■岐阜城の織田信孝さんをやってまえ

この間に、伊勢方面では滝川一益配下の主要な城の一つ、峯城が落城します。
秀吉が4月20日、まさに決戦出撃直前に因幡宗の一人、秀吉側に付いていた亀井茲矩(琉球守を名乗った人)に送った手紙(大日本史料)によると峯城と神戸城(かんべと読む。本能寺以前の織田信孝の居城)は落ちた、16日に大垣城に入った後にその報せを受けた、と述べてます。これにより柴田軍以外の主要な敵は滝川一益本人が立てこもる長島城だけとなりました。前年末の包囲戦のお粗末さからして岐阜の織田信孝の軍勢は問題外ですからね。

ちなみに賤ケ岳に向かう直前に書かれたこの手紙で、間もなく安土に帰る、その後姫路に向かうと秀吉は述べてます。柴田との合戦で勝つのは当然で、その後の予定まで知らせているのです。自信家の秀吉らしいですが、まあ実際、負ける気はしなかったのでしょう。

さて、話を戻します。
峯城の落城で状況が少し変わったのに注意が必要です。こうなると秀吉にとって最悪の事態は、もはや救援は間に合わぬと判断した柴田軍が無傷で戦場を離脱、その軍事力を維持したまま北陸に帰り、そこから圧力を掛け続ける事です。長期戦になってしまうと、まだ不安定な秀吉の支配体制が崩れる可能性が出てきますから、これは絶対に避けたいのです。さらに言えば現在の柴田軍は砦に入った羽柴軍を攻めねばならぬ不利な状況に置かれています。ぜひここで決戦して柴田軍を殲滅してしまいたい、と秀吉は考えたと思われます。

そのためには柴田軍を砦の外に引きずり出す工夫が必要です。
よって秀吉は、それまで放っておいた岐阜の織田信孝討伐に出る事にします。昨年末に秀吉に岐阜城を囲まれてあっさり降伏したはずの信孝は、この時期には再び秀吉と敵対する行動に出ていました。と言っても彼の持つ兵力はあって無いようなものですから、長浜の秀吉の羽柴軍本隊との直接対決はもちろん、南の伊勢長島に居る滝川一益の救援も無理です。じゃあどうするか、と言えば美濃で秀吉側に付いてる稲葉家などの領地に侵入して放火して歩いたのでした。ほとんど無意味としか思えない行動であり、この辺りがやはり信孝の限界だろうな、と思われる所ではあります。

この時期に戦略的にはどうでもいい兵力しか持たぬ信孝をあえて攻める理由は無く、これは秀吉の陽動という面が大きかったと思います。信孝も危機に陥る、その代わり羽柴軍の主力は現地に来れない、となれば柴田軍は動くと見たのだと思います。そして実際、その通りになるのです。

信孝の行動に関しては、その挑発に乗るなと秀吉が配下の武将に警告する旧暦4月11日付けの手紙が残っていながら(大日本史料)、突然、秀吉自ら出陣、長浜から関ケ原を越え、岐阜城からほぼ4里、約16kmほどの距離にある大垣城に16日に入ってしまうのです(「天正記」の17日は誤り。当時の複数の秀吉の手紙から16日に大垣に居たことが確認できる)。ただし秀吉はそれ以上動かず、ひたすら大垣で柴田軍の動きを待ちます。そして4月20日の早朝に柴田軍が総攻撃に出ると、ここから賤ケ岳方面に急行し決戦に挑む事になるのです。



この時、秀吉は信孝討伐を名目にしながら旧暦4月16日に大垣に入ると、以後は全く動きませんでした。これは美濃から賤ケ岳まで最短距離の土地である大垣で柴田の動きを待った、と考えるのが自然でしょう。「天正記」にあるように岐阜城を攻める気なら、約16qも離れた大垣を前線基地とするには無理があります。

ただし「天正記」によると“霖雨(長雨)”により郷土(ごうど)川の渡し(岐阜城の西約6qにある中山道の河渡宿)が増水して渡河できないから大垣に滞在した、とされます。確かに太陽暦ではすでに6月に入ってますが、6日か7日頃であり梅雨入りには早過ぎます。川が渡れないほどの増水を引き起こす大雨が4日間も続くとはちょっと考え難いのです。そもそも本気で岐阜を攻めるなら渡し船を使えばいいだけで(江戸期の河渡宿では船で長良川を渡るのが普通)、そこまで長期の足止めを食らう理由は無いでしょう。この辺りは大垣に居座ったことに対する“言いワケ”のように見えます。

ちなみに後の関ケ原の合戦の悲劇の指揮官、大谷吉継はこの時期、秀吉の配下にありました。彼は美濃方面の武将との連絡を担当していたようで、秀吉が16日に大垣に入った事を知らせる手紙が残ってます(大日本史料)。それによると信孝が伊勢長島の滝川一益に呼応して一帯に放火して歩いてる事は秀吉も承知している、このため合渡川(先の郷土川に同じ)まで来たが深くて渡れなかったので、とりあえず大垣城に入った、後の心配は無用、と述べています。この点、大谷の手紙では秀吉が大垣まで出てきたよ、心配ないよ、とだけ書かれていて岐阜城の信孝を攻めるといった記述はありませぬ。秀吉がそこに居る、というだけで美濃全体を牽制してる、とも取れる内容で、秀吉は積極的に岐阜城を攻める気は無かったように思います。
いすれにせよ、ここで柴田軍は動くのです。これによっていよいよ決戦の始まりとなるのでした。

長浜の柴田勝豊さん

ついでに正確な日時は不明ですが長浜の裏切者こと柴田勝豊さんが決戦直前に病死しました。
三月の段階で京へ入って療養していたようですが、合戦前に病没したと「天正記」に出てきます。先に見たように、その家臣団から裏切り者が出たりしてますが、木下一元のように後に秀吉の家臣団に加わった者も居るので、どこまで戦力としてあてになったのかは、はっきりしない部分が残ります。 まあそれでも秀吉、圧勝しちゃうんですけどね。

戦いは始まったけれど

こうして秀吉が大垣城に入った三日後、旧暦4月19日に柴田軍は行動を開始しました。おそらく夜を徹して軍勢が山岳路を次々と南下、決戦準備を行ったと思われます。そして翌20日の朝、まずは指揮官の佐久間盛政が主力部隊を率いて大岩山と岩崎山の砦を襲撃、これにより「賤ケ岳の合戦」は始まります。

ちなみに「天正記」を始めとするほとんどの史料が佐久間の部隊は最初に中川清秀の守る大岩山を襲撃した、とだけ述べてますが、「イエスズ会年報」に収録されたルイス・フロイスの手紙では高山右近の守る岩崎山砦も同時に攻撃を受けたとされます。実際、両砦は堀や柵で連結されていたはずですから、こちらが実態に近いでしょう。この点、フロイスは現地で戦ったキリシタン大名、高山右近から話を聞いてるはずで、その信憑性は高いと思われます。

さらに「天正記」には先に柴田軍に逃げ込んだ内通者、かつての勝豊の家臣である山路正国が、勝手知ったる羽柴軍の砦への攻撃を先導したとあります。ただし襲撃を受けた大岩山砦、岩崎山砦、両者で合計二千の守備兵(イエスズ会年報)しか居なかったのに対して一万五、六千人で攻めかかったのですから、彼の情報が無くても単純に数ですり潰せたでしょう。

ここで20日の朝、柴田軍攻撃開始の段階における状況を見て置きましょう。
羽柴側の各砦に入った武将の名は「天正記」にあるのですが、賤ケ岳の砦に入った武将のみ記述がありませぬ。ただしこの点は「太閤さま軍記のうち」に桑山重晴が居た、とあるので、これを信用する事にします。



20日の朝、柴田軍の主力で一万五、六千の兵力を持つ(イエスズ会年報収録1584年1月2日付のフロイスの手紙による)佐久間部隊は山岳路から権現坂の峠を通り、余呉湖北岸の平野部に出ました。 この戦場で最大の打撃力を持つのがこの部隊です。よって以後の戦いは柴田軍がこの佐久間の部隊をいかに活用するかに掛かって来ますが、最初は平野部南側の岩崎山と大岩山の両砦に襲い掛かりました。

同時に大将の柴田勝家と嫡男の権六が率いる別動隊が出撃、こちらは街道沿いに南下して左禰山と同木山の両砦を包囲襲撃、ここから兵を動けなくして佐久間の主力部隊が背後を突かれるのを防ぎました(天正記)。そして後で見るように、恐らく前田軍が神明山砦を襲撃、あるいは包囲したと思われます。

ちなみに翌日、羽柴軍から最後の総攻撃を受ける時まで勝家は堀が守る左禰山を包囲中でした。最終的にその周りには千人余りの兵しか残って居なかったとされますから(イエスズ会年報)、攻撃開始の段階でも二、三千人程度だったと思われます。そしてほぼ同じような部隊が同木山にも向かっていたはずです。どちらも砦を攻め落とせる人数では無いですから両砦の兵を外に出さぬための抑えの部隊でしょう。

ここで問題になるのは、散々苦労して造ったはずの茂山砦は、以後、信頼できる史料に全く登場して来ない点です。
普通に考えればここから神明山砦と同木山砦を攻めた、あるいは包囲してその行動を抑え込んだと思われるのですが、全くその名が登場しないのです。

ちなみに現地の伝承や「甫庵太閤記」など江戸期に出た怪しい書籍類ではここに前田軍が入ったことになっています。後の天和年間(1681-1684)に編纂されたと思われる「前田家譜」にも利家は兵三千を率いて出兵、茂山に陣を敷いた、とあります。この辺りは微妙に怪しいところですが、前田軍がまともに戦闘に参加していない事(つまり山上から動かなかった)、友軍が撤退するのに巻き込まれて激戦になったらしい事、そして茂山砦に有力な軍勢が入って無いとは考えられない事、などから、この記事でも茂山砦に前田軍が居た説を採ります。いずれにせよ、ほとんど合戦の行方には関与しないのですけども。おそらく前田軍はここから神明山砦の動きを封じる働きをしていたと思われます。

では再度、同じ図を載せて、解説を続けます。さて、ここからが未だに誰も気が付いて無いと思われる、この合戦のキモですよ。



ここで羽柴軍の第一、第二の両封鎖線が健在の場合、佐久間の部隊が侵入した平野部は完全に閉鎖された空間となるのに注意してください。湖と山に囲まれたこの狭い平野部は街道筋を抑えられてしまうと出口が無いのです。

よってこの平野部に入ってしまった佐久間部隊が敗軍になると、以後は逃げ場のない包囲殲滅戦による壊滅、すなわち長篠の武田軍の悲劇の再現が待っており、実際、そうなりました。すなわち柴田軍は自ら罠の入り口に向けて山岳路を開通させてしまった、という事です。そもそも柴田軍が山岳路の出口をここに築くしか無いように封鎖線を築き、以後はその建設をあえて見逃したなら、秀吉、恐るべしと言う他ありませぬ。そしてこの前後の秀吉の動きを見る限り、恐らく、その通りだったと思われます。

この辺りを見る限り、戦闘の設計図を組み上げる、すなわち戦争をデザインする指揮官として秀吉は日本最強の一人と見ていいでしょう。将棋を指すように戦争をやるんですよ、この人。信長もまた天才ですが、こちらは状況に即興で適応し、高速で動いて相手の動きを封じて撃破する事が多く、その戦闘様式は微妙に異なります。



もはや御馴染み、賤ケ岳山頂からの眺め。

権現坂方面から平地部に入ると、南北の街道筋を封鎖された段階で完全に袋のネズミになるのが判ります(当たり前だが登るのは下るのよりはるかに大変。一度降りてしまったら戦闘中に山の上に戻るなんてできない)。そして北の第一封鎖線は堀秀政の踏ん張りで最後まで突破されず、南側は第二封鎖線に加えて秀吉が連れて来た羽柴本軍が北上して塞いでしまいました。岩崎山と大岩山の両砦を撃破、占領し居座っていた佐久間が自分がどんな状況にあるか、を知った段階では既に敗北から逃れられない状況だったのです(両砦から続く尾根筋の先にあるのが賤ケ岳砦だから、こちら側も逃げ道にはならない)。勇猛さで知られ、敵陣に猪突猛進して罠にはまり、最後は包囲殲滅で壊滅させられた、という点で佐久間信政は武田勝頼とよく似てます。

ちなみに長篠の戦いに鉄砲奉行(鉄砲隊の指揮官)の一人として参加していた前田利家はこの地形を見た瞬間、まずいと思ったはずです。これはまるで設楽原じゃないか、と。よって前田家の部隊が戦場に登場しないのは、尾根筋から地上に降りた段階で負けると知っていた利家が、部隊を山上から降ろさなかったからではないか、と想像しています。ついでに利家が、佐久間はオレの謀反を疑ってその助言を聞かなかったから負けたのだ、と言っていたのは、恐らくこの辺りの事情でしょう(利家夜話)。この利家の話を聞いた秀吉が「なるほど、他に例を見ない大将だ」と述べたとされますから(利家夜話)、利家は正確に秀吉の作戦、平野部への誘い込みと包囲殲滅の企みを見抜いていたのだと思います。

この点、もしかすると平野部へ降りるのを嫌った前田軍の動きが、後に出て来るその裏切り説の由来かもしれません。下で戦ってる佐久間の軍勢から見ると、なぜ前田軍は助けに来ないのだ、と思えたでしょう。だが動けないのです。下に降りたら包囲殲滅が待っているのですから。その後、敗北した佐久間の主力部隊が山岳路経由で逃げるために尾根筋に登って来たのに巻き込まれ、それを追撃して来た羽柴軍と衝突して死闘となった、と筆者は考えています。

この点、柴田は長篠戦には参加して居なかったはずで(信長公記にも三河物語にも名が無い)、当然、その配下に居たはずの佐久間盛政もこれを知りません。彼らが包囲殲滅戦の恐怖を見た事が無かったのも不幸の一因かもしれませぬ。

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