■ムスタング以前

とりあえず1935年に当社は以後、軍用機メーカーで行くよ、と決定したものの、
ほとんど実績の無い新顔の会社ですから、話はそう簡単ではありませんでした。
以後、戦争に至るまで、ノースアメリカン社は苦労しながら、地道に実績を重ねて行きます。
ここでは簡単にその流れを確認して置きましょう。

まず再設立当初の仕事は、ゼネラル・アヴィエーション社時代から
既に開発が始まっていた陸軍向けの観測機O-47だけでした。

シュムードも設計を担当していたO-47は完全な失敗作で終わるのですが(涙)、
とりあえず一定の数は受注出来、会社の経営には貢献します。

さらに会社設立直後に開発が始まった初等練習機、
社内名称NA-16、後の陸軍名称BT-9がノースアメリカン社を救う事になります。
この機体が大ベストセラー練習機、T-6テキサンの開発へとつながり、
戦前のノースアリカン社を支える屋台骨となって行くのです。


■Photo US Air force / US Airforce museum

とりあえずゼネラル・アヴィエーション社時代から、陸軍から観測機(Observation plane)の生産は
受注していたので、おそらくその流れで仕事をもらったと思われるO-47観測機。
陸軍では長距離砲の着弾観測や、近距離偵察などに使う気だったみたいです。

受注はゼネラル・アヴィエーション社時代の1934年で、
1935年元旦のノースアメリカン社再設立時に唯一抱えてた仕事がこれでしょう。
とりあえず1935年11月に初飛行、1937年から導入が始まってます。
パイロット、観測員、後部銃手の3人乗りなんですが、後部座席の7.62o機銃は収容式なのか、
写真に写ってるのを見たことがありませぬ…。

性能的には陸軍側の要求が中途半端だったりした結果、全体的にイマイチで、
戦場の前線で使うには重すぎるし、デカすぎるし、遅すぎました。
導入時には世界がキナ臭くなりつつあったため、200機を超える受注をしながら、
戦中にどこでどう使われたのか、よくわからない機体になってます。
標的曳航機なんかにされてたようですが…。

この機体のデザインの一部をシュムードが担当してるのは間違いないのですが、
もしかしたら、既に全体の設計もやっていた可能性があります。
ただしこの辺りは例によって詳細不明です…。
とりあえずノースアメリカン社内でも、元ゼネラル・アヴィエーション社のチームが
その開発を担当して機体だったと思われます。

で、もう一つ、会社設立直後から動き出したのが、陸軍向け
初等練習機(Basic Trainer)の設計です。
1935年春に陸軍が2人乗りの初等練習機の競作試験をすると知ったキンデルバーガーは
これをチャンスと見て、急きょ参加する事を決定しました。
この時、社内名称でNA-16と呼ばれる、キャノピー(天蓋)無しで開放型操縦席の練習機を
わずか9週間、60日前後で設計から完成まで持って行ってしまいます。
ムスタングの前から、こんな事やってるんですね、この会社…。
(ちなみにムスタングは公称102日、実質約140日(笑)での設計だった)

この結果、会社再設立から3カ月後の1935年4月には早くもNA-16の機体は完成、
直後の陸軍の競作試験にも勝ち残り、晴れて採用となります。
これが後のBT-9練習機で、当初は42機のみの発注でした。
このBT-9は後にいくつかの変更を受けてBT-14となり、その後も生産が続きます。
さらにここから戦前のノースアメリカン社の屋台骨、
大ベストセラーとなるT-6テキサンの開発に繋がって行くのです。


■Photo US Air force / US Airforce museum

アメリカ空軍博物館で展示されてるBT-14。
初等練習機だから訓練生が着陸に失敗、
教官に怒られてる所(画面左下)を再現してるんですが、
こういった余計な小芝居を展示に入れたがるのは英米の航空博物館の悪い癖だと思います…。

最初の機体、BT-9はキャノピー(天蓋)無しのむき出しコクピットで、
さらに機体構造は鋼管羽布張り、すなわち鉄の骨組みに
防水加工した布を貼っただけの古臭い構造でした。
さすがに生産途中からキャノピー付きのコクピットに変更となるのですが、
さらにそれを金属製、軽量金属のジュラルミンによる機体に造りなおしたのがBT-14でした。
いや、それってほとんど新規設計では?とも思いますが…。

注目はBT-9と共通の主翼部で、胴体横、脚のすぐ外の位置にフチ付きの結合部があり、
ここで外側の主翼と内側の主翼を分離する設計で、さらに外翼は緩やかな後退翼となってます。

これってダグラスのDC-1〜DC-3シリーズの主翼構造そのまんまですから、
こちらの機体はおそらくキンデルバーガーが
ダグラスから連れて来た連中の設計じゃないでしょうかね。

……はい、ここで少し、脱線しますよ(笑)。



ダグラスDC-3の主翼。
エンジンのすぐ外側にBTシリーズと同じような継ぎ目があり、ここから主翼は別パーツになってます。
さらにその外側は緩やかな後退角がついてますから、
BTシリーズはこの主翼構造を踏襲してるのがわかります。
ちなみにこの機体の場合、後退翼は機体前後の重心点の調整のためなんですが、
BT-9で後退翼を付けた理由はよくわかりません。
で、この主翼構造は、ダグラス設計陣の特徴では無く、ある人物の得意技でした。



こちらはノースロップのガンマ。
この機体の主翼も車輪のすぐ横に繋ぎ目があって、そこから外側が別パーツになってます。
ただし、後退翼ではないですけどね。

そう、この主翼分割構造は、後に全翼機大好きで名を馳せる設計家、
“ジャック” ノースロップが若いころ得意としていた構造でした。
彼の会社は一時期ダグラス社の傘下になっており、DC-1はその影響を受けて設計されてます。
(本人が設計したわけではないらしい)
その派生型であるDC-3も当然、同じ構造だったわけです。
で、その流れを受けて造られたと思われるのが、このBTシリーズなわけですね。

ちなみにBT-9から始まるBTシリーズは少数生産で多くの機種が存在する、
かなりややこしい機体なのですが、ここでは深入りしません。
初代のBT-9と、その改良型のBT-14だけ知っておけば十分でしょう。

さらにちなみにBTシリーズは民間用、あるいは海外輸出用に
社内名称のまま、NA-16の名前でも製造され、
後に日本もこれを1機研究用に購入してます(2機の可能性もあり)。
どうも三菱が自分で金出して買ってるらしいんですが、詳細は不明。
この時期、三菱はスーパーマリン社にスピットの購入も持ち掛けてますから
(少なくともイギリス人はそう言ってる)
なんでもパクッてやれ、という感じだったんですかね。

でもってその後、1937年になってからアメリカ陸軍が初等戦闘機(Basic Combat aircraft)なる
詳細はよくわからない機体の競作試験を行います。
ここにノースアメリカン社はBT-9を改良した社内名称NA-26で参加、
再び受注を勝ち取り、これがBC-1として採用され、180機を受注しました。
ただし、この機体はよく判らないところが多く、
そもそも何に使われたのかもはっきりしません(笑)…。
どうも単純に練習機だったような感じですけども。

 
■Photo US Air force / US Airforce museum

これがBC-1。1938年2月に初飛行してます。

ちなみにBCはBasic Combatの頭文字ですが、陸軍にそんな分類があったのは
この機体くらいのはずで、何の目的の機体だったのかはどうもよくわかりません。
議会への予算対策として、単なる練習機ではないのです、ぜひ必要な機体なのです、
と訴えるために利用した、という話もありますが、確証はなし。
単なる練習機では無く、戦闘にも使えてお得、という事らしいですが、
実際に武装した機体は輸出用に少数が造られただけで、アメリカ陸軍では採用してないようです。

とりあえず胴体は鋼管羽布張りの旧態依然な設計ながら、練習機(だと思う)としては
当時最先端の引き込み式の主脚を持っていました。

さらにこの機体はイギリス空軍からも発注があり、アメリカ陸軍向けを超える
200機近い発注を受けたとされます。
(最終的には400機を売ったともされるが確認できず)

ちなみにイギリス名はハーバード(Harvard)で、この時の納入の段取りの手際よさ、
そして遅延の無さが、ノースアメリカン社の評価を高め、
後にイギリス空軍によるムスタング発注の際、
その決断に大きく影響したと言われてます。



■Photo US Air force / US Airforce museum

で、その機体をジュラルミンによる全金属製にしたのが、このBC-2。
よく見ると垂直尾翼の方向舵の形状、尾輪の大きさなども異なるので、
BC-1からの単純な材質変更だけではないようですが。

ただし、量産はされず、試作3機だけで終わったようです。
ちなみに社内名称はNA-36でした。
これまた、それって完全に別の機体じゃないの、という気もしますが…。

そもそもは先のBC-1をその名のとおり、軽爆撃機に改造するために造られた
輸出用の金属製試作機、社内名称NA-44が原型ともいわれてますが、詳細は不明。
初飛行の日時もはっきりしないのですが、NA-44が1938年7月なので、その頃かと。

とりあえず見ての通り、ほぼT-6テキサンでして、これがその原型となりました。
が、結局、このBC-2は3機前後の試作で終わってしまい、
一部改修されて、後にT-6テキサンと改名して生産される事になったようです。

そもそもは高等練習機(Advanced Trainer)として軍から発注されたのですが、
その辺りの経緯がどうもイマイチ、よくわかりませぬ。
競作では無く、指名買いだったようですが、なぜそうなったのか、どうも謎ですね。
BCの識別記号をT(Trainer/練習機)に変更した経緯もよくわかりません。

ホントにこの辺り資料が無いので(アメリカ人も練習機にはあまり興味が無いらしい)
おそらく、そんなとこじゃないか…という話にしておきます。



というわけで、こちらがT-6テキサン。
大ベストセラーとなり、戦前のノースアメリカン社を支える事になる機体でした。
これまたイギリス空軍も採用しており、こちらはハーバード II と呼ばれてます。

ただし、上で見たようなヤヤコシイ経緯を経て採用されたため、
初飛行日時、運用開始日時などがイマイチはっきりしない不思議な機体となってます。
(よく見る1935年4月初飛行という数字はBT-9のモノで完全な間違い)
少なくとも1940年の段階ではこの名前でアメリカ陸軍が使い始めてるんですが…。

とりあえず15000機以上が造られましたから、数の上では後のP-51とほぼ同数となってますね。
ご覧のように戦後は日本でも使われ、南アフリカ空軍に至っては1990年代まで使っていたようです。


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