■まだまだ道は長かった

さて、そんなわけで1969年2月に宇宙関連業務会(Space Task Group)から
提案された3つの宇宙計画の内、結局、スペースシャトル案だけが採用となりました。
それから2年後、年内にアポロ計画の終了が決定していた1972年の2月、
ニクソン大統領によってスペースシャトルの開発開始が正式にNASAに提言されます。
(命令(Order)ではなくProposeとされている。議会の予算承認がまだだったから?)

その1か月後、3月には早くもNASAは3つの部位、軌道船、固体燃料ロケットブースター、
そして外付けの大型燃料タンクからなる構造の採用を決定してますから、
それ以前から、あらかじめ研究は進めていたのがわかります。
この辺りはまた次のページで。

さらに8月にはノースアメリカン・ロックウェル社が軌道船の製造を受注することが決まり、
早くも本格的に開発が進められることになるのです。

が、そこに至るまでも、様々な構造のスペースシャトルが検討されてました。
せっかくですから、それらも少し見て置きましょう。



スミソニアンの航空宇宙博物館本館に展示されてるさまざまなスペースシャトル案の模型。
各種検討用に造られたものだと思います。
これらは本体ともいえる軌道船が独立してる、というのはほぼ全て共通なんですが、
単体のロケットに搭載して打ち上げるもの、
燃料タンクを別にするもの、さらに補助用の固定燃料ロケットブースターを付けるもの、
などで大きく形状が異なります。
他にも機動船の下に回収可能な(有翼で飛行しながら戻るもの)
ロケットブースターを取り付ける、といった形態のものまでありますね。

注目は左から二つ目の白円板の上の模型で、右は現在のシャトル軌道船と同じダブルデルタというか、
デルタ翼にLERXを追加した主翼のものですが、問題はその左の機体。
これ、後退翼ですらない単純な直線翼で、普通に考えてかなり無理があるように思うんですが…。

最初っから超音速で大気圏に突入してくるのでそこは力技でなんとかできるかもしれませんが、
着陸直前、超音速から時速800q前後の音速以下に減速した時、
つまり一番重要な瞬間に、翼面上衝撃波で揚力を失う可能性があります。
そもそも、これだと超音速飛行中と音速以下の時の
主翼上の揚力中心の移動にも対応できず、本気でこれ検討してたんでしょうかね…。
あるいは、ひょっとして可変翼なのか?

ついでに、右端の白円上左のものは、従来のサターン型ロケットに
軌道船を括り付けただけのようにも見え、思った以上に、いろんな案があったようです。



ちょっと脱線。
大気圏内に突入後、滑空しながら陸上基地まで戻ってくる、という程度の
“飛行型”大気圏突入カプセルは、実はNASAの第二期有人宇宙計画である
ジェミニ計画の段階ですでに検討されてました。

写真のハンググライダーのような三角の布がそれで、
下に見えてる車輪付きの白黒のカプセルがそこにブラ下がるわけです。

大気圏に突入後、これを開いて滑空しながら地上まで飛んでくる、というもので、
その方が回収がずっと楽ですし、万が一、水没して宇宙飛行士が溺死する事もないわけです。
(実際、マーキュリーの時に一度、カプセルごと宇宙飛行士が水没しかけたことがある)

ちなみに今見ると、なんだハンググライダーじゃん、という感じですが、
当時はそんなものまだ無いですから、なんとも未来的な装置だったと思われます。
ちなみに、この前段階の機体、現在のモーターグライダーの元祖ともいえる
機体の実験をNASAがやった時には、アームストロングも参加しています。
月に行く前から、いろいろやってたんですよね、あの人。

後にハンググライダー、そして洋凧などに応用されることになる三角の主翼は、
NACA時代にラングレー研究所の研究員、フランシス・ロガロ(Francis Rogallo)が
発明したロガロ翼と呼ばれる一種の無尾翼デルタ翼で、
おそらく最初に本格的な飛行実験がされたのが、この計画だったと思われます。



でもってこちらがノースアメリカン社製のカプセル。
2座ですから、ジェミニカプセルを想定してますが、どうも実際のカプセルではなく、
それに似せた構造のデザインなだけ、という感じも受けます。
TTVという正式名称があり、2機が制作されましたが、
ウドヴァー・ハジーセンターで展示されてるこれが1号機なのか2号機なのかはわからず。

全部で7回、ヘリコプターから投下されて飛行実験が行われたそうで、
胴体横にハンググライダーのようなマークが3個描かれてますから、
この機体では少なくとも3回は飛行実験を行った、という事でしょうか。

ご覧のようにカプセル上部のパラシュート収容部に前脚が収められてるのですが、
後部にある主脚はどうもこれ、折りたためないような…。
まあ、そんな技術的な問題の解決に割ける時間が無く、先にも書いたように
1960年代の間に月着陸、という強行スケジュールではこれ以上の開発時間は取れなかったので
結局、不採用に終わってます。


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