に見たように
地下を通過するように変更されたのだそうな。
その案内板の横にあった謎の看板。
なんかの映画のロケ地にでもなったんでしょうか…。
つーか、それ日本に残ってる百済の七支剣ではございませんか。
余談ですが、あれって聖書世界の七枝の燭台(メノラー)の変形じゃん、
と思ってるのは私だけでございましょうか。
ちなみに七枝の燭台の方が数百年以上古いですから、
晋の時代までに中国まで入っていても何の不思議もないわけで。
さて、まずは生き残った古墳群の中で最大のもの、
3号墳墓(ドルメン)から見て行きますよ。
…で、ちょっとでも古代史をかじった事がある人は皆さん、ツッコミ待ちですね(笑)。
はい、ではご一緒に。
どう見ても高句麗式古墳ジャン!百済式ちゃうやんけ!
この点は現地の解説も混乱してまして(笑)、公園入り口の全体説明だと、
この3号墳墓は外見も内部構造も高句麗式の石積みで、
高句麗式古墳である、と認めてます。
が、それでも4世紀の百済の王、近肖古王(クンチョゴワン)の墓ではないか、
という推測が韓国では一般的なようで、あらゆる資料を見ても、
そういった説明しかありません。
ちなみにのこの王様の時代に百済に漢字が伝わったそうなので、
なにかそういった墓碑でも出たのか、というとそうでもなく、
とりあえず、デカイし立派だから有名人の近肖古王のじゃん、
といた理屈のような印象がしなくもなく…。
…日本人からすると、皆さん、一度落ち着いてもう一回考えてみませんか、
という感じなんですが、まあ、現地の人がそう言ってる以上、
そういうもんだ、という事にしておきます…。
ちなみにこれ、4世紀の石積み古墳としては、朝鮮半島でも最大級らしいです。
ついでに、ソウル市が運営してる文化財紹介ホームページを見てみたんですが、
それによると近肖古王(クンチョゴワン)の在位が346
〜374年と書いてあるのに、
その墓とされるこれが3世紀の古墳と解説されておりました。
…どうも韓国の考古学に関して一抹の不安を感じたり…。
ただし、現地の解説ではキチンと4世紀となっていたので、人によるのかもしれません。
まあ、いずれにせよ余計なお世話でしょうが(笑)。
ちなみに在位がホントにその年代だとすると、
日本に現存する七支剣を送った百済の王はこの人、という事になり、
さっきみた変な看板はそこら辺の関連かもしれません。
ちなみにアレは呪術刀ですから、あれで戦うわけではありません。
さらに余談ながら、ソウル市の文化財ホームページには
“文化財は都市の経済力であり国家の経済力であり観光資源であり文化資本です”
と書かれておりました。
文化資本(cultural
capital)というのは1970年代に登場した社会学の概念ですが、
むしろ換金出来ない個人の教養といった意味あいが強く、
少なくとも国の観光資源や経済力と言った単語と並んで使うものでは無いような…。
せっかく儒教文化の国なのですから、
もう少しお金と文化財を切り離して、そこにあると楽しいもの、位の感覚で
付き合ってみてはいかがと思ったり。
さて、その次は4号墳墓(左)と2号墳墓(右)を見ましょう。
ちなみに4号(左)は生き残った古墳の一つですが、
2号(右)は既に破壊されていたのを復元したものだとか。
ただし、ここら辺りの説明は、例によってはっきりしないので(笑)、
断言はできません。
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