戦いに至るまでの再確認

さて、ようやく決戦ですが、そこに至るまでの状況を再確認して置きましょう。誰が、何のためにどこで戦ったのかをキチンと理解して置かないとワケが判らん合戦ですので。

まずは最初の状況から。
南の伊勢長島で孤軍奮闘、羽柴軍に包囲されながらもがんばっていた(春になる前に挙兵という選択が間違っている点は見逃すべし)滝川一益の救援のため、雪解けを待って柴田軍は南下を開始します。柴田勝家を大将に、佐久間盛政が指揮を執り北陸地方から琵琶湖に近い柳ケ瀬まで南下、着陣したのです。羽柴軍が滝川を攻め始めたのが旧暦2月16日ごろ、対して柴田軍の先遣隊の着陣(おそらく佐久間の部隊)が柳ケ瀬に入ったのは旧暦2月28日と、ここまでは意外に速かった事を前回は見ました。ただし、ここまででしたが(笑)。

この段階でこれを迎え撃つ秀吉側の陣地は柴田一族の裏切者、柴田勝豊が築かせた天神山砦のみです。



図では「天正記」の記述に従い、柴田軍は天神山砦周辺の集落に火を放って挑発した後、柳ケ瀬まで退いた、としてます。ただし旧暦3月27日の日付で秀吉が徳川家の重臣、石川数正に送った手紙(大日本史料)には、柴田軍はさらに南、後に羽柴軍の本陣が置かれる木之本一帯まで出て来た、と書かれています。

これが事実なら、柴田軍は天神山砦の防衛線を突破していたのに、わざわざ自分から元の位置まで戻って砦に籠ってしまった事になります。さすがにそこまでお粗末(涙)とは思いたくない、思えない、なので、図では「天正記」の記述を採りました。ですが、この時の柴田軍だとやりかねないなあ、という部分はありますね…

その後、別所山周辺の砦がある谷間に羽柴軍を誘い込んで包囲殲滅する戦術は速攻で秀吉に見破られてしまうのは既に何度も見て来たとおり。このため秀吉は街道封鎖を指示し、軍勢の主力を連れて長浜に帰ってしまいます。この辺り、まだ伊勢長島の滝川一益は健在だし、四国方面、紀伊方面なども羽柴派が中心となった織田家に服してませんでしたから、いろいろ忙しかったのだと思われます。

とりあえず、そこまでの状況を図にするとこんな感じですね。



羽柴軍は柴田軍の陣地に近すぎる天神山砦を放棄、以後は余呉湖湖畔の地峡部に砦を築き、堀と柵の惣構(そうがまえ)の封鎖線を二本造り街道を完全封鎖してしまいます。

こうして山間部に閉じ込められてしまった柴田軍は何も出来ない状況に置かれます。ところが羽柴軍と違って、なんとしてもここを突破し滝川一益の救援に向かわなくてはならぬのが柴田軍です。このままいつまでも睨み合ってるワケには行きませぬ。その結果、柴田軍が採った戦術が前代未聞の土木戦でした。別所山周辺の砦から山地の尾根沿いに南下する山岳路を造成、これで羽柴軍の封鎖戦の裏に出よう、という豪快なものです。ただし当然ながら、これが完成するまで柴田軍は動けませぬ。

ちなみに羽柴軍がこの山岳路建設を妨害した形跡はありません。途中まで気が付いて無かったのか(最後の行程は羽柴軍陣地から丸見えなので隠しようが無い)、あえて柴田軍を砦の外に引きずりだすために無視したのかは不明ですが、個人的には後者だと思ってます。敵が砦から出て来てくれるのは望むところであり、放って置け、その完成を待ってやろう、という事かと。ただし実際はその間に、柴田軍による左禰山砦襲撃などがあったわけですが、前回見たようにこれはあっさり撃退されてしまいました。

おそらく秀吉はこの山岳路の完成を注意深く見守ったはずです。毛利家の実質的な最高責任者、小早川隆景に宛てた秀吉の手紙(大日本史料)によると、旧暦4月12日の段階で柳ケ瀬に居る、とあります。さすがにこの段階で柴田の本陣がある柳ケ瀬に入れたとは思えないので、恐らく羽柴軍の本陣があった木之本周辺の間違いでしょうが、とりあえず決戦の8日前に秀吉が現地に入っていた事が判ります。この時期なら柴田側の土木工事の完成が近いのが見て取れたはずで、秀吉はそろそろ決戦と考えた可能性が高いでしょう。

 

賤ケ岳の山頂からの眺め。
ここからだと羽柴軍の封鎖線を守る同木山砦から神明山砦に連なる尾根筋が丸見えなのです。柴田軍は最終的に羽柴軍の両砦の背後に茂山砦を完成させてから攻勢に出ることになります。この点、柴田軍もある程度はこっそりやってたと思いますが、軍勢が通れるほどの道を造り砦まで構築しながら全く見つからないという事はありえないでしょうから、最後は羽柴軍から丸見えの状態の普請だったと思われます。

おそらく秀吉は4月12日の段階で茂山砦が完成しつつあるのを確認、そろそろ決戦だな、と判断したと思われ、ゆえに毛利の小早川に報告の手紙を出したのでしょう。余談ながら400年の時を超えて、秀吉とほぼ同じ風景を見てるのだ、と個人的には現地でちょっと感動しました。桶狭間、長篠、三方ヶ原などの古戦場は開発で往時の風景を想像するのが困難ですが、ここは未だにほぼ当時のままです。まあ鉄塔とか立ってますけどね。

これだけの距離を持って互いの戦線と戦術を観察して戦うってのも、日本の合戦史上、前代未聞の戦いでしょう。ついでに言えば、ここまでバレバレの戦術を執った段階で、柴田軍は完全に秀吉の手の上でダンシン オールナイト状態だったと言えます。まあ、今更ですが(涙)…。

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