■李氏朝鮮は続くよどこまでも



最初は前回の取りこぼしから。

この人を忘れてはいけませんね。
豊臣秀吉プロデュースによる日本軍の撃破に大きな功績があったとされる
李舜臣(イ・スンシン)さんの肖像画。
あの亀甲船を率いて日本の海軍を苦しめた人です。


ただし、生存当時はかなり敵が多い人であり、人気もありませんでした。
恐らくこの肖像画も、後世に描かれた想像図じゃないかと思われますが、
例によって説明が全く無いので詳細は不明です(笑)。



さて、引き続き李氏朝鮮時代が続くのですが、
ここらあたりからは火器の展示がメインになって行きます。

朝鮮半島の火器は、日本のようにヨーロッパ経由で完成形で伝来したものではなく、
中国から、単に火薬と言う形で入って来ました。
確か高麗時代に中国(宋?)から来た技術者を買収して
火薬の製造法を知ったのが最初だとされていたはず。
(ちなみに韓国人によると説得して教えてもらった、とされてるが、
当時の中国人が金以外で動くとは考えにくいし、動く理由がない(笑))

その時、大砲のアイデアは中国から頂いてたようですが、
秀吉ドリームチームが海を渡ってやって来るまで、歩兵銃は存在しなかったのです。
この結果、朝鮮半島では火砲はドカンと爆発する爆弾、
あるいは例の木製ミサイルを撃ち出す砲として発達してゆきました。

で、その高麗は、モンゴル軍団が中国に打ち立てた王朝、元に滅ぼされてしまいます。
その結果、彼らの持つ火砲の多くは、そのまま対日戦、
いわゆる元寇に持ち込まれる事になるのです。
元寇は名こそ元寇ですが、実態は元に支配された地域の軍隊による日本襲撃でした。
なので最初は旧高麗の軍隊による襲撃、
二度目は旧高麗と中国南部の連中による襲撃となります。

この展示は高麗後、李氏朝鮮時代のものですが、
李氏朝鮮は以前にも書いたように、君子バリバリの儒教国家であり、
野蛮な軍事にはほとんど興味を示しませんでした。
結果的に、その武器の進化は高麗時代でほぼ停まっており、
ここの展示にある火器の多くは、
元寇の時に持ち込まれたものと大きく違わないはずです。
そこら辺りも考えながら見てゆきませう。



でもって、そんな朝鮮半島独自の火器の一つがこれ。
銃筒(チョントン)と呼ばれる火器です
奥に見えてる青銅製の筒がその銃筒で、手前に見えてる弓矢のような
木製の小型ミサイルを火薬の爆発力で飛ばします。

さすがにあの筒を直接手で持つことはできませんから、
後ろに柄となる木の棒を突き刺して使ってました。
ただし、一部は馬上での運用を前提としており、あれを手で持って撃つ、
というケースもあったようです。

前回の大砲でも見ましたが、この弓矢みたいな木製ミサイルを撃ち出す、
というのが、朝鮮半島の火器の特徴の一つとなります。



それを大型化したもの。これも青銅製ですね。
このサイズでも基本的には後ろに見えてるような
木製ミサイル撃ち出していたようです。

ついでに、この木製ミサイルの正式名称は
皮翎木箭(ピリョンモクチョン)だそうな。
ただ通常は箭と呼び、あとは大きさで大箭とか、小箭とか区別してたようです。

…ただこれ、なんか命中しても、イテッ!
で終わってしまいそうな武器にしか見えないんですけど、
ホントにこれで戦争やる気だったんでしょうか。

もっとも、ここら辺りは北方の騎馬民族の進入に悩んでいた
高麗が開発したものなので、
とにかく遠くまで高速で飛んで、馬に乗って走ってる連中に
当たって落馬させればオッケー、と言う感じだったのかもしれません。



これ、臼砲(mortar)ですね。
日本語だと砲という字を使ってしまいますが、ヨーロッパ語圏では
投擲機、といった感じの、砲とは独立した別ジャンルの兵器となります。

この臼のような筒の奥に火薬を入れ、その上に球状の石や金属の砲丸を載せ着火、
ドカンと放物線を描いて敵の方に撃ち出すぜ、というシロモノ。

重い石やら金属玉を放物線状に投げつける事で城砦などの破壊を狙うわけですが、
後に榴弾、空中で炸裂して破片を飛ばして敵を殺傷する砲弾が登場すると、
対人攻撃兵器にもなります。
現代でも使われる迫撃砲は、このMortarの一種です。

日本ではほとんど使われなかった種類の兵器ですが、
朝鮮半島ではそれなりに普及していたんでしょうかね。

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