■初代P-51登場

さてムスタングの開発に大きなインパクトを与えたのがアメリカのレンドリース法成立でした。
Lend-Lease Acts、賃貸貸し出し法案、と訳せなくもないですが、
この場合のLend は援助の意味で、賃貸援助法といった感じに訳すのが適当でしょう。

1941年3月、第二次大戦開戦から1年半、アメリカ&日本の参戦9カ月前に成立したこの法案は
参戦国ではないアメリカが、大統領の権限で同盟諸国に兵器の賃貸を行える、としたものでした。
だたし賃貸と言っても事実上の無償貸与で、しかも必要な間は使っていていい、
という内容でしたから、実質は無償援助だったと思っていいでしょう。
(ただし1945年9月、日本降伏直後にトルーマン率いるアメリカが戦争予算削減のため、
真っ先にこの計画の中断を宣言したため、
当時、まだイギリスが利用していた物資、兵器はその段階で有償貸与となってしまった。
このため以後、21世紀までかけてその返済が続く。
ちなみにソ連への貸与も同じ扱いになったが、当然踏み倒された(笑)。
ついでにこの点については後にニクソンがソ連に文句をつけてたはず)

当時、すでに国庫が破綻仕掛けていたイギリスはすぐにこれに飛びつき、
このため、イギリスが自腹で購入したのはムスタング I だけで、
以後の機体はアメリカ陸軍がノースアメリカン社に発注、これをイギリスに引き渡す、という形になります。
が、1941年6月にドイツがソ連相手にケンカ売って、当面、イギリス本土の危機が無くなったためか、
この辺りから急速にムスタングへの興味を失って行くのです。
それと引き換えに戦闘爆撃機、高速な戦術偵察機、
そして単発エンジンの地上攻撃機が全く無かった
アメリカ陸軍が大戦への参戦直後からムスタングに注目し、その開発を引き継いで行く事になります。

ちなみにドイツ、日本相手の戦略爆撃機の長距離援護のための機体となるのは、
マーリンエンジン搭載試験後の話で、
この段階では、おそらくアメリカ軍もまともな制空戦闘機として使う気はなかったでしょう。
そういった機体では無いですから。 
あくまで地上攻撃、戦術偵察が目的でした。

ではここでレンドリース法以降のアリソンエンジン搭載ムスタングの開発の流れを見て置きましょう。
後期のアリソンムスタングの開発は、イギリスが主導したムスタング I からの開発と、
アメリカ陸軍によるXP-51からの開発の二つの流れがあります。

ただし1941年秋からのXP-51の試験でこの機体の高性能に驚いたアメリカ陸軍ですが、
それでも強い関心を示すのは1941年12月7日以降(時差のためアメリカは開戦が1日早い)、
すなわち真珠湾攻撃で大戦に参戦してからになりました。
余談ですが、このXP-51の試験とほぼ同時に、あのカーチスのXP-46、
ノースアメリカン社にその開発データが売られた
カーチスの新型機の性能試験も陸軍で始まったのですが、
散々な評価に終わり、当然、正式採用はされませんでした…
 
ではざっと、アリソンムスタング開発の流れを見て置きましょうか。



ムスタング I の次に開発されたのは、その武装強化型のムスタング I A でした。
この機体はムスタング I の機首下の12.7o機銃を外し、
主翼の武装を20o×4門に切り替えたものです。
ある意味、当初の計画の武装にようやく戻った、とも言えます。

その他はエンジンも含めて、ほぼムスタング I のままでした。
という事は、後で見るエルロンの効きの悪さ、という問題をこの機体までは
抱えたままだった可能性が高いのですが、この辺りはまた後で。

この簡単な変更で契約から生産開始まで1年もの時間があるのは妙な感じがしますが、
これはムスタング I の後期発注分、NA-83の生産が42年7月まで続いていたためです。
その終了後、すぐにP-51の生産に入った事になります。
(ちなみに無印P-51は試作機が無く、いきなり先行量産型として造られ、
その初飛行は1942年5月30日。陸軍のシリアル番号は41-37320)

ただし、この機体はすでにレンドリース法の対象として開発されたため、
アメリカ陸軍らからの発注になり、このためP-51の名が正式に採用されます。
これが最初の量産型P-51、無印のP-51ですね。先にも書いたようにP-51Aが最初では無いのです。

後にほぼ全機が偵察装備をつけた戦闘偵察機に改造され、
F-6Aという名前になるんですが、その後、P-51 II と再度名称変更されました。
(F-6AのFは偵察機FinderのF。ちなみに日本語では全部偵察機だが、
英米ではFInder 明確な目的を持って敵の位置や攻撃の被害を探る探査機と
地形図を造ったりとにかく広範囲の情報を取ってくるReconnaissance 偵察機を区別する。
探査機は主に現地部隊のための戦術偵察、
偵察機はより高度な作戦立案のための戦略偵察を任務とする。
といっても、厳密には両者の区分は結構あいまいだったりするが…)

これを貸与されたイギリスでの名前は、主翼の武装変更ですから
イギリス式にその名称にアルファベットが追加されます。
今回はAが付いてムスタング I Aとなりました。


■Photo NASA

1942年夏、おそらく完成直後に撮影されたと思われる無印P-51の5号機。
撮影場所はノースアメリカン社のイングルウッド工場(現在のロサンジェルス国際空港/LAXの横)で
奥にはこれも工場で完成したばかりらしいB-25が見えますね。
右奥に見えてるのは空襲妨害用の阻塞気球だと思われます。

この機体、パッと見るとP-51Aのようですが、よく見れば主翼から
シュムードが見たら失神しそうな感じに盛大に20m機関砲の銃身が飛び出してます。
その外側にあるのは着陸灯。
20o機関砲はベルト給弾で、それそれ125発が装填されてました。
その代わり、機首下の12.7o×2門がキレイに消えて無くなってるのにも注意してください。

こんなムスタングがあったのか、という感じですが、結局150機の生産で終わってしまったので、
ほとんど幻のムスタング、という存在にはなってます。当然、現存機はありません。
それでも一番最初のP-51はこの無印P-51なのです。

20o機関砲への武装強化はイギリスの要望によるもので、
おそらくこれは地上攻撃力の強化が目的でしょう。
バトルブリテンの空の戦いはとっくに終わり、ドイツがソ連にケンカを売った後の発注ですし、
スピットファイアの(この時期だとMk.V(5))生産も軌道に乗った後ですから、
イギリスは今さら迎撃戦闘機は必要としてませんでした。
なので北アフリカでの戦闘や日本の進出が警戒されたインド、ビルマ、シンガポール方面あたりで
ある程度の空戦もできる地上攻撃機、として使う気だったんじゃないでしょうか。


This is photograph COL 465 from the collections of theImperial War Museums 

今回もイギリスの帝国戦争博物館(IWM)からいろいろお借りしてます。
ちょっと珍しいイギリスのP-51、すなわちムスタングI A のカラー写真。
注目は風防上にチョコンと付いてる丸いバックミラーで、やはりコクピット内部のミラーは
ほとんど役立って無く、現地改修でこういったスピットファイア式のミラーが追加されてたようです。

でもって、この頃になるとイギリスにも多少、余裕が出て来て、どう見ても時代遅れのハリケーンを
次々と地上部隊援護の任務に投入しており、それほどこの機体の需要は無かったように思われます。
93機というあってないような数字でも十分だったのでしょう。


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