■後は飛ばすだけだったのに

さて、そんなわけでシュムードの手腕と設計陣のがんばりによって
社内名称NA-73Xことムスタング試作機の設計は比較的順調に進みます。
途中、脚周りに使うマグネシウムのパーツを造る企業が
なかなか見つからなかったり、いろいろ設計ミスが出たりもするんですが、
それでも致命的な遅れは生じませんでした。

その間、設計開始から終了まで設計陣は週7日勤務というブラック企業状態だったそうで、
日曜日だけは少し早めの6時に上がる、という感じだったそうな。
ちなみにアメリカ参戦前ですから、戦争なんだ、ごちゃごちゃ言うな、という
状況では全くなく、純粋な企業努力でこれをやってます。
アメリカ人もやる時はやる、ってな感じでしょうか。

そんな努力の甲斐あって1940年9月9日、正式契約から102日目に試作機の機体は完成しました。
ただし何度も書いてますが、あくまで正式契約の日からで、設計開始からだと
140日くらいかかってるんですけども(笑)…

で、この日、さっそくノースアメリカン社の組み立て現場から引っ張り出されたのですが、
すぐ横にあるマインズフィールド空港までは持ち込まれず、
ハンガーの前で完成写真を撮っただけで終わりました。
(ちなみにこのマインズフィールド空港が戦後、ロサンジェルス国際空港、LAXになる)
理由は簡単で、搭載するエンジンがまだアリソン部局から届いてなかったのです…。
アリソン部局は既定のスケジュール通り、わずか102日で機体が完成するとは
全く信じておらず、この日までにノースアメリカンの工場へエンジンが届くように
最初から手配をしてなかったからでした(笑)。

この辺りがムスタングの試作機のケチのつき始めで、以後は、ここまでの好調がウソのように
次々と量産開始までのスケジュールは遅れてゆく事になります…。
ついでに、シュムードは常に同じゼネラルモーターズ、GM社内の別部局、
アリソンを嫌ってましたが、その理由のルーツはこの辺りにあったと思われます…
(厳密にはノースアメリカン社は別会社でGMの子会社だが)

このため、この時撮影された機体は木製のエンジンモックアップを積んで、
T-6テキサンの車輪を付けて形だけ整えたものでした。
(車輪は後の先行量産型の一部もT-6のものを流用。だたし車輪だけであり脚はちゃんと専用のもの)
でもって、焼き増ししたその写真に何のコメントもつけずに、
アリソンまで送り付けてやったのだそうな。

その後、最終的にノースアメリカン社のエンジン部門の人間が一人、
エンジンをもらえるまで帰って来るな、という条件で
ロサンジェルスから2800q離れたアリソンのインディアナポリス工場に送り込まれ、
最終的に、18日後の9月17日にようやくV-1710エンジンが
カリフォルニアのノースアメリカン社に届くのでした。
当然、この間の時間は、完全な浪費となったわけです。

この辺り、イギリス向けの機体用などでアリソン社も忙しかったのかもしれませんが、
それでも、まだアメリカ参戦前であり同系列の会社である
ノースアメリカン社に指定された日までにエンジンを納品してない、
というのはどうも変な話です。
ひょっとしてそもそも仲悪かったんでしょうか。






せっかくなので、アリソンV-1710の進化の話を少しだけ。
このエンジンは途中で出力軸(シャフト)の手前に入れる減速機(プロペラの回転数を落す機構)
の仕組みを完全に変更してしまったので、P-40Cまでに積まれていたV1710-33(写真上)と、
それ以降のV-1710-39以降(写真下 ただしこれはP-38G用のV-1710-51)
では外見も全長も異なる、という特徴があります。

画面の左側を見れば一発で判ると思いますが、上の旧型ではシャーペンの先みたいな長い減速機が付いてたのが、
新型では普通の減速機に替えられ、その分、全長が短くなってます。
さらには出力軸、シャフトの位置も新型の方が少し高くなってます。
同じエンジンで、ここまで見た目が変ったエンジンは、少し珍しいと思われまする。

でもってムスタングは全長が短くなり、さらにわずかながらも軽量化された
新型のV-1710-39エンジンの採用を前提に設計が進んでいました。
ところが、この納品された新型エンジンが、さらなる問題を引き起こします。
実は、V-1710-39では旧型のV-1710-33と
配線接続部(Wiring harness/電気系の配線?)の仕様が全く変ってしまっており、
「そんな話は聞いてなかった」ノースアメリカン社は、
大慌てでエンジンマウント周辺の仕様変更に追われる事になります。

すなわち機体完成から18日でエンジンはようやく来たものの、
それをそのまま取り付ける事はできず、この結果、
そこからさらに改造作業が待っていたわけです。
この再設計と再改造にさらに10日以上が費やされたため、
全く無為に1か月近い時間が消えて無くなりました。

シュムードは後に筋金入りのアリソンエンジン嫌いになるのですが、
やはりその原因はこの辺りにあったような気もしますね…。
これだけのことをやられれば、どんな人間だってそりゃ怒るでしょう。

結局、NA-73Xの機体完成後、1か月以上が過ぎてしまった1940年10月11日に
ようやく機上でのエンジン試運転が、15日にはマインズフィールド空港にて地上走行試験が、
それぞれ行われ、10月26日になってから初飛行に成功しました。
この10月26日の初飛行は5分だけ、すなわち浮いたらすぐ反転して滑走の反対側から着陸、
というものでしたが、同日中には10分間の飛行にも成功してます。
これは結局、試作機の機体完成から一カ月半以上後の事ですから、
この段階で量産までのスケジュールはすでに大幅に遅れつつありました。

ところが、ムスタングの不運は、それだけでは終わりませんでした。
その後、6回ほど飛行試験を行って、3時間20分の飛行時間を超えた後、
いよいよ高速飛行試験を11月20日に行う事になりました。

ここまでは、ノースアメリカン社の契約パイロット、
ブリーズ(Breese)が操縦したのですが、この高速試験飛行からは別の契約パイロット、
バルフォア(Balfour)が操縦する事になりました。
このパイロット切り替えは何らかの契約に基づく予定通りのものだったらしいですが、
これを不安に思ったシュムードは念のため、ジャッキアップして水平状態にした機体に乗って、
飛ぶ前に一通りの操作手順を確認してくれないかと、バルフォアに頼みに行きます。
が、ベテランだったらしいテストパイロットのバルフォアは、その必要は無いと断って来たのだとか。

ところが、これが裏目に出ます。
高速飛行試験は当初はうまく行き、2回の高速通過飛行までは問題なくこなしてました。
ところが3回目の通過に入る時、燃料タンクの切り替えを忘れていたため、
エンジンがガス欠になってしまうのです。
燃料タンクを予備に切り替えれば問題なかったのですが、
操作に慣れてなかったバルフォアは、途中の畑に緊急着陸してしまいます。
(当時はLAXの周辺も畑だったのだ…)
当然、柔らかい畑に高速で突っ込めば、脚を出していても無事では済まず、
機体は着陸後、ひっくり返って大破してしまうのです。

奇跡的にパイロットは無事だったものの、当然、これの修理に大幅な時間が掛かる事になり、
しかも試作機は一機しか製作予定が無かったため、その修理を待つしか手は無かったのです。
結局、翌1941年の1月13日の飛行再開まで、2カ月近い時間が、
またも完全に無為のまま、流れてゆく事になります。

ノースアメリカン社の技術陣に何ら非が無いのに、エンジンの遅配とあわせ
こうして量産型の開発に入る前に、三カ月以上の、
全く無駄な時間が費やされる事になったのでした。
この辺り、悲劇的、とすらいえる状態だったと言えるでしょう。
これが後のスケジュールに大きく影を落としてゆく事になります。
むろん、もはや契約から1年以内に量産開始は無理になりつつありました。


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