*2024年7月 「江州余吾庄合戦覚書」を基に一部を追記。 -------------------------------------------------------------------- ■4月21日の戦い さて翌21日の戦いは、数の優位を失った事を悟った佐久間部隊の撤退から始まります。 その後、当然のごとく羽柴軍による追撃を受け、狭い平野部に押し込まれ包囲殲滅戦の中で消滅する事になります。ただし長篠の戦いと違って羽柴側にも敵の退路を絶つ部隊が無かったため、完全な殲滅には至りませんでした。それでも柴田軍は全軍の二割を超える決定的な人的損失を受け、事実上、地球上から消えてなくなります。 この点、20日の夜の段階で戦闘は既に最後の追い込みの段階に入っていたと見て良く、その詰め将棋を解けなかった佐久間は最初から逃げ場は無い状態でした。よってもはや特に述べる事は無く、戦いの流れだけをざっと見て行きましょう。 ちなみに「天正記」にはこの日、戦場(余呉山とあるがどこを指すのか不明)の西北の峯続きに柴田勝家が六万の大軍を集めて戦闘に備えたとされますが、誇張でしょう(笑)。そもそも秀吉が5月15日の日付で毛利の小早川隆景に送った手紙(毛利家文書)に「敵三万余のところに」と述べてるので、やはり柴田軍は総勢で三万前後と見て問題ありませぬ(ちなみにこの手紙の内容はそれ以外の点では「天正記」とほぼ同じで恐らく後に参考にしたと思われる)。 また「天正記」だと柴田勝家が出てきて決戦となったと取れる内容になっていますが、勝家は第一封鎖線を超えず同木山と左禰山の砦を抑えていた、と前日の記述にあるので矛盾します。「豊鑑」、「イエスズ会年報」では決戦は佐久間部隊が相手で、勝家は別の場所に居たとされ、「江州余吾庄合戦覚書」でも同じような記述になっています。よってここでは「天正記」の記述を採用しません。この辺りもまた「俺はあの勝家と、死ぬほどキライだった勝家とガチに戦って勝ったんだぜ」という秀吉のプロパガンダの匂いがします。 とりあえず合戦開始から最初の戦いの段階までを図にするとこんな感じですね。 ■出典 国土地理院地図のツールにより作成 前日、20日の夜8時ごろ秀吉は羽柴軍の本陣に到着、田上山の砦に入り、高山右近に昼間の合戦の話を聞くなどして(イエスズ会年報)、情報の収集に努めました。その後、続々と羽柴軍の本隊が集結してきます。そして秀吉は自らの着陣を誇示するため、羽柴軍の馬印、大将が居る本陣を示す瓢箪の吊りものを即座に砦に掲げさせたとようです。20日の月齢ならまだ明るいうえに、夜中でも空に月があります。よって目の前の岩崎山と大岩山の砦に居た佐久間は直後にその着陣を知る事になったはずです。これによって数の優位が消えたことを悟った佐久間は即座に撤収を決めてしまいました。 「豊鑑」によると夜明け前から山を降りて撤収を開始、「イエスズ会年報」だと夜明けとともに撤収を開始したとなっていますが、いずれにせよ佐久間は戦わずして両砦を放棄、逃げ出してしまったのです。この時、賤ケ岳の砦を包囲していた部隊も同時に撤退を開始したと思われます。そして田上山砦から敵陣を観察していた秀吉は佐久間部隊の撤収に気が付くと、すぐさま六千人の先陣を追撃のために出撃させました(イエスズ会年報)。 「豊鑑」を読むと、ここで山岳戦もあったように書かれており、これが正しいのなら秀吉の軍勢は大岩山砦にも襲撃をかけ、佐久間軍の残党を掃討した、あるいは追い落とした可能性がありますが、詳細は不明です。 参考までに田上山砦の最高地点は標高323m、対して大岩山は280mですから、羽柴軍の陣地から佐久間部隊の動きは丸見えでした。なんというか、ホントに佐久間さんは戦が御下手、という感じですね、こうなってくると。 この段階で二つの封鎖線は健在ですから、佐久間部隊の逃げ道は、最初に来た標高差260mの権現坂を経由して柴田軍の砦、しかも奥の方にある別所山周辺まで戻るしかありません。先にも述べたように茂山砦には前田軍がおり、佐久間部隊を収容するほどの余裕は無かったはずだからです。 ここで秀吉が送り出した追撃隊は人数から判断して、元々から田上山砦に居た軍勢、すなわち最も疲労が少ない部隊だったと思われます。これが平野部を撤退中の佐久間部隊の背後に襲い掛かったのですが、これを見た佐久間は部隊を反転させ、迎え撃ちます。彼の勇猛な性格もありますが、ここで背を見せたまま権現坂に向かっても途中で追いつかれ、狭い平野部で身動きが取れずに包囲殲滅させられる事に気が付いた、という面が大きいと思われます。 ちなみに羽柴軍本陣の田上山砦から岩崎山砦までは狭い谷間で、ここを迅速に進ませるため、秀吉は比較的少人数の先遣隊を出した可能性もあります。その間約2q、対して佐久間部隊が逃げる経路、岩崎山の下から権現坂の入り口までは約1.5qほどなので、敵を完全に捕捉殲滅するには急ぐ必要があったと思われるからです。ただし例の計算の通り、一万八千近い軍勢(賤ケ岳砦の包囲部隊を含む)が進軍すると、その全長は4q近くになるので、そう簡単には佐久間部隊も逃げ切れないのですけども。 この段階だと人数的には佐久間部隊が圧倒的に有利なのですが、前日の疲労もあってかこの優位を生かなかったようです。以後、追いついて来た羽柴軍の先遣隊との間で正午まで一進一退の攻防になりました。そして勝負がつかないまま午後になった段階で、敵の疲労が頂点に達したと秀吉は判断、第二派となる二万の兵を田上山砦から出しました(イエスズ会年報)。おそらくこれが秀吉が率いる羽柴軍の本隊だったと思われます。 そしてこの段階に至るまで、柴田軍には一切の救援行動がありませんでした。既に見たように、前田は下に降りたら殲滅される、と知っていましたから神明山砦のある尾根筋から動かず、柴田勝家の別動隊は同木山と左禰山砦に貼りついており、そもそも封鎖線の向こう側に居たのです。よってこの狭い平野部で戦っていたのは、佐久間部隊、後は賤ケ岳の砦を包囲していた部隊だけで、両者を合わせても一万八千以下でしょう。それが六千人の羽柴勢相手に抑え込まれ疲労させられた所に新手の二万の軍勢が突入して来たのです。勝てるわけがありませぬ。秀吉の完全な作戦勝ちです。 ■戦いの終結 とりあえず、ここまでの状況を改めて国土地理院様の立体地図機能を使ってざっと図にするとこんな感じになります。 ■出典 国土地理院地図のツールにより作成 佐久間部隊が撤退するには余呉湖北岸の狭い平野部に入り、さらに狭くて急斜面の山岳路に入らねばなりませぬ。万単位の軍勢なら相当な時間が掛り、大混雑では避けられないでしょう。すでに数的な優位は失われてますから、その渋滞中の部隊を守るべき手段がありません。軍勢が権現坂まで登らないと敵から逃げられないのに、そこに逃げこむのが困難なのです。 この平野部は奥行きで1000mほど、幅は入り口周辺で約1500m、もっとも狭い奥まった位置では50mを切ります。そして権現坂に抜けるには、この50m以下の狭隘な場所を一万五千を超える軍勢が通過せねばならず、当然、大渋滞になります。そこを襲われたら、逃げ場が無いのです。このため、その地峡部を避け、手前の急斜面を登って逃げる兵が続出したと思われます。その上にあるのが前田軍の居た茂山砦でであり、この尾根筋に佐久間部隊の多くが逃げ込む事になります。 先にも触れた秀吉が毛利家の小早川隆景に送った手紙では、戦いは卯の刻(早朝だが夜明けの事だと思っていい)に始まり、未の刻(午後1〜3時)まで決着がつかなかった、その間に、三度、大きな戦闘があった、その後、双方が疲れ果てて休息に入った、とあるので、やはり昼過ぎごろまで羽柴の先遣隊と佐久間部隊の乱戦は続いていたようです(秀吉の手紙はこの後を端折っていきなり勝家部隊の襲撃に話が跳ぶので要注意)。 ただし「江州余吾庄合戦覚書」によると、佐久間玄蕃は猛将と言われるだけの戦いをしたとの事。長時間にわたり羽柴軍と互角に戦い、なかなか決着は付かなかった、と。ですが後方に置いた部隊(平地の奥?)が突然崩れて我先に撤退を開始、軍勢は動揺し、これを切っ掛けに一気にその流れが傾いたとしています。ただしこの辺りは、先に撤退させた部隊が踏みとどまらず、玄蕃の居る前衛を見捨てて我先に逃げ出したようにも読めます(何せ判りにくい文章なのだ)。いずれにせよ、これで戦の流れは羽柴側に一気に傾きます。 その状態の戦場に休養十分な羽柴軍の本軍二万が突入してきたわけです。最大でも1500mの幅しかない平野に二万の兵が突入してきた場合、1m幅辺り13.3人が居たことになりますから(笑)、これは脱出する隙間なんてどこにも無い状態で閉じ込められ、殲滅させられる事を意味します。 ただし背後は山とは言え、そこまでの退路を防ぐ敵は無かったので(この点が長篠の戦との最大の違い)、佐久間の兵はその山の中へと逃げ込みました。当時は鬱蒼とした原生林が一帯に広がっており、そこに逃げ込んだのですが、勝ちの勢いに乗る羽柴軍はこれを追撃してます。このため佐久間部隊の兵は武器、甲冑はおろか着物まで脱ぎ捨てて逃げたため、茂山砦周辺に突然、千五百人近い半裸の集団が出て来るのが見えて驚いた、という話が「イエスズ会年報」にあります。ただしこれで逃げ切ったと考えるのは早計で、武器も何もない状態の集団は、地元の皆さんによる落ち武者狩りの格好の標的になるのです。既に触れたように秀吉はその告知を周囲に出してましたから、この人たちのほとんどは生きて帰れなかったように思われます。 そして、この山岳地帯への追撃戦の途中、秀吉は未だに柴田勝家が同木山と左禰山の砦を包囲する陣地に留まって居る事を知ります(イエスズ会年報)。このため、急遽、山に入った部隊を呼び戻し、第一封鎖線の方に向かいました。ちなみに「イエスズ会年報」によると鳴り物を鳴らして兵に集結を命じた、とあり、当時の合戦時の指令伝達方が知れる、興味深い記述です(鐘では重いので太鼓だと思われるが詳細は不明)。この時、柴田の周りには千人程度の兵しか残っておらず、突進してくる羽柴軍をかわすため険阻な山道に入り、勝家はなんとか逃げ切ったとされます(イエスズ会年報)。 こうして柴田勝家が戦場から敗走する事で夕方前には決着が付きました。羽柴軍の圧勝だったと言っていいでしょう。 余呉湖湖畔、岩崎山砦の西側の麓辺りから神明山砦方向を見る。白い特急列車はここを走る北陸本線のもの。その特急の上、尾根が少し凹んだ辺りに神明山砦はありました。ここからだと直線距離で約1200mですが、標高差が160mあります。あの森の中を、あの高さまで敵と戦いながら逃げろ、と言われても無茶言うな、という感じですが、権現坂はさらに高度があります。 ついでに画面左端のちょっと先辺りが例の50m以下の地峡部ですから、脱出スタート地点である岩崎山砦の麓から見てこんな狭い土地に約一万八千を超える部隊が閉じ込められ(賤ケ岳砦の包囲部隊を含む数字)、そこに最終的には二万六千の敵が突入して来た事になります。これは日曜の繁華街やイオンモールのごとき人口密度の中で壮絶な戦いが展開されたようなもので、まあ無茶苦茶な戦闘だったでしょう。そして疲労困憊した状態でこの逃げ場のない平野に追い込まれた段階で、佐久間部隊の壊滅は避けられなかったのです。 ちなみに羽柴軍の先陣を務めて戦勝に大きく貢献したとされる賤ケ岳の七本槍、そして柴田勝家を逃すために身代わりとなって戦った毛受などの伝承が、この合戦には存在します。「天正記」や「豊鑑」にも記述があるので(ただし毛受は「豊鑑」のみ)一定の信憑性はあるものの、合戦の行方にはほとんど意味が無いので、ここでは割愛します。興味のある方は調べてみてください(手抜き)。 最後にちょっとだけ指摘して置くと、この合戦、実は賤ケ岳は全く戦場になってません(笑)。ついでに本格的な山岳戦だったのは初日だけで、二日目は掃討戦として敵を追いかける際に山に入ってますが、その最終決戦場は平地でした。この辺り、桶狭間の合戦がその名からなんとなく谷間のような場所で行われたと思いこまれてるのと同じような誤解があるように見えます。ご注意あれ。 ■戦いの終わり 秀吉は例の小早川隆景への手紙の中で21日の合戦において五千の首を取ったとし、「天正記」には五、六千の兵を殺したとあります。さらに前日の岩崎山砦と大岩山砦の戦いの戦死者もあったはずですから、柴田軍は最終的に七千人近い戦死者を出していたはずです。柴田軍の総勢を約三万人とすると、これは軽く二割を超える戦死率となりますから壊滅的な打撃でした。ちなみに実際に戦闘に参加したのは前田部隊を入れても二万一千程度なので、こちらを母数とすると、戦死者は軽く三割を超えます。ここに負傷者まで含めると戦力としてはほぼ壊滅したと思っていいでしょう。 例えば信長の元気一発奇襲突撃で圧勝に終わった桶狭間でも、今川軍の戦死者は約三千人(信長公記)でした。この時の今川軍の兵数は実質二万五千前後と思われるので約15%ほどの戦死者でしたがが、この損失により、今川家の支配体制は崩壊します。 参加した両軍の記録(信長公記と朝倉始末記)がどちらも勝利を宣言してるような微妙な戦い(笑)となった、姉川の合戦などではもっと損失は少なく、浅井朝倉連合軍の一万五千人に対し、織田側が取った首の数は千百人(数字はどちらも信長公記)、一割以下の約7%に過ぎません。それでも織田側は戦勝を宣言しています。まあ、朝倉も勝ったと言ってるんですけどね(笑)。 このように二割を超える兵を失ったらこれはもう完敗であり、実際、生き延びて北庄(福井)の居城に入った柴田勝家は、これを追いかけて来た羽柴軍に抵抗らしい抵抗もできないまま、自害に追い込まれ、ここに織田家内最大の秀吉の敵は居なくなってしまうのです。 戦国期最大級の激突だった戦いですが、終わってみれば秀吉側の一方的な勝利でした。完勝と言っていいでしょう。運の要素もゼロでは無いですが、秀吉の戦闘設計、戦争のデザインによるところが大きく、やはり天才と言っていい人物でしょう。日本史の中では貴重な人材だと思います。信長も戦闘の天才ですがちょっとタイプが違いますしね。 といった感じで、今回の記事はこれにて終了とさせていただきます。 最後まで読んでくださった皆さん、お疲れさまでした。 |