■それでもNAAはがんばった
それでもノースアメリカン社は努力は怠ってません。
試作機が事故で飛べなくなったものの、その段階までに判っていた問題点を変更して、
先行量産機の準備に入って行ってます。
全てが手作りに近い試作機と違って、先行量産機は、
実際に工場で使用する冶具でパーツを造って組上げねばなりません。
このための冶具の設計、生産ラインの設計、といった作業に40年10月から、
すなわち初飛行が行われた直後から、既に入ってます。
さらに言えば、これは冶具類の設計、製作の話であり、
試作機の図面を元に、量産機用のパーツ類の図面を起こす、という作業は
まだ試作機が完成する2か月も前、40年の7月から開始されてました。
つまり、試作機で何か不都合が見つかたら、その段階で量産機のパーツの設計も変更する、
という相当勇気のあるやり方です。
手作業でパーツを造ってる試験機なら、ここの角度をちょっと変える、とかいうのは
そのパーツをその場で変形させれば終わりです。
が、量産機の場合、それを造る冶具から造りなおしですから、
凄まじい手間とコストがかかって来ます。
軍用機の設計は、多かれ少なかれ、作業は試験飛行と並行するのが普通ですが、
さすがに初飛行前からここまで準備を進め、試作機が飛べなくなった後も
作業を中断しない、というのは、かなり勇気ある決断だったと思われます。
ちなみにノースアメリカン社では、計画担当技術者(Project
engineer)という
量産化専門の担当技術者を置き、設計者と工場の現場との橋渡しをするようにしており、
これが量産過程への以降をスムーズにさせる一因となってました。
ただし、この辺り、他社にも似たような職種があったのか否か、確認できなかったので、
ノースアメリカン社だけの特徴かは断言できませんが。
でもって、どの段階でイギリスがこの機体を正式にムスタングと命名したのか、
どうもはっきりしないのですが、少なくとも試作機はNA-73Xとノースアメリカン社の呼称で呼ばれ、
その後の生産型はXを取ってNA-73と呼ばれてました。
ちなみに試作機であるNA-73Xは先にも書いたように一機しか造られてません。
1941年4月23日、手造りの試作機の初飛行から半年後に
先行量産型はようやく初飛行となりました。
このペースでは、どう考えても工場での量産開始を契約から1年以内、すなわち5月に開始する、
という話は無理で、この辺りで契約は破綻してるのですが、
幸い、イギリス側も今さらキャンセルとは言わず、
とりあえずこの機体での試験のため、パイロットをアメリカまで送り込んでいます。
ただし実はこの段階では、まだ完全には工場製造のパーツが揃っておらず、
一部手作りのパーツが使われており、さらに言えば、車輪も相変わらずT-6のものだったようです(笑)。
この先行量産機はイギリス向けが9機、アメリカ陸軍向けが2機、それぞれ造られたと見られます。
先行量産型の4号機と10号機がアメリカ陸軍に納入されており、これが後にXP-51となるわけです。
さらに先行量産型の1号機と3号機はアメリカ国内でテストされ、イギリスには最後まで渡ってません。
でもってムスタングは基本設計がよほど優れていたのか、試作機と量産機の間で、
大きな変更は私の知る限り、四か所だけです。
まずは先にも見た冷却部の空気取り入れ口が機体下面から浮いてる状態に変更された事、
機首上面のエンジン用(加給機用)空気取り入れ口が延長された事、
三つめは防弾装備が付いたこと、ですね。
ただし防弾装備の追加は当初からの計画ですから、
この点については大きな問題はなかったと思われます。
最後の四つ目は武装で、試作機には一切武装がありませんでした。
ちなみに以前にも書いたように、イギリス側は当初、片翼20o×2門の搭載を求めており、
もし試作機がこの条件で作られたなら、
そこも大幅な変更があったと思われますが、この点は全くわかりません。
写真を見る限り、NA-73Xにはそもそも武装搭載関係の機材は一切付いてないようにも見えますが…
とはいえ、細かい変更は他にも数多くあり、最終的にP-51A型になるまで、
結構、あちこちがいじられてたりはしてます。
■Photo NASA
写真はアメリカ陸軍に納入されたXP-51。
なめらかな機体のラインと、それを維持する凸凹の無い機体表面を見ておいてください。
すでに書いたように先行量産型の4号機と10号機がXP-51となったのですが、
この写真はおそらく武装無しで納品された10号機の方。
コクピット正面に防弾ガラスが入っており、その他の防弾装備も実装されてます。
さらに矢印の二か所が試作機から大きく変わった部分です。
まず、あまりに小さい隙間で判りにくいですが、
腹の下の空気取り入れ口が胴体から少し浮いた位置に取り付けられています。
もう一つは機首上のエンジン用空気取り入れ口で、量産機ではプロペラ直後まで伸びてますが、
試作機では、数十pほど後ろに下がった位置にありました。
最終的にエンジン(過給機)によく空気が入らん、
という事が判明、より空気が強く押し込まれるプロペラ直後まで引き延ばしたようです。
さらに細かい事を少し書くと、実はこの空気取り入れ口の引き延ばし改造は
先行量産機でも当初はやってませんでした。
が、現在残ってる写真を見ると、伸びてる機体と、伸びてない機体の写真が混在しており、
どうも後から、全機でここを引き延ばす改造をやってるような感じですね。
さて、カリフォルニアのノースアメリカン社にイギリスのパイロットが来て試験をした後、
先行量産機の2号機が1941年8月にイギリスに向けて船積みされました。
すなわち正式契約から1年3か月後にようやくイギリスに向けて最初の機体が送り出されたわけです。
これは無事、イギリスに到着して、イギリス本土で本格的な試験に用いられます。
その後、さらに先行試作機6機が9月中にイギリスに送られ、最終試験を行い、
これでゴーサインが出て、ようやく本格的な量産準備が始まりました。
ちなみに、この先行量産型7機の内、最低でも2機が(実際はもっと多かったらしい)、
なぜか後、1942年の5月ごろにソ連に送られ、
その後、フィンランド空軍相手に戦う、という数奇な運命を辿ってます。
このため、フィンランド空軍はムスタングの先行量産型と実戦で戦った
おそらく唯一の空軍だと思われます。
結局、本格的な量産が始まったのは1941年11月ごろ、
すなわちアメリカの第二次世界大戦参戦のまさに直前でした。
が、そこはノースアメリカン社、生産性を徹底的に考えた機体は、
1941年中に早くも138機を製造、翌1月には86機を生産し、
引き渡し分第一弾の製造を終えてます。
その直後の2月には改良型の機体、ノースアメリカン社の呼称でNA-83が初飛行、
以降は、こちらに生産が移行して行く事になりました。
ただし、イギリスはこの時、機体の名称変更をしてないので、
分類上は、これもムスタングI のままです。
この辺りのややこしさは、次回、ちょっと見てゆきます。
その後、イギリスでの実戦部隊への配備の開始が1942年1月末となり、
この時期になるとイギリスも特に焦っておらず、4か月近い慣熟訓練を行って、
実践投入されたのはようやく1942年5月からとなります。
(主戦場はソ連対ドイツに移ってた。イギリス空軍は北アフリカのロンメル戦と
極東のシンガポールからインド周辺の戦いが主となる。海軍はUボートとの死闘が続いてたが)
すなわち正式契約から、あるいは本格設計開始から2年で
ムスタングは実戦投入された事になります。
参考までにわずかに時期が早いものの、ほぼ同時期のドイツのFw-190が設計開始化から
1941年夏の実戦投入まで約3年、日本の同世代機、陸軍の三式戦 飛燕もほぼ同じくらい
実戦投入まで時間がかかってますから、1年以上短い時間で、
あれだけの戦闘機を造り上げてしまったシュムードとノースアメリカン社のスタッフは
やはりスゲエと言うほかないでしょう。
ちなみに例の現金商売政策(Cash
and
carry)のため、
イギリスへの輸送はイギリスの輸送船を使って行われたので、
これらはUボートの襲撃を何度か受ける事になりました。
確認できる範囲内では20機前後のムスタングI が輸送船の沈没で失われています。
イギリスに引き渡されたムスタング
I は600機前後とみられますので、
約3%が輸送中に失われた事になりますね。
といった感じで、今回はここまで。
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