■スピットへの道 2
第二次世界大戦時、というより、人類史上最高の航空用ピストンエンジン、
ロールス-ロイス マーリン。
秀逸な基本設計と、優秀なスーパーチャージャー類の相乗効果で、
「戦争で使うエンジン」としては他を全く寄せ付けない「品質」であった。
スピットファイア、ムスタングといった戦闘機だけでなく、
ランカスターなどの爆撃機にも使用され、それらを一流の機体に押し上げた。
(ハリケーンは、お互いのために忘れること)
戦後、アメリカでは高速ボートレースなどでも使用されている。
今回、はロイスの話に入る予定だったが、
その前に、どうしてもロールス-ロイスの話が避けて通れなかった。
よって、急遽そちらを書きます。
坊や、無責任なんじゃなくて、無計画なんだよ、おじさんは。
■ロールス-ロイスという会社■
ロールス-ロイス社は二人の男、フレデリック・ヘンリー・ロイス(Frederick
Henry Royce)と
チャールス・スチュワート・ロールズ(Charles Stewart
Rolls)の名前から、
それぞれの苗字を取って名づけたものだ。
だが、事実上はロイスの会社である。
ロールズは何もしていない、と思ってよい。
だから、ここではロイスの側から基本的に説明してゆく。
ちなみに本来は、ロール「ズ」・ロイスという発音が正しいようだ。
そもそもロイスは友人のクレアモントと共同で電気製品の工場を経営していた。
基本的に天才肌で暴走型のロイスが製品の開発、製造を担当し、
「巻き込まれ型」のクレアモントが経理などの金銭面、各種契約や法的対応、
といった実務面を見てゆく、といった体制になっていたようだ。
結果的にクレアモントは、ロイスがその生涯で起こした会社、すべてにおいて、実質的な社長を務めている。
最後にロールス-ロイス社が設立され、本社がダービーに移った時も、なんだかんだと文句を言いいながら、
結局ロイスと行動をともにし、1907年から、亡くなる1921年まで、初代社長(Chairman)を勤めた。
そもそもロイス本人が日本ではあまり有名ではないが、それ以上にクレアモントは知られていない。
ここら辺の事情は本国イギリスでも同様で、通り一遍等な資料類にはクレアモントは名前すら出てこないことが多い。
だが、ロイスがその才能を発揮出来たのも、後にロールス-ロイスが設立された後、
それらがキチンと運用されていったのも、クレアモントの手腕によるところが大きいように見える。
あとで出てくる、ジョンソンが好き放題やれたのも、彼がしっかり本社を守ってたからだろうし。
もう少し、評価されていい人物だと思う。
ちなみに、ここら辺、ホンダの本田宗一郎と藤沢武夫の関係によく似ていて、
なかなか興味深いものがある。
天才的技術者には、実務面をフォローしてくれるパートナーが必須なのかも知れない。
で、1899年、比較的順調に成長してきた彼らの会社は、新たな工場建設を行う。
で、この新しい工場の敷地の向かい側に、電気ケーブルをつくる会社の工場があり、
ここの取締役にヘンリー・エドマンズ(Henry
Edmunds)という男がいた。
彼が後にロールス-ロイスの誕生を引き起こすことになるのだが、それはまた後で。
ちなみに資本金は30,000ポンドということだが、正直高いか安いか、判断出来ない(笑)。
もっとも間もなく登場する、大金持ちのロールズの一族は、その不動産からの年収だけで、
46,000ポンドあったというから、まあ「庶民的小金持ち」といったとこだろうか…。
でもって、そもそも機械工作全般に興味のあったロイスは1901年に当時の最新型だったフランス製の自動車を購入する。
直後に最初の大病を患うのだが、この時はなんとか回復、その間、使用していたこの自動車の出来に
全く満足できなかったロイスは、これなら自分で作ってしまえと思い立ったらしい。
やがて病気が小康状態となった1903年ころから、会社の工場の片隅でその製造に入って行く。
1904年の4月1日、エイプリルフールに(笑)彼は最初の完成車で工場から自宅まで移動し、
なんの問題もないことを確認、自信を深め、製造したうちの1台を社長のクレアモントに贈り、残りを知人らに売った。
この段階で、輸入品との価格競争に巻き込まれつつあった彼の会社で、
電気製品に代わり、あらたに競争力のある商品に自動車が育つかもしれない、と考えてはいたようだ。
安定した2シリンダーエンジンがポイントだったらしいが、特に得意の電気製品の技術を生かした
プラグ関係の装備は、当時としては先端をゆくものだったらしい。
なんにしろ、電気技術者だった彼が、いきなり製品レベルの自動車を、
エンジン、3速のギアボックスまで含めて、丸ごと造ってしまったのだから、ロイス、恐るべし、である。
で、その自動車の購入者の一人にエドマンズがいた。
先に書いたように、ロイスの工場の向かいにあった会社の取締役の一人だ。
ロイスの車を見て、彼は即座に購入を決める。
で、このエドマンズの友人が、ロールス-ロイスの名前に含まれるもう一人の男、
ようやく登場、チャールス・スチュワート・ロールズだったのだ。
二人は同じイギリス自動車クラブのメンバーだったらしい。
さて、ロールズはエドマンズの所有する車を見て、その完成度に驚き、1904年5月、彼の仲介でロイスと会談を持つ。
この会談はロールズの方からマンチェスターに乗り込んでいるので、若い彼の方が熱望したのだろう。
当時、イギリスの国産自動車は数も少なく、愛国心の強いロールズは
なんとしても育ててモノにしたい、と思っていたらしい。
電気関係製品の事業に限界を感じていたロイスにとっても、これはチャンスだったようだ。
結果、両者は共同で事業を行う事に合意。
ロイスが製造を、ロールズがその販売を請け負い、ブランド名をロールズ-ロイス(日本ではロール「ス」と読むが)
とすることに決定、その後、1906年には両者が合同でロールズ-ロイス社を立ち上げる。
ちなみに、電気製品を造っていたロイス株式会社はそのまま存続しており、
ロイスが他界する前年の1932年に別のオーナーに売られたらしい。
で、ロイスが基本的な設計を行っていた電動クレーンは、大幅な変更もなく
1964年まで製造されていた、という話が残っているから、かなりしっかりした設計だったのだろう。
さて、そのロールズは1877年、名門の一族の息子として生れた男だ。ロイスより14歳若い。
先にも書いたが、その不動産などからの収入によって、遊んで暮らせる「ジェントル」な階級の一人だった。
さらに名門の出身にふさわしく、ケンブリッジに学んだ、バリバリの上流階級エリートである。
彼は、大学卒業後に自動車の輸入販売代理店を始めているのだが、その素性を考えると、
「この事業で一発あててやれ」というよりは、半分趣味でやってる事業だったようにも見える。
実際、まだまだ一般に自動車が普及する前の話だから、この時の商売相手は大学時代の裕福な友人連中ばかりだった。
ロールズ本人の趣味も自動車の運転で、後にロールス-ロイスがレースに参戦するようになると、
彼自らドライヴァーとして出場している。
ちなみに、1903年に彼が出した時速93マイル(149km/h)は当時の世界記録だったらしい。
さらに、当時最先端だった、航空機の操縦にも興味を持つようになり、その操縦法も習得、
(イギリスで二番目の公認パイロットだったとの話あり)さまざまな飛行コンテストにも参加していた。
これは、1906年にニューヨークのモーターショーに自社の車を持ち込んだ際、
同会場で行われていたアメリカ飛行協会の展示で、ライト兄弟に出会ったのがきっかけ、とも言われている。
ちなみに、この時代の「飛行機パイロット」という言葉には、今からは想像もつかないような「冒険的カッコ良さ」があった。
金持ちで余暇を持て余した連中には最新流行の「ステータス」の一つだったとも言え、
先に書いたフランスのシュナイダーも金持ちにして飛行家だし、
アメリカの変人大富豪ハワード・ヒューズもパイロットにして、飛行機マニアだった。
だが、その「カッコ良さ」は命がけだからで、危険は常につきまとったのだ。
シュナイダーは大けがしても命は助かったが、このロールズは
会社設立後わずか4年目の1910年7月12日に、飛行機事故によって命を落としてしまう。
このため、ロールズ(ス)-ロイスという名ではあるが、基本的にこの会社の運営には、
ロールズ、ほとんど関わっていないままだった。
会社設立時の出資金の割合が不明なのだが、当時のロイスはすでに名のある会社の社長だったわけで、
なんぼ金持ちのロールズとはいえ、出資金の全額を彼が負担した、というわけでもないだろう。
世界的に有名な「ロールズ・ロイス」だが、本来、その社名は「ロイス」だけで充分なような気がする。
正直言って、ロールズに関しては、特に書く事がないのだ。
ちなみに、ロールス-ロイスが航空機エンジンの制作に乗り出すのは、後に述べるように第一次大戦中、
政府からの要請にしたがったからで、ロールズの飛行趣味は、ほとんど関係がない。
ロールズは典型的な「資本家」で、金は出すがその後は専門の経営者を雇う、というタイプだった。
まさに教科書に載せたいようなタイプの「出資者」である。
実際、会社の経営といった仕事は、彼には全く無理だったろう。
金も出して自分で切り盛りまでやってる、ロイスやクレアモントとは生きてる世界が違った。
なので、彼の自動車輸入代理店はあくまで所有してる、というレベルで、その実際の経営を行っていたのが、
友人で、例のイギリス自動車クラブの関係者でもあった、クロード・ジョンソン(Claude
Johnson)だった。
1904年5月の会談にはジョンソンも立ち会っており、後に彼はロールス-ロイス設立後、
その取締役(director)の一人に就任、事実上ロールス-ロイスのブランドイメージを一人で作り上げることになる。
1907年、ロールズ-ロイスのコマーシャル マネージング ディレクター(取締役の意味の方ね)となった彼は、
その後、マン島T.Tレースへの参戦決定を行ったのを皮切りに、
様々なレースへの参加、イベントの企画を行い、会社のイメージアップに大きく貢献することになる。
また、当時の人気画家(イラストレーター)、チャールズ サイクス(ズ?)(Charles
Sykes)の作品を
そのカタログに採用するなど、広告戦略による「ブランドイメージ」を明らかに意識していた。
後にサイクスは、ロールス-ロイスのボンネット上にあるマスコット、
歓喜の精霊(The
Spirit of Ecstasy)のデザインも手がけている。
ついでに、あのマスコットのモデルはジョンソンの秘書をやってた女性らしい。
日本じゃ明治30年代後半と言う時期に、ジョンソンの活躍により、ロールス-ロイスはここまでのことをやっていた。
ロールス-ロイスと言うと、金持ちのヒゲのオヤジが運転手付きで乗ってる車、
という印象があるが(愉快なパーカーとお嬢様コンビのピンクのアレを除く)、
当時のイギリスでは最先端をゆく「カッコイイ ブランド」だったのである。
ロールス-ロイスは、社長で実務家のクレアモント、会社のエンジンともいえる技術屋のロイス、
そしてイメージ戦略を一手に握っていたジョンソンの3人が一体となって運営してゆくことになる。
ジョンソンは、1912年から数年間、ロイスが病気で、半引退状態に追い込まれた時、
技術分野の指揮もとっているから、優秀な人材だったことは間違いない。
しかし、書けば書くほど、ロールス-ロイスの歴史は戦後日本のホンダの歴史とダブる。
エンジニアと実務家の創業者コンビ、レースへの参戦によってイメージをアップし、技術力も付ける…。
ひょっとして本田宗一郎さんは知ってて、ロールス-ロイスの後追いをしたのではないか、という気さえしてきたぞ…。
この後、ロールス-ロイスはシルバーゴーストの大ヒット、アメリカ進出の失敗、世界恐慌と大戦などなど、
それなりにドラマチックな展開をするのだが、さすがにもう本稿とは関係ないので、ここでは省く。
そろそろ航空エンジンについて述べねば終わらなくなる。
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