■愛知 M6A1 晴嵐
Aichi M6A1
Seiran
大戦中、伊400型という大型潜水艦を日本海軍は建造しておりました。
3機の攻撃機を搭載し、敵の近所までこっそり出かけていって、
奇襲攻撃したれ、というコンセプトで造られた潜水艦です。
その艦載攻撃機として開発されたのが、この晴嵐でした。
ちなみに晴嵐は山岳気象の名で、
空は晴天なのに山の周りに霧が出てる状態などを指すみたいですが、
広辞苑によると、山の荒れた天気を指す事もあるそうな。
ついでに英語で言うとClear
Sky
Stormとなります。
(ホントにスミソニアンの説明にはこう書いてある)
とりあえず伊400型は2隻セットでの運用が前提だったらしいものの、
それでも搭載機は総数でたったの6機。
それも常に全機が可動状態、という奇跡のような大前提の下で、です。
その数でレーダー完備の防空網を海上でも陸上でも持つ
当時のアメリカ軍相手に何ができるの?
と聞かれたら、それは私も知りたいところです、
としか言いようがありませぬ。
さらに終戦によって生還した当時の搭乗員の証言によれば
作戦は通常作戦ながら、母港を出港する前から、
言外に特攻を強要されていた、との事。
実際、後で見るように最大積載量を積むと帰艦後の回収は無理で、
極めて危険な水上不時着しか手段がなく、
だったらそのまま死んで来い、という乱暴な作戦だったようです。
この時期の日本軍の周辺を調べると、
毎度毎度、ホントに泣きたくなります…。
日本海軍は開戦前から艦載機搭載の潜水艦の建造に熱心でして、
開戦時に伊9型、伊15型という艦載機搭載潜水艦を
既に数隻所有してました。
艦載機を搭載した潜水艦は、イギリスが第一次大戦中に計画、
1919年に就役させたHMS M2があり(後に格納庫からの進水で沈没…)、
おそらく、このアイデアをパクッたものでしょう。
ただし、これらに搭載されてた艦載機は
あくまで偵察機で、攻撃兵器ではありませんでした。
ところが、その偵察機でアメリカ本土に
焼夷弾を落とす、という作戦が行なわれる事になるのです。
1942年の9月に伊25から飛び立った零式水上偵察機に焼夷弾を搭載し、
これでオレゴン州の山奥に小規模な山火事を起こしました。
(2回行われ、2回とも成功)
とはいえ、あくまで人っ子一人いない山奥に焼夷弾を落としてきただけで、
何の意味があるの?と聞かれればよくわかりません(笑)。
敵の国民に恐怖を与えるのに、
周囲に何もない場所の山火事では全く効果がないですし、
軍事的、戦略的意味も皆無といっていいでしょう。
実際、これに驚いたアメリカの対応は1942年から43年にかけて、
西海岸の戦略拠点に対するレーダー網を急遽構築する、でした。
これが太平洋艦隊の一部を警戒に回す、とかなら
日本側にもメリットがあったでしょうが、
さすがにアメリカ軍は、そんな意味の無い事はやりません。
逆に水も漏らさぬ、という警戒システムの構築により、
以後、日本軍は近づく事すらままならぬ、
という状況になってしまいます。
が、この成功はいたく海軍のお気に召したようで、
より大型で複数の攻撃機を搭載できる潜水艦、
伊400号型の建造が決定されたようです。
ただし建造の決定はまさに1942年9月とされるので、
もしかしたら、伊400型の先行テストとして、
先のいやがらせ爆撃が行なわれた可能性もありますが、
そこら辺りまではよくわかりませぬ。
とりあえずパナマ運河などを航行不能にするくらいなら、
それで行ける、と思ったらしいのですが、あにかはらんや、
パナマ周辺は、アメリカ本土以上に厳重なレーダーと
航空機による警戒網が引かれていました。
さらに先に見たイヤガラセ爆撃により、その警戒は厳重になります。
そこに加えて、パナマ周辺では
ドイツのUボート対策から、対潜哨戒は厳重で、
もし作戦が実行されていたら、騒音のカタマリだった
日本の潜水艦なんて瞬殺されていたでしょう。
でもって、例によって(笑)開発に手間取った結果、
最初の伊400が就役したのは終戦間近の1944年12月30日、
(ちなみにこれは紫電改の初飛行の3日後)
その相棒の伊401はほぼ10日後の1945年1月8日でした。
もはやサイパンは陥落済み、沖縄に危機が迫っていた段階で、
パナマ運河爆撃など夢のまた夢となっておりました。
このため建造開始から2年以上かかってようやく実戦配備となった
伊400と伊401のコンビとそれに搭載された晴嵐は、
1945年の夏の終戦直前、
ウルシー泊地のアメリカ艦隊を攻撃しよう、という作戦に投入されます。
が、最終的に晴嵐出撃数時間前のタイミングで終戦を迎え、
全ては終わりとなったのでした。
よって、晴嵐も実戦経験はありません。
ただし、現場では情報が錯綜していたそうで、
最終的に日本が無条件降伏したゆえ帰還せよ、
という命令の受け入れが決定されたのは、
日本の無条件降伏決定から48時間近く経った
8月16日の夜9時だったそうな。
(玉音放送は15日朝だが降伏受諾の決定は14日)
正直言って、その製造に至った戦術計画も、
技術的な面も特に見るものは無いですし、正直、見たくないです(笑)。
その上、あまり資料も無い機体だったりします。
なので、とりあえず軽く見て行くだけにしておきましょう。
古い写真ですが、この機体の展示、昔の方が撮影しやすかったので、
一応、全体を捉えた写真として載せておきます。
メーカーの愛知は元々は時計メーカーで、
早くから海外の航空エンジンのライセンス生産をやってた会社でした。
そんな時計メーカー知らん、という感じですが、
今でも保存されてる古民家などで、明治、大正期の柱時計を見ると、
愛知の振り子時計が置かれている事がよくあります。
当時としては、それなりに人気の時計会社だったみたいです。
ちなみに、この晴嵐に積まれている、
アツタエンジンも、ここの製品です。
ドイツのDB600シリーズを日本海軍向けにライセンス生産したものですが、
熱田神宮で知られる愛知県 名古屋市の熱田に会社があったため、
この名になったんでしょうかね。
そこが戦中の1943年(昭和18年)2月に、航空機部門を独立させ、
愛知航空となったわけです。
晴嵐の実機はフロートのせいもあってか、かなり大きく感じられ、
よくこんなデカイものを潜水艦に積んだもんだ、と思ったら、
主翼は根元から、水平&垂直尾翼は途中から折りたためるらしいです。
でも、主翼下にバッチリ付いてるフロートは?
と思ったら、取り外して収納したとのこと。
対して魚雷や爆弾は最初から機体下に搭載して格納庫に収容、
そのまま出港した、との事ですから、
おそらく出港後の武装変更は不可能と思われます。
ヘタをすると、一度攻撃に使用してしまうと、
次の攻撃はできなかった可能性もあり。
基本は奇襲兵器ですから、第ニ波攻撃は考えてなかった
印象がありますしね、この機体。
で、一般的に流布しているデータによれば、
晴嵐に搭載できる爆弾は800kgが1発(魚雷も可)で、
その状態で時速460q以上も出たぜ、という話。
ただし、晴嵐は800kg爆弾、あるいは魚雷を積んでしまうと
フロートを装着しての飛行は出来なくなってしまうはずで
(重量制限のためか、取り付け位置の関係かは不明)
これはフロート無しの数字でしょう。
が、それでも、怪しいと思いますよ、この数字(笑)
公称1400HP前後のエンジンに、2名の搭乗員を載せて
乾燥重量で3.3t、全備重量で4.3t前後となると、
ドイツのJu-87Dと同じような条件ですが、
こちらは実測で700kgの爆弾積んで高度4000mで390q/h前後が
精一杯だったとされます。
重量、エンジンが互角なら、
勝負は空気抵抗(有害抵抗)で決まりますが、
外観を見る限り、この晴嵐がそれより70km/hも速かったとは
ちょっと思えませぬ。
ちなみに250kg爆弾ならフロート付きで飛べた、
という話ですが、何発搭載できたのかはわかりません。
普通に考えれば2発以下でしょう。
4発搭載、という資料も見ますが、そりゃムリってもんでしょう。
ちなみに戦艦に積まれていた41cm砲の主砲弾が約1トン前後。
つまり晴嵐1機で運べるのは戦艦の主砲弾1発分以下です。
となると「伊400号と愉快な仲間たち」6機の
全攻撃能力は41cm砲6発分以下に過ぎません。
これは戦艦 長門に詰まれた全8門の主砲による
たった1回の一斉射撃より、
その攻撃力は完全に劣る、という事を意味します。
つまり2年近くもかけて建造した潜水艦に150名の乗組員を載せて(×2)、
えっほえっほと何週間もかけてアメリカ近海まで出かけていっても、
せいぜいイヤガラセの域を出ない攻撃力しか、
そもそも持っていないんですね。
その任務の危険性はきわめて高いことを考えると、
あまりにハイリスク、ローリターン。
全く意味が無い、と言ってしまっていいです。
まあレーダー無しの相手なら、神出鬼没の潜水艦部隊として、
アメリカの艦隊戦力の一部を引き付ける事もできましょうが、
不幸にしてアメリカはレーダー大国でした。
この点、イギリスもドイツも足元にも及びません。
アホみたいに巨大な伊-401では、
何十隻と建造された安い護衛空母に対艦レーダー積んで
太平洋沿岸を守られれば、それでオシマイです。
あのサイズなら、40q以上先からでも楽に探知できたでしょう。
さらに対艦レーダーを積んだカタリナとかを飛ばされた日には、
100q以上先でも見つけられたはずです。
アメリカ西海岸の防空レーダー網は1943年には完成してましたから、
晴嵐の射出に成功しても、その後もお先真っ暗なのです。
一体全体、何がしたかったんだ、という感じですが、
まあ軍隊なんてどこも似たような面がありますので、
そういったものなんでしょう。
大戦末期の日本軍の場合、特にヒドイ、という部分はありますけどね。
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