*2024年7月

「江州余吾庄合戦覚書」を基に一部を追記。
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■4月20日午後の階段

この日、4月20日の戦闘終了時刻ははっきりしないのですが、少なくとも岩崎&大岩山砦の攻防は午後遅くまで続いたと思われます。ただし両砦が陥落した後、少なくとも日没前に佐久間は戦闘を休止、以後、部隊を休息に入れてしまい、この日はそれ以上何もしないで終わります。

ここで20日の戦闘終了段階の柴田軍の戦力を推定すると、神明山砦を抑えたと思われる前田軍が三千(前田家譜)、柴田勝家が率いる同木山と左禰山の両砦を抑える部隊も恐らく三千ずつ程度(柴田勝家を最後まで守った人数と前田軍の人数からの推定)、賤ケ岳の砦の抑えも同じような人数のはずですから、羽柴側の各砦を抑えるだけでざっと一万以上。

そこに主力の佐久間部隊の一万五〜六千が加わります。後方に置いて来た予備部隊、山岳路の砦に入った人数なども居たと思いますが、それでもやはり三万前後が柴田軍の全力でしょう。実際、後に五月に入ってから秀吉が毛利家の小早川隆景に送った手紙(毛利家文書)の中で敵は三万、としてます。

ただし佐久間部隊には、岩崎山&大岩山の両砦攻めに置ける戦闘損失がありました。
負傷で戦闘不能になってしまえばこれも戦力外であり、激戦だったとされますから一割以上の人的損失はあったはずです(繰り返すが戦死者では無く戦闘不能者。戦死者だけならもっと低い数字だろう)。よってこの段階で少なくとも千人以上は脱落していた、と推測します。それでも戦場内に二万を超える兵数を維持していたと思っていいでしょう。

対して羽柴軍の人数は、本陣の兵数が不明なので、あまりよく判りませぬ。
それでもざっと推測すると、各砦は岩崎山&大岩山砦と同じ千人ずつ、ただし左禰山砦だけはやや大規模なので二千人と見て凡そ七千人。本陣である田上山砦の人数が不明なのですが、翌日、秀吉は第一陣としてここから六千を出撃させています(イエスズ会年報)。個人的にはこれが最も疲労が少ない(戦闘も移動もしてない)田上山砦に居た兵ではないか、と推測しており、それが正しければ総数で一万三千人前後が羽柴側の兵力となります。

いずれにせよ、この段階で戦場に居る兵数は柴田側が圧倒的に多く、単独の機動部隊としては佐久間隊が最強の打撃力を維持していました。すなわち柴田側が兵数でも打撃力でも優位に立っています。

この状態をひっくり返してしまう存在が約二万人と推測される羽柴軍本隊です。到着次第、総員が遊撃軍として戦場に突入できる存在なのは強力です。疲労が少ない、そして佐久間隊を超える打撃力を持つ部隊が戦場に突入して来る事になるのです。こうなるとここまでの柴田側の優位は一気に逆転します。よって柴田軍としては秀吉と羽柴軍本隊の到着前に敵の本陣である田上山砦を落とし、封鎖線を突破せねばなりませぬ。

その条件の下で、以下のような状況に両軍はあったのでした。



羽柴側の砦で、敵の攻撃を受けて無いのは本陣の田上山砦のみで、他の全ての砦は包囲され抑え込まれるか、既に陥落していました。その田上山砦と対陣する岩崎山&大岩山砦は佐久間部隊に占領されてしまってます。両者の間隔は最も狭いところで1qを切っており、砦は通路で連結されていたはずですから侵入経路まで確保されてしまった事になります(補給と連絡の問題から近場の砦の間には堀などによる連絡路があるのが一般的)。この状況で数的優位は佐久間部隊にあるのです。田上山砦は極めて危機的な状況にあったと見ていいでしょう。

ただし佐久間部隊と田上山砦の羽柴軍には決定的な違いがありました。

疲労度です。佐久間部隊は高地にある両砦を攻め落とす戦闘で完全に疲労困憊していたはずですが、その間、全く動きが無かった田上山砦の羽柴軍は体力、気力共に万全だったでしょう。恐らく、これ以上は疲労によって戦闘は無理だ、と佐久間は判断し、この日の戦闘継続を断念したのだと思います。ただし、秀吉の本隊はまだ来ないから休養を取って明日にのんびり攻めよう、という甘い判断を佐久間がやった可能性は捨てきれませぬが…。

ちなみに「天正記」では「速やかに引き取って置けば、一段と勝手になるべきところに、勢いに因ってこれを破り、そのまま陣する」と、佐久間は勝ちに乗じていい気になり、砦に居座ってしまったとされています。確かにそれもあったでしょうが、それ以上に疲労で動けなかったと見るべきでしょう。大岩山砦を落とした、という事は高層ビルに匹敵する高さを駆けのぼりながら数時間にわたり戦った事になります。これは兵にとって無茶苦茶な疲労を伴ったはずです。

この疲労が完全に抜けないまま、翌日、秀吉の軍勢と決戦を迎えることになったのも致命的でした。あれだけ基礎体力をつけてるプロのサッカー選手でも、90分の試合の後、連日で戦う事は不可能です。その不利は恐らく想像以上に深刻だったでしょう。

佐久間の過ち

繰り返しますが、佐久間は田上山砦、羽柴側の本陣を素早く攻めるべきでした。
たとえ攻め落とせなくても、これを包囲するだけで以後の展開は変わっていたからです。この夜から翌朝にかけて秀吉本人と羽柴軍の本隊が続々とこの田上山砦に集結して来るのですが、佐久間部隊が包囲していたら、これらの合流を阻めました。

この時は指揮官の秀吉が馬周り周だけを連れて先行して到着、羽柴軍の本隊はバラバラに急ぎ進軍しながら現地入りしたはずですから、全軍が集合する前に各個撃破できた可能性が高いのです。ですが佐久間はこれを成しませんでした。兵を両砦に入れて、田上山砦に睨みを効かすだけで、この日の行動を終えてしまいます。

ちなみに江戸期に成立した怪しい書物やそれを元にした司馬遼太郎さんの小説だと、この日、柴田勝家と前田利家がその砦は危険だから退け、と忠告したのに対し、勝ち戦で頭に血が上った佐久間がこれを拒否した、とあります。ですが信頼できる史料の範囲にそういった記述は見られませぬ。「利家夜話」の中で、佐久間が中川の砦を攻めた時、オレの助言を聞かなかったから負けた、と前田利家が述べてるのは、その点を指してる可能性がありますが明確ではなく、よってこの記事ではこの説は取り上げません。

この点、「江州余吾庄合戦覚書」では玄蕃の活躍に柴田軍は大興奮、といった記述と同時に本陣に戻るかと思ったのに戻らなかった、どうやら翌日に賤ケ岳の砦を攻める気なのだろうと皆で話していた、と述べています。この辺りを読む限り、柴田側にそれほどの危機感はやはり無かったと思われます。
 
さらに言えば、ここから撤収となると、全軍を権現坂から尾根筋まで登らせ、その上で山岳路沿いに別所山砦付近まで戻るしか無いのです(茂山砦には前田軍が居たし、そもそも万単位の人数が入れる砦ではない)。これは距離で約5q、さらに権現坂は標高で約390mあるので、そこに戻るだけで高低差約260m(東京都庁の展望台より高い。東京タワーの上部展望台、あべのハルカスの展望台にほぼ等しい)を疲労困憊した部隊を連れて撤退する事になります。これは並大抵の苦労では無いでしょう。佐久間がせっかく占領したのだからと両砦に居座ったのも、ある程度までは理解できる部分ではあります。彼の過ちは田上山砦を囲まなかった事、そのための兵力を温存しなかった点にあると思っていいでしょう。

ただし両砦はそもそも二千人の人数しか入って無かったのですから、戦闘後でも一万を軽く超える人数を維持していた佐久間部隊はここに全員は入れなかったはずです。実際、「豊鑑」には佐久間の部隊は余呉湖湖畔(汀)に居た、と書かれているので、この日は分散して宿営したと思われます。それだったら、その部隊を田上砦側に展開させていれば…と個人的には思ってしまうのですがね。

とりあえずこの日、佐久間は田上山砦を攻めませんでした。秀吉による高速移動戦術(後で見るようにこれは移動速度では無く決断力による行動の速さだが)は、明智軍と戦った時のいわゆる“中国大返し”で良く知られていたハズなのに、なぜそこで休止するのか、という疑問は残ります。佐久間が油断していた、という批判は逃れられないでしょう。

これは取り返しのつかない失策であり、その過ちは翌日の柴田軍の敗北に直結する事になります。

■大垣の秀吉と羽柴軍本隊

この日の佐久間の襲撃は、速攻で大垣城に居る秀吉に伝えられました。

「天正記」によると巳の刻、午前10〜正午ごろに第一報を受けたとされます。ただし秀吉は直ぐには動かず、申の刻、おそらく午後4時ごろになってから大垣城を出ました。間違いなく時間との勝負なのに第一報を受けてから少なくとも4〜5時間近く大垣に留まった理由は謎です。既に見たように、4月20日付の秀吉の手紙が残って居るので、もはや勝った、と判断して戦後処理のためにあちこちに連絡の手紙を書きまくっていたのか、あるいは柴田軍が自軍の砦に戻らずに戦場に踏み止まるのを確認できるまで待ったのか。いずれにせよ、明確に述べた資料が無いため、正確な理由は不明です。

ここからいわゆる「美濃大返し」と呼ばれる高速移動を秀吉は行い、田上山砦がある木之本を目指して北上を開始します。
「天正記」によれば申の刻(午後3〜5時)に大垣を出て戌の刻に木之本の本陣(午後7〜9時)に到着、十三里(約52km)を二時半(5時間)で突破したとされます。ただし馬に乗っての移動であり、一緒に移動したのは、これも全員騎馬武者の馬回り衆(将の護衛隊)でしょうから、この点に関しては決して無理な数字ではありませぬ。

ちなみに国道21号〜365号がほぼ同じ経路となりますが、それでざっと45qほどの行程です。5時間で突破したなら時速で10q以下、途中の駅で馬を三、四頭も乗り換えれば問題なく移動可能でしょう。一帯は秀吉の地元ですから、その辺りの手配はとっくにやっていたはずで、驚くべき点はありませぬ。大垣から関ケ原を超えると標高差で約130mありますが、かなりゆっくりした登りであり、そこまで厳しい道のりでは無いですし。「天正記」にある、古今稀有の働きなり、は少し言い過ぎだと思います。この辺りは自分の行動を劇的に見せたい秀吉の自己顕示欲による宣伝の匂いがします。



「天正記」によるとかつての強敵、浅井家の本拠地だった小谷城の辺りで夜を向かえたとされます。矢印の先がその城跡。

この時の秀吉はほぼ現在の国道365号の経路で関ケ原から木之本の本陣に至るのですが、途中で通過する土地が、姉川の合戦場、かつての秀吉の本拠地である横山城跡、そしてこの小谷城の跡地(一時期、秀吉も住んでた)とそれを攻めるために織田側が建てた虎午前山城跡と、彼の武将人生前半を彩る思い出の地ばかりであり、本人は気分的にドンドン盛り上がってきました状態のハイテンションだったかと想像してます。自分に酔う人ですからね、秀吉。

ただし問題は秀吉が率いていた羽柴本軍約二万人の移動です。
これも大垣から当日の夜までに木之本にまで移動してしまったのなら人間の限界を越えた移動速度となります。少なくとも秀吉本人より先、正午くらいには出撃させたとしても、翌日の合戦に間に合うには18時間前後しかありません。必要な速度は時速2.5q、人間の平均歩行速度4qよりは遅いですが、完全武装の兵が隊列を組んで移動するにはかなり厳しい数字です。さらに言えば、最低の休息を取らないと合戦には投入できませんから、実際に残された時間はもっと短かったはずです。

同じような強行軍だった姫路城から山崎の合戦に羽柴軍が向かった時は約100qの移動に約4日掛かっています。一日平均25qの移動です。しかもこの時の合戦は今回の主人公、地元で待っていた中川清秀、高山右近、それに加えて池田恒興が先陣を務めて主力として戦っており、疲れ果てていた秀吉本隊はそこまでシンドイ戦闘には投入されてません。

さらに言えば、連載の初回に見た頭に血が上った家康率いる徳川軍が、浜松から鳴海城までの約90kmの移動に三日かかってますから、やはり一日あたりだと30q前後が限界でしょう。ちなみに徳川の兵数が不明なので単純比較は出来ないのですが秀吉の進軍が実はそれほど速くないのにも注意。秀吉の素早さは移動速度よりも即断即決、そして素早く軍を動かせるように準備しておくことで、結果的に敵の予想を上回る速度で戦場に現れる点にあります。

よってもし大垣〜木之本45kmを18時間足らずで突破し、合戦に臨んだのなら驚異的な新記録樹立となります。ただし普通に考えて人間には不可能な数字であり、もし可能だったとしても疲労困憊して戦闘には使えないでしょう。ではなぜ羽柴軍の本隊は翌日の戦闘に間に合うように移動できたのか。

ざっと考えると以下のような推測が可能です。

●その1 大垣から長浜城に入って船で賤ケ岳のすぐ南にある飯浦の港に送り込まれた

●その2 大垣には本隊の主力を連れて行かず、この日まで長浜に置いてあった

●その3 秀吉の陣中にはドラえもんが居た

常識的に考えると「その3」が最も理にかなってるのですが、残念ながら当時の記録にその名は見えません。
残り二つの内、その1はこの段階で秀吉が万単位の兵を動かせる水軍を琵琶湖に持っていたとは思えないので、これも怪しいです。ただし鉄砲隊など重装備で脚が遅いのだけど真っ先に現地に入れたい部隊を抽出、先に船で送りこんでいた可能性は残ると考えています。こういった面倒な段取りが必要な事務仕事を得意とする石田三成は既に秀吉の配下に居ましたし。

以上から推測して、恐らくその2が正解でしょう。物理的にも、戦術的にもこれが最も現実的です(ドラえもんが居ない場合に限る)。



本隊を長浜に置きっぱなしにしてあった場合を図にするとこうなります。
長浜からなら木之本までわずか15qの距離しか無く、昼過ぎごろに出撃して置けば、完全武装の万単位の軍団でも深夜になる前に木之本に到達できます。これなら翌朝までに最低限の休息も取れるでしょう。既に見たように秀吉はその土木工事の進捗から柴田軍の行動を読んでたはずですから、大垣に比べて1/3の距離しかない長浜に本隊を置いてあった、と考えるのが自然かと。

ただし「豊鑑」には秀吉は二万の兵を連れて大垣に向かったとあり(木之本の本陣から出たことになっているのは間違い)、さらに秀吉本人が合戦後、5月15日付で毛利家の小早川隆景に送った手紙にも「先手の部隊(先備)として二万の兵を岐阜方面に送った」とあります。

これを見ると、秀吉は二万の人数を持つ本隊を岐阜に連れて行ったように見えます。
が、毛利への手紙には「先手」とあり、先遣隊としてるのです。となると、これは秀吉の持つ羽柴軍本隊とは別の軍勢、秀吉の配下に入っていた武将たちの軍勢ではないか、と思われます。実際、秀吉の賤ケ岳方面への第一回出陣に参加していた武将で、以後、名前が出てこない人物が結構います(宿老である池田と丹羽、さらに筒井順慶、細川忠興、仙石秀久などはそれぞれ国に帰って居たが、それ以外にも山内一豊、浅野長政、前野長康、黒田官兵衛らの名前が以後、出てこなくなる)。

ただし軍事的には無力の岐阜の織田信孝相手に二万の兵は多すぎる気がします。この点、「イエスズ会年報」だと秀吉は約一万の兵を大垣に残して来たとされており、この辺りが大垣に送り込まれた先遣隊の人数じゃないでしょうか。この岐阜の兵力の一部も念のために賤ケ岳へと送り出された可能性はゼロでは無いですが、物理的、生物学的に決戦には間に合わなかったと思われます。

この時、秀吉は軍の集結を最優先にしたため、輜重、輸送部隊の手配が追いつきませんでした。準備はしていたと思いますが、合戦には間に合わず、さらに微塵も負ける気がしてない秀吉は、柴田を追撃して北陸に乗り込む事まで考えていたはずです。ここで太陽暦で6月、しかも山の中の行軍では現地調達、すなわち農村での略奪は困難と見た秀吉は、木之本に向かう手勢の中から人を割き、長年に渡る地元である長浜城から木之本一帯の村に伝令を走らせるのです。

米一升を炊き、焼いて乾飯(かれいひ)として木之本まで持参せよ、追って恩賞を与える、と命じたところ、周囲から続々と糧食が木之本の本陣に集まった、と「天正記」にあります。これが事実なら、秀吉は長浜城時代、結構な善政を敷いていた可能性がありますね。

ちなみに「川角太閤記」以降の書籍には、それに加えて木之本に向かう軍勢にも道中で飯を炊いて配った、すなわち道中で炊き出しを行った、という記述がありますが「天正記」「豊鑑」といった信頼できる資料には見えません。虚構じゃないかな、と思います。

こうして夜の8時ごろに秀吉は木之本の本陣に到着、そのまま田上山砦に入りました。さらに羽柴軍の本隊も続々と結集、この夜のうちに戦場における打撃力という点で、数の優位が逆転します(総数ではまだ柴田がやや上だったはずだが、羽柴側の砦の抑えに人数を取られ、決戦に投入できない)。この状態で翌21日の朝を向かえ、最終決戦が始まるのです。


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