■イースタンエアクラフト FM-1 ワイルドキャット
Eastern Aircraft FM-1 Wildcat


今回はワイルドキャットでもイースタン エアクラフト(Eastern Aircraft)社製のFM-1です。
これはグラマン製の発展型ワイルドキャットF4F-4から機銃を2丁減らして
イースタン エアクラフトでライセンス生産された機体となります。

でもって最初にこの機体が展示されてるスミソニアン航空宇宙本館、
ここがいかに撮影が難しい環境か、を写真で示しておきます(笑)。

今回は、中途半端な印象の写真が多いのですが、
責任はこんなゴチャゴチャな展示をやってるスミソニアン協会にあるよ、という事でひとつ。
ご覧のように、狭い室内に上には天井からドーントレス、奥にはA-4が鎮座しており、
FM-1 ワイルドキャット本人は右下の矢印の先、一番下に小さく展示されてる、とういう
他にあまり例を見ない密度の展示室で、撮影できる角度は極めて限られるのです。
この点は、あらかじめご了承くださいませ。



さて、ワイルドキャットはグラマン社の製品なのですが、総生産数約7800機の内、
実際にグラマンが製造したのは2500機前後で、全体の1/3以下に過ぎません。
残りの約5300機前後は自動車会社のゼネラルモーターズ(以下GM)による生産でした。
ただし実際に生産を請け負ったのは、その社内の部局(division)、
イースタン エアクラフトとなります。

アメリカ海軍の場合、生産者が変わると機体名が変わってしまうので、
イースタン製のワイルドキャットはFMと呼ばれてます。
大雑把に説明すると1950年ごろまでのアメリカ海軍の場合、
機体名にはメーカーごとのアルファベットが付いており、
グラマンならF、イースタンならM、ヴォートならU、といった感じで決まってました。
戦闘機の場合、最初の一文字はFと決まっていたようで、
よってグラマンの戦闘機ならFF、イースタンならFM、ヴォートならFUとなります。

さらにそこに数字が入るんですが、基本的には各社の採用順のようで、
ワイルドキャットはグラマンによる4機目の戦闘機なのでF4F、
イースタンにとっては最初の戦闘機なのでFM1となります。
いや、それはF1M じゃないの、と思うんですが(笑)、ここら辺りの理由はよくわかりませぬ。
ちなみにアメリカ海軍は同時期にF4F(ワイルドキャット)とF4U(コルセア)を運用、
どれだけF4が好きなんだと思われてますが(私だけ?)
これはたまたまグラマンにとってもヴォートにとっても4機目の採用だったからです。

ついでにグラマンの次の戦闘機がF6Fなのは、間に一部で人気の(笑)
XF5Fスカイロケットなんていう試作機を造っていたから。

ちなみにイースタンは自動車メーカーのGMが国の要請で
戦時に新たに立ち上げた部局(division)です。
部局(division)という概念は日本ではちょっと説明が難しいのですが、
トヨタにおけるレクサスみたいなもので、レクサスってトヨタじゃん、
でも別の名前で車造ってます、という代物です。
社内における分社みたいなもので、ブランドごとに部局として独立させ、
その生産する車種を変えて差別化するためにGMが始めた制度です。
この制度を航空機生産でも適用したんですね。

で、なんで自動車メーカーが、というと、何しろ大量生産の申し子、
ヘンリー・フォード閣下によってアメリカの自動車メーカーは数をこなすのに長けていたからで、
フォードもB-24爆撃機の生産に参加してます。
GMの場合、その社長だった(CEOではないPresident)
ビル・ヌードセン(William S. Knudsen ウィリアムだから通称でビル)が
戦時の兵器生産統制責任者としてルーズベルト大統領に引き抜かれていたため、
その指示でこれを請け負ったと思われます。

ついでに書いておくと、ゼネラル モーターズなんて
第二次大戦時の兵器関係で全く見かけない名前ですが、
実はこの会社があの戦争における航空機産業を支えてた、という面がありました。
グラマンのワイルドキャットとアヴェンジャーを代理で造りまくったイースタン、
そして航空エンジンのアリソン(P-38、39、40などの液冷エンジンを造ってた)、
さらにはP-51やB-25で知られるノースアメリカン社、これらは全てGMの配下にありました。
(イースタンとアリソンは部局の一つで、ノースアメリカンは資本支配した子会社)

ここに元祖大量生産マニアのヘンリー・フォード率いるフォード社による
B-24爆撃機の大量生産、そしてイギリス・フォード社によるマーリンエンジンの大量生産が加わると、
あの戦争における自動車産業、というか大量生産バカ一代、ヘンリーの影響がよくわかります。
当然、戦車やジープなんかも、ほとんどこの連中(クライスラーを含んだ3大メーカー)が造ってた訳で、
もしヘンリー・フォードが居なかったら、あの戦争はだいぶ違った形になっていたでしょう。



やはり主翼表面は滑らかに造られてますね。
こうして見ると紫電改は空を飛べただけでも奇跡かも知れぬ、と思えて来ます…。

主翼上面、10の数字の上に小さな凸部がありますが、
あれは機銃とかの関係ではなく、主翼折りたたみ用のヒンジ部の頭が入ってます。

ワイルドキャットに話を戻すと、最初の量産型であるF4F-3に続き、
まもなく発展型のF4F-4の量産が始まります。
この機体からイギリス向けマートレットIIと同じ主翼折り畳み機構が追加されたほか、
エンジンも同じR1830ながら新型になったらしいのですが、どうもエンジンの変更点はよくわからず。
さらにF4F-4からは機関銃も6門に増えてます。

で、この辺りの重量増加によって加速性、上昇力は先代のF4F-3より悪化してしまう、
という結果になり、パイロットからはあまり人気が無かった、という話もあり。
ちなみにF4Fは最初の量産型F4F-3が最も高性能だった、という妙な機体でもあります(笑)。

それでも、この主翼折り畳み機構によって艦内での収納空間は大幅に小さくなり、
空母への搭載数はF4F-3に比べて 1:2.5と2倍以上に拡大、
F4F-4の配備が始まりつつあったミッドウェイ海戦の戦闘などに貢献したようです。

が、このF4F-4の生産が始まった頃には既に次のF6Fの生産準備が進み、
グラマンではF4Fにいつまでも構ってられない、という状況になって来ます。
そこでその生産を引き継ぐことになったのが、
戦時に立ち上げられたGMの新部局(division)イースタン エアクラフトだったわけです。
グラマンによるF4F-4の生産は1100機前後で打ち切られ、その後をイースタンが引き継ぎ、
1942年の8月ごろから1050機前後を生産しています。

ちなみにこの生産移管は新たに生産ラインを作るのではなく、
ニューヨークにあったグラマンの工場の生産ラインを丸ごとそのまま
ニュージャージー州のリンデンにあったイースタンの工場に移す、という内容だったみたいです。
この辺りに手間取ったからか、1942年中には20機前後しか生産されず、
本格的な量産は1943年以降となってます。

ただし、イースタンで生産されたFM-1は単純にF4F-4を引き継いだものでは無く、
機関銃が計4門に減らされた他、細かい修正がいくつかあったようです。
F4F-4では機銃の数は増えても携行弾数は、あまり増えなかったので
(むしろ減ったという説もあるがこれは怪しい)
4門に戻して携行弾数を増やした方がいい、という結論になったみたいですね。

ちなみにFM-1では4門に機銃を減らしたものの、携行弾数を1720発と、
1門あたり430発と従来の倍以上にしたため、
総重量はF4F-4とほとんど変わってません。

その他にも細かい改修があったようですが、詳細は不明。
調べれば調べるほど、この機体、アメリカでも人気がないのだなあ、
と実感させられる資料の少なさです…。


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