■決戦の資料 さて、合戦のお話に入る前に、再度、いくつかの確認を。。 ちなみに賤ケ岳の合戦に入った後の記録資料としては、以下の五つを採用します。
-------------------------------------------------------------------- ■2024追記 先に見たように「江州余吾庄合戦覚書」もこれに加える。 -------------------------------------------------------------------- このように江戸期以降の適当な創作と想像による軍記物の影響を取り除くと、この合戦の本当の姿が初めて見えて来るでしょう。というか見えてきて、少なくとも筆者はいろいろ驚きました。日本の戦史上まれな、凄い戦争ではあったのです。 ちなみに以前も書いたように私は司馬遼太郎さんの小説愛好家の一人ですが、その作品の資料性はゼロどころかマイナスで、資料を読んでない、読んでいても誤訳である、江戸期の適当な軍記物を丸写しにしてる、といった問題が無数にあります。すなわち事実関係から見るとその内容は完全に誤認と誤解と勘違いに終わっている欠点があります。なのであくまで娯楽小説として読むべきものでしょう。その上で、私はファンです、と再度、確認しておきます(笑)。 ■決戦戦力 まず両軍の兵力ですが天正記にも豊鑑にも秀吉軍の戦力に関する記述はありません。とりあえず本記事では以下の数字を推測して採用します。理由は後述。
まず両軍の大将は言うまでも無く秀吉と勝家ですが、その補佐となる副将の地位にある人物に関し、柴田軍は致命的な欠点を抱えてました。これがこの戦いにおける柴田軍の敗因の一つとなっています。 ただし副将と言う正式な指揮系統があったわけでは無く、大将の下でそれを補佐するような立場だった人物をこの記事では仮に副将と呼んでいます。その辺りを含めて、最初に両軍の戦力を比較して置きましょう。 ■羽柴軍の指揮系統 秀吉は外様の軍団長であり、よって織田家生え抜きの家臣団を配下に持ちません。 その主力は長浜、姫路城時代を通して維持していた自前の兵であり、それ以外は信長の命で配下に入った軍勢です。すなわち織田家が怖いから従ってる連中であり、信長、信忠が撃たれた以上、いつ離反してもおかしくない、下手をすると自軍の中に敵を抱えかねない状態だったのです。柴田軍に比べるとかなり不安定な組織だったと言っていいでしょう。これをまとめ上げ、山崎の合戦に勝ち、そしてこの賤ケ岳の戦いでも勝ってしまったのが秀吉と言う人物の凄みです。当然、譜代の重臣なども居ませんから弟の秀長が副将となり、秀吉不在の間は現地の最高指揮官も兼ねていました。その指揮系統はざっとこんな感じです。 羽柴派の中でも一定の軍事力を持つ宿老二人、丹羽長秀と池田恒興は賤ケ岳の合戦には参加していません。丹羽は北陸街道から敦賀方面に繋がる街道を封鎖して柴田を牽制、池田は地元の大坂方面に戻り紀伊の根来、雑賀方面の敵を抑えています(天正記)。 現実的にこの地域を抑える軍事力を持つのは丹羽と池田の二人しか居なかった、というのもあるでしょうが、秀吉と同格の織田家の宿老二人を戦場に入れる事で、指揮系統に混乱が生じるのを嫌った可能性も高いと思われます。 主力の羽柴軍には副将として弟の羽柴秀長が居ましたが、あくまで羽柴軍内部の副将格に過ぎませぬ。戦争の大義名分は織田家の跡目争いなので、配下の大名、そして堀秀政のような織田家の重臣として羽柴派に属した各武将は自分の意思で秀吉の指揮下に入っている独立した軍勢なのです。秀吉の持つ軍事力、政治力、そして人物としての魅力でかろうじて結束が保たれている集団なのに注意してください。よって戦闘全体の指揮は最初から最後まで秀吉が全て行っています。 ■兵力数 主力は秀吉自らが率いる直属部隊、羽柴軍の本隊ですが、天正記、豊鑑には人数の数字がありません。ただし秀吉が長浜に戻った3月27日に徳川家の石川数正に出した手紙(大日本史料)に二万ばかりの兵を現地から長浜に戻した、と取れる(字が読めない部分があり詳細は不明瞭)内容が書かれてます。 また決戦の時に最終的に戦場に投入された兵が二万(イエスズ会年報)という数字もあり、やはりこの辺りの数字でしょう。 それに加えて、羽柴派の各大名、信長家臣団の有力者などが自分の軍勢を率いて現地の各砦に入っています。 ただし現地に残っていたのはせいぜい千人前後の手勢を率いる武将ばかりでした。まず山崎の合戦で活躍したキリシタン大名の高山右近、そして中川清秀、それに加えて織田家の重臣だった堀秀政、後は羽柴側に寝返った例の柴田勝豊などの寄せ集めの軍勢です(天正記)。ただし勝豊は合戦の段階で既に病没、その家臣団から裏切りが出たりして、これは戦力としてはほぼ当てになりませんでした。 これらの正確な兵力は不明ですが、中川清秀の軍勢は天正記に約千人との記述があり、イエスズ会年報にも高山右近と中川清秀の両砦の人数は合わせて二千とされてます。各砦の規模からして他も同じような数だったでしょう。賤ケ岳に置かれていた羽柴側の砦は全部で六、七前後と思われるので、それぞれに千人が入っていたとして約七千人ほど、現地の最高指揮官だった秀長が持つ予備兵力を加えて一万二、三千前後の兵数だったと思われます。 それに秀吉率いる直属部隊が合流して合戦となったわけで、ざっと三万前後となります。 ただし最終決戦前に羽柴軍の中川清秀と高山右近の部隊は壊滅してますので、この二千人は失われてしまってます。なので三万を切る辺りが羽柴軍の総力だと思われます。ちなみにイエスズ会年報では秀吉は最後の決戦の時、最初に六千の兵を出し、その後、二万の人数を出したとしてますから、やはりこの辺りでしょう(後者は砦に籠る兵数は含まれていないのに注意)。 ■柴田軍の指揮系統 一方、柴田軍は織田家生え抜きの軍勢であり、寄せ集めとも言える秀吉軍よりはるかに統率が取れていました。 この柴田軍は織田家の北陸方面軍が基盤となって居るのですが、その配下で軍勢を率いたのは、前田利家、佐々成政、佐久間盛政、金森長近といった織田家の家臣団の有力者たちであり、中でも佐久間盛政は甥っ子に当たる身内でした。このため信長の死による離脱、離反の恐れは無かったと見ていい軍勢です。織田家の古参の重臣であった柴田勝家にとって、その統率は容易だったと思われます。この点は寄せ集めの軍勢である秀吉軍より有利でした。 柴田派にも勝家と同格の滝川一益、織田信孝が居ましたが、合戦には参加不可能なので指揮系統には何の影響もありませぬ。 柴田軍には信長が勝家に与えた武将がそのまま副将格として残って居ますが、記録が無くてどこで何やってたのか判らぬ人物も多いです。上記の図で所在不明とした三人の内、不破は合戦後に自分の城を守っていたと天正記に名があるのですが(前田と徳山と同列に書かれてるので参戦していた可能性もある)、原と金森は完全に行方不明となっています。 それでも羽柴派の軍勢に比べれば明確に判りやすい指揮系統であり、裏切り、離脱の心配もありませんでした(よく言われる秀吉と仲が良かった前田利家の立場については後述するが、少なくとも大将の勝家は彼の裏切りはあり得ぬと知っていただろう)。ところが勝家は致命的な失策を犯してしまいます。 佐久間盛政を重用し、全軍の指揮官にしてしまった事です。 理由は全く判らないのですが、柴田勝家は甥っ子にあたる佐久間玄蕃盛政を気に入っていました。勇猛で知られる人物だったので、自分と同じような武将だと判断したからかもしれません。 そして不思議な事に賤ケ岳の決戦で、総大将である柴田勝家は自ら指揮を執った形跡がありません。 (後で見るようにその前哨戦では指揮を執ってるようだが) ほぼ最初から最後まで軍の指揮は佐久間に一任していたと思われます。佐久間は敗戦後、捕らえられて首を切られるのですが天正記では「今度矛盾の張本人」とされており、羽柴側からも彼が指揮官と見られていた事が伺え、イエスズ会年報では明確に柴田軍の指揮官は佐久間だったと書かれています。これらの事から合戦全体の指揮を執っていたのは佐久間と判断して間違いないでしょう。 となると柴田軍が取った消極策の元凶は多分、この人です。 これは柴田勝家の露骨な贔屓による失策でしょう。 そもそも佐久間の総司令官としての手腕は未知数な上に、軍団内での人望にも疑問が付く人物だったからです。 まず長浜城に入った柴田勝家の次男にして養子の柴田勝豊との確執がありました。 柴田軍の重要拠点となるはずだった長浜城があっさり落ちたのは援軍が望めなかったのと同時に、城を預かっていた勝豊が家内での待遇に不満を持っていて羽柴側に寝返ったからだ、という点は既に説明しました。その勝豊の不満は、養父である柴田勝家が自分より甥っ子である佐久間を重用した事にあった、と天正記、豊鑑に出てきます。すなわち長浜城を失い、天神山砦を造られ、柴田軍がここで足止めを食らった理由の原点は佐久間盛政にあったとも言えるのです。 さらに被害はそれでは収まりませんでした(笑)。 柴田軍には織田家の有力武将の一人だった前田利家が居ました。この点、天正記にも豊鑑にもその名は出てこないのですが、本人が柳ケ瀬で戦ったよ、と証言してるのでので参戦していたのは間違いないでしょう。ところが秀吉に対して娘を養子に出していた(後の豪姫)利家は必ず裏切ると佐久間盛政は決めてかかり、最後までこれを信用しなかったのです。佐久間が指揮して賤ケ岳の戦いが始まった時、利家の裏切りを警戒し、その連絡や助言を佐久間が一切無視した結果、あの戦は負けたのだ、本来なら勝てた戦だったのに、と利家は後に述べています(利家夜話)。 実際、この時の佐久間の行動は妙なところが多く、前田軍の裏切りを警戒していたと考えるとある程度、納得がゆきます。このように信頼関係が全く無い指揮官二人を前線に出して戦わせてしまった段階で、柴田軍の負けは決まっていた、とも言えます。これもまた大将である勝家の失策でしょう。 ちなみに勝家の長男とされる柴田権六も賤ケ岳の戦いには参戦していますが、そもそも何をやっていたのか一切記録が無いので、指揮官的な立場では無かったはずです。その権六も合戦後、羽柴軍に捕らえられ首を切られています。 ■兵力数 とりあえず柴田軍は、越前、越中、加賀、能登のほぼ四つの国から兵を集めてますが、戦国末期だとおそらく百二十万石前後の石高でした。当時の動員可能兵数はどんなに無理しても一万石で三百人以下のはずですから、最大でも四万人を超える事は無く、上杉との戦いに備えの兵も残さないとなので、三万前後の軍勢が正味の数だと思われます。この点、柴田とほぼ同じ領地を持っていた朝倉氏の動員が参考になるでしょう。天正元(1573)年8月の織田信長による浅井の小谷城攻めに対抗するため朝倉義景は援軍を送っています(大敗して自分も滅んじゃうんだけど)。信憑性の高い資料「朝倉始末記」によるとこの時の兵数は三万七千(先遣隊五千、義景率いる本隊三万二千)とされています。よって三万〜三万五千前後が現実的な線かと思われます。 ただしイエスズ会年報ではもっと少なく、まずは佐久間盛政が先行して現地に入り、その数約七〜八千、後に勝家が率いて来た柴田本軍と合わせると柴田軍は一万五千〜六千となってます。ただしこれは初日に大岩山と岩崎山の両砦を襲撃した人数で、その部隊に加わって無かった前田利家、柴田勝家らの部隊は含みません。それでも両部隊の人数が本隊より多い事は無いと思うので、最大でも三万前後かと思われます。よってこの記事では三〜三万五千人の数字を採用しましょう。 |