■スーパーマリン スピットファイア
Supermarine
Spitfire
ロンドン郊外のRAF博物館で串刺し&雨ざらしとされてるスピットファイアMk.IX
(9)。
そもそも現存機の多いスピットの中でもけっこう数があるほうの機体ですが、
この扱いはさすがに気の毒…。
北アイルランド君とグレートブリテン島ちゃんの合体王国、通称グレートブリテン略称グレブリ、
すなわち英国において、第二次大戦期に最も活躍した戦闘機が、このスピットファイアです。
イギリス人のアイデンティティに関わる戦闘機(笑)というくらいに本国では今も人気があります。
まあ、カッコイイ機体ではありますね。
でもって本機を開発&製造したのがスーパーマリン社。
かつて映画の日本語字幕で「特殊海兵隊」なるステキな日本語訳を当てられたこともある会社ですが、
実はスピットファイアで一発当てるまで、事実上、軍用機の製造に関してほとんど実績のない会社でした。
ただし、会社の歴史そのものはけっこう長く、第一次世界大戦の前、
1912年ごろに当時最先端だった海上用の飛行艇の開発を目的とし、設立されたものです。
「超絶海洋」とでも言うべきその社名は、そんな会社の設立経緯に由来してます。
スーパーマリンの本業とも言えるかもしれない、飛行艇のうちの一つ、Stranraer
。
地名なんで読みがわからんのですが、ストランアー?って感じでしょうか。
1937年に配備開始となった複葉飛行艇。カナダとかも使ってたようです。
RAF博物館ロンドンで撮影。
で、とりあえず、無名の水上機メーカーとして細々と運営されていたスーパーマリンですが、
第一次大戦後の1917年、後にスピットファイアの設計者となるR.J.ミッチェル(R.
J.
Mitchell)が入社します。
そして1922年、ミッチェルも設計に参加した機体で、当時ブームとなりつつあった水上機による国際航空機レース、
シュナイダー トロフィーに参戦するチャンスに恵まれ、しかも初参加でいきなり優勝してしまい、
その名を世界に知られるようになります。
その後は、国の支援を受けれるようになって、さらに優勝回数を重ねて行くのですが、
しょせんは弱小メーカーに過ぎず、F1のコンストラクターがトヨタやホンダに買収されるかのように、
当時のイギリスの巨大兵器メーカー、ヴィッカース-アームストロング社に買収されてしまいます。
このため、レース撤退後、スーパーマリン社は親会社の意向に従って、
戦闘機の制作に乗り出してゆくことになるわけです。
なんで、とりあえず、スピットファイアを説明するのに避けて通れないのが
この水上機による国際航空機レース、シュナイダー トロフィー。
これは1913年、フランス人のジャック・シュナイダーがスポンサーとなり、
モナコで始めた水上機による航空レースです。
「これからは長距離飛行機が船旅にとって変わるぞ!」
と、ある日かなり正しい結論にたどり着いた彼は、
「じゃあ、賞金つきレースをやって水上機の優秀さを証明しよう!」
というなんでそっちに行くか、という結論を導きだし、このレースを始めます(笑)。
金持ちの考えることはよくわからんのう。
でもって、後の航空界に巨大な足跡を残すことになる、このレースの主な決まりは以下の通り。
・出場できるのは水上離着陸のできる機体
・主催はフランスの航空協会と参加国の航空協会
・各国の航空協会は3チームまで代表を送り込める。
補欠交代チームも3チームまで登録可能。
・レースの目的はシュナイダー トロフィーの争奪。
5年以内に3回優勝した(チームは問わない)国がトロフィーを獲得できる。
(1927-31は隔年開催だったが、ルールに変更はなかったらしい)
・レースは毎年行われ、優勝チームの所属国が次回レースを開催できる。
(実際には第一次世界大戦で1915-18は中断、24年は延期、27-31までは隔年開催)
・コースは280km(150nm)の三角形周回コースとする。
(1921年から350kmに延長)
といったとこ。
飛行高度の規定もあると思うんですが、ちょっと資料がありません。
エンジンや機体に関する規定もあったと思うんですが、これまた見つけられず…。
ま、個人が趣味でやってるページだしね(言い訳)。
で、このジャック・シュナイダーもよくわからん人物で、武器製造工場のオーナーの資産家と言われてますが、
本人の肩書きは、飛行家、気球乗り、冒険家みたいな、あんた誰やねん、といったもの。
ちなみに気球による最高到達高度記録(10081m)保持者だそうですが、この記録、今でも有効なのかしらん。
その後、事故によって自ら航空機を操縦することができなくなり、
さまざまなレースや飛行クラブのパトロンとして活動していたようです。
ついでに、シュナイダー トロフィーというのは通称で、正式名称は
「ジャック・シュナイダー 海洋航空機杯
(Coupe
d'Aviation Maritime Jacques Schneider)」というそうな。
さて、このシュナイダー トロフィーレース、1913年、14年とモナコで開催されたもの、
イマイチ盛り上がらないまま、第一次世界が勃発してしまい、次の開催は戦後の1919年となりました。
で、この再開されたレースが徐々に「国家間対抗航空機レース」みたいな状況となってゆき、
1920年代に入ると欧米で絶大な人気を誇る一大イベントとなって行きます。
ちなみにトロフィーのお値段は現代の価格で約1000万円ちょっと(制作費。貴金属的価値はほとんど無し)、
優勝パイロットの賞金は3000万円ちょっとですから、安くはないものの、
国家レベルの無制限な技術を導入して割に合うものじゃありませんね。
もう完全にみなさん、暴走しておりますな。いい感じに(笑)。
ただし、この当時、飛行機に乗る、というのは命がけの冒険と同義で、
しかもそんな無軌道なまでの新技術をつっこみまくったイビツな機体がバンバン投入された結果、
レース本番、およびその準備段階で事故は発生しまくります。
特に大会がエスカレートし始めた1923年以降、結構な数の死傷者を出すレースともなっていました。
余談ですが、再開第一回目の1919年のレース、会場は中断前の14年に優勝していたイギリスで、
決勝レース参加4チーム中、3チームが大英帝国所属という状態。
(フランスも参加してたのに、なぜか最後は飛んでない)
素人目にも出来レースじゃん、と思ったら、あれま濃霧で大荒れのレースに(笑)。
なんと唯一ゴールにたどり着けたのはサボイアS.13で1チームだけ参加してたイタリアだったのでした。
が、イギリス人がおとなしく引き下がるはずがなく(笑)、
コース上にいた「審判」がサボイア機はルートを外れてた、とクレームをつけ、
大論争の上、ノーコンテスト、そのかわり次回開催はイタリアで、ということでケリがつきます。
イギリス人の書いた資料だと「イタリアが紳士的態度で自主的に辞退した」からそうなった、
などと書いていらしたりしますが、だまされちゃダメよ(笑)。
でもって、その後、1920年(サボイア
S.12)、21年(マッキM.7bis)とイタリアがレースを連覇してますので、
もし1919年のイタリア機の優勝が認められていたら、この段階で3連覇となり、
シュナイダー トロフィー、全盛期を迎える前の1921年で終了していたことになります。
何が幸いするかわからんですね。
さらに余談ですが、「紅の豚」に出て来る赤い飛行艇の名はサボイアのS.21。
一応、実在する幻の飛行艇だったりします。
これはサボイアが優勝した翌年、21年に参戦予定だった機体なんですが、本戦には登場しませんでした。
どうもパイロットが病気で倒れたものの、あまりにクセの強い機体で他にだれも操縦できなかった、という話が。
このため、サボイアはS.22という別の機体で参加しています。
(優勝は同じイタリアのマッキM.7bis)
ただしこの機体、そもそも複葉機で、あの映画に出てくるものとは全く似てません。
カリカリにチューンされていて誰も乗れず、倉庫で眠ってた機体、
という映画のストーリを考えると、設定上のモデルではあるでしょうけども。
でもって、そんなこんなでシュナイダー トロフィーは人気猛爆、ウソかホントか、
1920年代の全盛期には25万人の観客を集めたこともある、というから今のF1レース以上の人気イベントだったようです。
350km(初期は280km)というマラソンなんて屁でもない長大なコースですんで、
これだけの人が集まれたんでしょうが、水上機レースですから、レース会場は基本的に海の上のはず。
25万人も船には乗れまい。タイタニック号が100隻あっても足りない数ですよ、これ。
皆どこで見てたんだ?
で、先にも書いたように、当時あまり仕事もなかったスーパーマリンは、徐々に国家間イベントと化していたレースに、
1922年にイギリス代表の1チームとして初参加、イタリアの3連覇を阻止していきなり優勝、一気に注目を集めます。
この後も参戦を続け、1927、29、31年と3連覇を達成(27年からは隔年開催となっていた)
「5年以内に3勝した国が永久にトロフィーを獲得」ルールにより、
シュナイダートロフィーはイギリスのモノとなりました。
現在、トロフィーは優勝機のS.6Bと一緒に、ロンドンの科学博物館に展示されてるようです(私は未見)。
RAF博物館に展示されてるロールス ロイスのRエンジン、すなわちR
type(ウケル人にはウケル名前…byアイレム)。
1931年の優勝時のものと思われます。
下の解説板に小さく写ってる写真の機体がS.6(B?)です。
で、最後の1931年の優勝にはちょっとしたドラマがありました。
31年といえば、29年にアメリカで起こった株式市場の大暴落による、世界恐慌まっただ中ですから、
当然、みんな不景気で、しかもレース前の段階までは社会主義的な労働党がイギリスの政権を握っていたため、
政府はスーパーマリンへのレース資金の援助を拒否してしまいます。
この決定、世論的にも結構もめたらしいんですが、この事態を聞いた社会主義嫌いの大金持ちの女性、
ルーシー・ハウストン婦人(Lady
Houston)が突然、新聞紙上で政府の対応を批判(自分で広告を出したらしい)、
レースの必要資金として、10万ポンドの寄付金をポンと提供してくれます。
一説には広告上で「必要な請求書は全部私の所に持ってきなさい」とタンカを切ったとか。
まあ、これは当時のイギリス労働党政権への当てつけ、というニュアンスが強かったのですが、
なんにしろ、レース資金は確保できました。
これで急遽参戦のメドが立ったものの、レースまでは残り8ヶ月ちょっと。
このため、当時病気で倒れてたヘンリー・ロイス(この人も病弱)
がロールス・ロイスのエンジン設計現場に電撃復帰、
突貫工事で、1929年に使用した水冷12気筒3600ccのRエンジン(R
type)の改良型を作り上げます。
この時は特殊な航空燃料まで持ち込み、2300HP絞り出した、というからまさに化けモノですね。
で、後のマーリン、グリフォンの設計にも影響を与えたこのエンジンは、レースでも圧倒的な強さを発揮します。
その2年後、ロイスは1933年に亡くなってますので、これが最後の花道だったのかもしれません。
機体の方も29年に使用したS.6の改良型、S.6Bで行くしかなかったのですが、何せ世界中が不景気だったので、
実は他の国もマトモな機体を用意出来ず、エンジントラブルなどで続々と脱落、本番のレースで飛ぶことができず、
S6Bがライバル不在のまま、単独優勝となります。
ライバル不在とはいえ、レースでの速度記録を更新(平均547km/h)しての優勝でしたから、
まあ、完成度の高い機体だったと見ていいでしょう。
もっとも、この大会、イギリスで開催されていたため、実行委員はみんなイギリス人。
イギリス機だけが飛行可能、という状況下でイタリアとフランスから出された
レースの延期要請をフェアプレイ精神にのっとり、あっさり蹴り飛ばしてます(笑)。
1919年の時といい、この時といい、イギリスの審判はこの世でもっとも信用してはいけない人種だと思いますな…。
ちなみにこのハウストン婦人も結構不思議な人で、パリのダンサーから身を起こし、
次々と結婚を繰り返して、最後に大金持ちになったとか。
エベレスト超えの冒険飛行とかにも資金援助をしてます。興味のある人は調べてみてください(笑)。
さらにちなみに、彼女の執念が実ったのか、1931年後半には首相で党首のマクドナルドと労働党そのものが対立、
その年のうちにイギリスの労働党政権は瓦解して、これ以後、
1945年、例のチャーチルが惨敗する選挙まで、イギリスは挙国一致内閣へと移行して行きます。
ちなみにその1945年にチャーチルをケチョンケチョンにしたのは労働党でしたから、
イギリス人、社会主義が好きなんですねえ…。ここら辺が英国病の原点でしょう。
その上さらに余談ですが大恐慌後はアメリカでも社会主義的な民主党が政権を奪取、
いわゆるルーズベルトの大統領4選がスタートしてます。
しかし、その後の展開はイギリスに比べ、天と地ほど変わって行く事になるんですが、
まあ、今回はこの話はパスしましょう。
以上、えらく余談でした。
ちなみに、後にスピットの設計者となるミッチェルを始め、シュナイダー トロフィー参加者からは、
後に各国空軍に大きな影響を与えた人物が、何人も出ています。
1926年、イタリア最後の優勝機である、例のマッキ社製のM.39をデザインしてたのは、
後にイタリア空軍の主力機、マッキMc.200、Mc.202
を設計したマリオ カストルディですし、
さらにその前年、1925年のグレン・カーチス設計による機体で優勝したアメリカ人パイロットは、
後に初の東京爆撃によって名を馳せるジミー・ドゥーリトルだったりします。
この時期のレースはアメリカVSイタリアの死闘、という感じで、このライバル関係は、
宮崎さんの映画「紅の豚」に持ち込まれていますね。
なんで、シュナイダー トロフィー、日本人には馴染みの薄い世界ですが、当時の世界の航空界では、
その最先端の技術が投入されていた重要なイベントだったわけです。
アメリカの軍人、ジミー・ドゥーリトルが操縦し、
1925年に優勝した機体、カーチスR3C.2。
ヨーロッパを離れ、アメリカで開催されたせいもあって、
1924年の大会がこの年にずれ込んでの開催となった。
この機体、現在はワシントンのスミソニアン航空宇宙館に展示されてる。
エンジンは565馬力だったというから、6年後のRtypeによる2300馬力がいかに狂ってるか、
想像できるでしょう(笑)。
ちなみにこの時、彼はアメリカチーム唯一の陸軍軍人でした。
後に陸軍軍人として双発爆撃機で空母から飛び立つことになるわけですから、
よくよく海の上に縁のある人でした。
ドゥーリトル、やはりタダモノではないですな。
くどいながら、さらに余談ですが、今後書くこともないでしょうから書きます(笑)。
結局、イタリアも計3回優勝(無効レースになった19年を入れると4回)してるんですが、
1920年、最初の優勝時のサボイア
S.12のパイロットがルイージさん、
1926年、5年ぶり、3度目の優勝時のマッキM.39のパイロットがマリオさんでした。
さぞや全てを天に任せ、堂
々としたレースであったことでしょうな…。
で、上記の通り、三度目の時は機体設計者もマリオですから、26年はダブル・マリオによる優勝!
ただ、全員名字が異なりますので、兄弟ではないですな。
だからどーした、と考えた瞬間に呪われますので、注意。
ついでにイタリアにおいては、シュナイダー代表機、現在のF1におけるフェラーリのごとき人気だったそうで、
熱狂しやすい国民性ゆえ、国家としてレースに関係しはじめたのも、イタリア、かなり早かったみたいです。
でもって、その1931年の優勝により、シュナイダー トロフィーの所有権はイギリスのものとなり、
これによってレースそのものが終了してしまいます。
なにせ、すでに世界中が不景気な時代ですから、航空機による国際的なレースというのは、
このまま自然消滅してしまい、世界は第二次大戦に向けてひた走る事になります。
自らの手でシュナイダー カップに引導を渡したミッチェルも、
この後は親会社であるヴィッカース-アームストロングの意向にしたがって、
軍用機、特に戦闘機の設計へ没頭してゆくことになります。
まあ、F1のコンストラクターで名を馳せた設計者が、市販用スポーツカーの設計に転身する、
みたいな感じでしょうか。
それってうまく行くの?という感じがしますが、案の定、最初にいきなりつまずきます(涙)。
ちなみにシュナイダー トロフィーで2連覇したS6(B)がスピットファイアのルーツ、
と書かれてる資料がたまにありますが、直接のつながりはありません。
設計者が同じだけに、似たような「クセ」はいくつかありますが。