写真はアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館の別館、
ダレス空港の横にあるウドヴァー・ハジーセンターにおける展示機で、
これが世界で唯一の晴嵐の現存機。
晴嵐、全体的にヌメッとした有機的なラインで構成されており、
カタチとしては、結構好きですね、この機体。
まあ、例によって窓枠が多すぎるよな、とは思いますが(笑)。
プロペラの軸が低く、機首上部がそちらに向けて
カーブして下降するラインとなるのは
DB600系エンジン搭載機の特徴です。
晴嵐ははDB601のライセンス生産から独自に発展させた
アツタ32型エンジンを搭載していたとされます。
ただし、後で見るようにスミソニアンによるとアツタ31型が搭載されていた、
との事で、どっちが正しいかは、私にはわかりませぬ(笑)。
というか31型なんてあった、とここで初めて知りました。
この機体は晴嵐28号機でこれが最後の生産機、とされますから、
晴嵐は全部で28機しか造られていない事になります(ただし異説あり)。
ここら辺りは、空襲で愛知航空機の工場が破壊された影響もあったようです。
ちなみに作戦に投入された晴嵐6機は
最後に大湊に寄港した際に塗装をやり直したとされます。
これが単なる化粧直しなのか、全く別の塗装にしてしまったのかはわかりませぬ。
とりあえず、展示の機体は日本の工場などで撮影された
機体の塗装を再現したものでしょう。
**追記 秦邦彦さんの著作、第二次大戦航空史話によると、
この時は銀色塗装(ジュラルミンむき出し?)にし、
アメリカ軍機として欺瞞するため青丸の中に白い星まで描きこんだとのこと。
降伏後、晴嵐を海中投棄してしまったのは、
この塗装がアメリカ軍に見つかって問題になるのを恐れたからだとか。
秦さんは作戦部隊全体の飛行隊長から話を聞いてますし、
当時の関係者の証言が全体に歯切れが悪い理由もこれでツジツマが合います。
多分、事実でしょう。
よって、出撃時の晴嵐を再現するなら、ジュラルミンむき出し、
米軍星マーク入り、とい状態になる事に…
さらに実際の機体には、夜間の発艦とその準備作業を考慮して
(奇襲が命である以上、夜戦が基本。レーダー大国相手では無駄なんですが(涙)…)
一部に夜光塗料が塗られていた、とされますが、
夜中に侵入でもしない限り、この塗装でそれが再現されてるかは
確認のしようがありませぬ(笑)。
少し上から。
水平尾翼に書き込まれた白い線、他の機体では見かけないものですが、
なんでしょうね、これ。
あの辺りで水平尾翼は折りたためるようになってるので、
何かそれに関するものでしょうか。
**追記
掲示板にて偏流測定線だとの指摘をいただきました。
この向こうに見えてる目標と、線の位置関係から、
自機の横スベリを測定するためのものだとか。
後部座席には後ろ向きに13mm機関砲が積まれていたはずなんですが、
キャノピー(天蓋)から外に銃身が飛び出してないので、
後部のキャノピーをスライドしないと出てこないんタイプ?
あるいは重量軽減のため、実機では外されていたのかしらん。
**追記
これも掲示板にて後部座席に格納された状態だと指摘をいただきました。
後部風防を動かさないと出てこないものらしいです。
ついでにフロートの尾部に、水上で使う舵があるのにも注目。
低速の水上移動では垂直尾翼のラダー(舵)がほとんど効かないため、
取り付けられたものだと思います。
ゼロ戦にフロートつけた二式水戦や紫電改の始祖、強風のフロートにも
同じようなものが付いてますね。
ちなみに紅のポルコ・ロッソは工場から直接ドブ川に出撃する際、
機体の舵がまったく使えない対策として、地上に固定されたロープをコクピットに引き、
これをパイロットが握って機体を強引に90度カーブさせてます。
曲がったら、ロープから手を離し、そのままドブ川を直進してるのですが、
神業に近い、と思います(笑)。
スミソニアンの解説によるとこの機体は戦後、工場で完成状態のまま
放置されていたものを接収した、とされています。
ただし広島の福山基地から赤塚大尉(
Lt. Kazuo Akatsuka
)がこれに
乗って横須賀まで運搬した、というか部隊の降伏のために飛んできた、
みたいな事が書いてあったりもして、どうも怪しい部分がありにけり。
福山基地は晴嵐が部隊配備されていた所ですから、
そうなると工場からの接収という話は違う、という事になるのです。
そもそも愛知航空の工場は空襲で破壊され、
終戦まで完全には修復されなかったはずで
普通に考えると工場説は微妙です。
が、スミソニアンによるとレストアを通じて、
「大戦末期の日本機らしく、えらくいい加減な造り」
が確認できたそうで、燃料タンク内に品質検査の紙が
置き去りになってるのが見つかるなど、
そのまま飛んだらえらいことになった、というものも多いそうです。
…となると、やはり飛んで来たのではなく、
工場で接収されたのでしょうかね。
まあ、詳細は不明ってことで。
その後、アメリカに持ち帰られるのですが、
カリフォルニアのアラメダ海軍基地に持ち込まれた後、
飛行テストをされたという記録がありません。
どうもアメリカ軍も持っては帰ったものの、特に興味はなかったようです。
結局、戦後のかなり長い間放って置かれ、
1962年にスミソニアンに寄付された後も、
「倉庫が一杯だから」という理由で(涙)長期間、雨ざらしだったとされます。
ホントに大事にされてないんですよね、戦後の日本機(涙)…。
よって相当ボロボロだったのを、ここまでキレイにした、という段階で、
オリジナルのコンディションの維持という点はやや微妙、
といったところがあります。
最終的にスミソニアン航空宇宙部門のレストア第二期の初期、
1997年ころから復元作業に入り、2000年ごろに作業完了、
ウドヴァー・ハジーセンターの開館後、ここに持ち込まれたようです。
ちなみにスミソニアンのホームページによると、レストア作業中、
この機体外板に「村」の字と芸者の似顔絵の落書きが見つかったそうな。
それ以外にもいくつかの落書きが見つかってるそうで(笑)、
「学徒動員の学生のイタズラ?」と推測してますが、どうでしょね。
真正面から。
がに股のオッちゃんを連想させるスタイル。
で、今気が付きましたが、
展示の下の台、これ伊401を意識したものですかね?
芸が細かいな、スミソニアン。
こうやって正面から見ると主翼および胴体下に、
ラジエターもオイルクーラーも無いのがわかります。
全て機首の下に集められてるからですが、1400馬力級のエンジンで、
これで冷却は間に合ったのでしょうか、という不安はありにけり。
もっとも、降り畳み機構の翼にラジエターの設置は難しく、
(配管が外れてしまう)
さらに胴体下には武装を積むわけで、
ここしか置く場所がない、というのもわかりますが…
F-4Uなどでは折りたたまれない主翼の内側の根元に
オイルクーラーを取り付けてますが、
晴嵐の場合、主翼は根元から折り曲げられてしまえたので、それはできません。
(アメリカ海軍が最後まで空冷エンジンにこだわり続けたのは
折りたたみ翼における高出力エンジンのラジエター配置の問題もあったろう)
とはいえ、欧米の機体ではこの辺りの馬力のエンジンから、
冷却力の不足が生じ始め、その結果、ラジエターを2つにして主翼下に置く、
といったデザイン(Me-109D、Ju-87D、スピットファイアMk.IXなど)に
移行して行くわけでですから、やはりそれなりの冷却装置が必要なはずです。
が、晴嵐閣下は、そんなの知るかとアゴ式ラジエター、
しかもオイルクーラーと兼用らしい空気取入れ口で
がんばっておられるわけで…。
…やっぱり、ムリがあるのでしょう、これ。
なんでわざわざ艦載機、
しかも水上機を液冷エンジンにしたんでしょうかねえ。
ちょうどいいサイズと馬力のエンジンが他になかったんでしょうか。
斜め後ろから。
晴嵐は垂直尾翼の舵面が、尾翼の上まで繋がってない、という特徴があります。
これは潜水艦搭載のため、高さ制限から
舵から上の垂直尾翼は横に折りたためるようになっていたからで、
あらゆる場所を折りたたむのがこの機体なのです(笑)。
が、当然、舵の面積が少ないほど操舵性は落ちる事になり、
これで何とかなったんでしょうかねえ…。
ついでに、後ろに向ってこれもか、参ったか、とばかりに高さが下がってゆく
コクピットのキャノピーの形状も見ておいてください。
最後に真上から。
例の水平尾翼の線、実は斜めなのだ、というのがわかります。
機首部分、左側(向って右)だけにエンジン(過給器)の
空気取入れ口があるので、左右非対称ですね。
軍用機なのに、液冷エンジンでフロート付き水上機ってのは、
イギリス辺りの間違った方向に勇敢な実験機を別にすれば、
意外に珍しいので、結構、斬新な印象です。
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