■前田利家

江戸期以降の軍記物では秀吉と関係が良かった前田利家は、柴田軍に属しながら戦わずして撤収した、あるいは佐久間を見捨てて逃げた、果ては裏切って秀吉側に付いたなどと言われ、賤ケ岳の戦いの敗因の一つとされる事が多いですが全て俗説です。そもそも天正記、豊鑑、さらにはイエスズ会年報、どの記述の中でも合戦中、前田の名前は全く出て来ません。そんな話、どこから出て来た、という世界なのです。

利家夜話には、柳ケ瀬合戦(賤ケ岳の戦い)の時、利家を守った小塚、木村、富田、など五、六人の武者達は三度も敵陣を切り崩してから討ち死にしてしまった、今生きていれば皆、一万石は与えられたであろうに、という談話が残されており、前田の軍勢も相当な困難な戦闘をやった事が述べられています。この話は惜しい人材を失ったと嘆いてる話であり、なんら自己弁護の要素を含みません。そもそも利家はそんなに回りくどい話をする人では無いですから信用していいと思われます。よって前田の軍勢も賤ケ岳の戦いで死闘を繰り広げた、と考えていいでしょう。

もっとも天正記は秀吉本人が書かせたもの(利家は豊臣政権の重臣である)、利家夜話も前田家の家臣の手で書かれた本なので、誤魔化しが無いとは言い切れません。それでも、一切のしがらみが無いはずの豊鑑やイエスズ会年報にもそういった話は出てこないのです。豊鑑には柴田軍が負けた後、前田利家に佐久間が領有していた加賀国の一部が与えられた、とあるだけ、イエスズ会年報には全く言及がありません。すなわち当時の記録に前田軍の怪しい動きに関する記述は一切存在しないのです。

ただし例よって(笑)川角太閤記にのみ、前夜の内に秀吉から利家の陣に人を送り、裏切れとは言わぬが合戦に手出し無用と伝え、利家も了解したとあります。が、既に述べたように川角太閤記はいろいろ怪しい本ですし、実際に利家がどういった動きを戦場でしたのかは一切記述がありませぬ。恐らく虚構です。

戦闘中、佐久間と利家の連携が悪かったのは確かなようですが、先に見たようにこれは佐久間の猜疑心によるものでしょう。また一切名前が出てこないのは逆に全く活躍していない、という事でもあるのですが、これもまた単純に佐久間による連携不足が主要因だと思われます。どうも前田利家が想定していた行動を合戦初日に佐久間は取らなかったようで、これが敗因だったと利家は述べてます(利家夜話)。

そもそも利家は若いころ、信長の怒りを買って浪人し困窮していた時期がありました。この時、柴田勝家にはいろいろ世話になっています。この恩義もあり、以後も利家と勝家は良好な関係を維持してました(利家夜話)。それゆえに信長は彼を柴田軍に入れたのでしょう。よって秀吉と利家の仲が良好だったのは事実ですが、それは柴田に対しても同じだったのです。そもそも利家の性格からして、裏切りは無いと思います。

ついでに余談ですが、古くからの家臣と言うよりはマブダチに近い存在だった前田利家が信長と男色関係にあった、という話は以前にも説明したように、司馬遼太郎さんが資料を適当に読み流して誤訳した勘違いから出た俗説です。

利家夜話にある原文は「利家様、若き時は信長公御側にて寝臥なされ、御秘蔵にて候と御戯言」であり、自分(利家)は若いころから信長と寝食を共にしながら遊び歩いた織田家の秘蔵っ子だぞ、と冗談を述べた、いう程度の意味です。「寝臥」にそんな意味は無いので、この文章中には男色の「だ」の字もありませぬ。

賤ケ岳に至る道

ではいよいよ、合戦に至るまでの過程を見て行きましょう。
大前提として、この地で対峙した両軍の戦略目的は異なりました。この点を最初に確認しておきます。

 羽柴軍の目的

 柴田軍の目的

 
 最終的には柴田軍の殲滅
 現段階では足止めするだけでもいい
 その間に兵力の少ない信孝、滝川一益を各個撃破
 
 最終的には羽柴軍の殲滅
 現段階ではとにかく現地を突破し信孝、滝川一益を救援
 

どちらの軍も最終的には敵の軍勢を殲滅、その大将の首を獲って自らの立場を安泰にしたい、という点は変わりません。ただし、現状、羽柴軍は敵を足止めするだけでいいのに対し、柴田軍は一刻も早くここを突破して南下する必要がありました。急がないとその救援を待つ同盟軍を見殺しにする事になるからです。織田信孝、滝川一益が討たれれば柴田軍が単独で秀吉と戦う事になり、さすがに勝ち目は無いでしょう。

すなわち待てばいいだけの羽柴軍と、もはや時間が無い柴田軍、という決定的な差がありました。さらに言えば、元々の地元である長浜一帯で戦う秀吉と、本拠地の北庄(福井)から遠く南下している柴田軍では補給の面でも長期戦になるほど柴田軍に不利でした。

前回も触れましたが、この条件で自ら要塞を築いて山地に立てこもってしまった柴田軍の戦術はどうも理解できません。
時間が無い方が時間のかかる戦法を取ってしまったんですから、秀吉としてはこの段階でほぼ勝ったようなものでしょう。山地に築いた城砦下に誘い込んで羽柴軍を殲滅する気だったのかもしれぬ、というのは前回も見たワケですが、百戦錬磨の秀吉がそんな小賢しい手に引っかかるハズが無いのです。この辺りが柴田軍の指揮を執っていたと思われる佐久間の限界だったのでしょうか。いかんせん実戦経験が足りませぬ。ちなみに佐久間盛政はこの時29歳でした。

ちなみに秀吉はこの状況を見て速攻で勝利を確信したと思われます。実際、合戦の一か月以上前、三月十五日の日付で付近の「土民百姓」に対し、敗軍した柴田軍の落ち武者の首を執ってきた者には報奨を与える、と述べた書状が残って居ます(大日本史料に収録。稱(称)名寺の所有文書とされるが、この寺については詳細不明。長浜には同名の寺がいくつかある)。

が、引きこもっちゃったものは仕方ない、とにかく柴田側は攻勢に出ないと自滅を待つばかりなのですから何とかする必要があります。ところがウッカリ引きこもってしまった間に秀吉は速攻で街道を封鎖する城砦化を完成させ、柴田軍は完全に身動きが取れなくなります。ではどうするか。

ここで柴田軍は、日本の戦史上、前代未聞の土木戦に打って出たのでした。
この辺りは天正記にも豊鑑にも一切の記述は無いのですが、現地に残る当時の砦跡を線で結ぶと、その無茶苦茶な戦いが浮き上がって来ます。とりあえずこの点も見て置きましょう。

柴田軍の土木戦

賤ケ岳山頂の砦跡から北を見た写真でこの辺りの狂気を確認しましょう(笑)。
ちなみに街道筋から大きく外れた賤ケ岳の山頂になぜ秀吉は砦を築いて兵を入れたのか、ずっと疑問だったのですが現地で眺望を確かめてあっさり謎は氷解しました。羽柴の陣地付近で戦場一帯を一望できるのはここしか無いのです。

以下の写真では黒字が柴田軍の砦、赤字が羽柴軍側の砦を示しています。



前回も見ましたが、賤ケ岳一帯は北陸街道の左右に山が迫る狭隘の地です。
秀吉は天神山砦を諦めた後、同木山に新たな砦を築きました。さらにその向かいの左禰山(東野山)にも砦を築くと両者を柵と堀で連結し、街道を完全封鎖してしまいます。これが羽柴軍の街道封鎖線で、最終的に合戦が終わるまで突破され無かったと思われます。この辺りは「江州余吾庄合戦覚書」に明確な記述があり、さらに南の田上山砦と大岩山砦の間にも、もう一つの封鎖線が造られています。

ところが4月20日の早朝から始まる賤ケ岳の合戦は画面右手の大岩山砦を佐久間軍が急襲したことで開始されます。すなわち街道の封鎖線を越えたこちら側にいきなり柴田軍が殺到したのです。なぜ、そんな事が可能だったのか。

写真で見ると、街道封鎖のために画面右側、東の方に羽柴軍の砦が集中してるのに対し、柴田軍の砦は左手、西の山地の尾根筋に集中しているのに注意してください。普通に考えるとこんな山地に砦を造る理由はありません。守るべきモノは何も無いからです。ところがこの尾根筋一帯には柴田軍が構築した城砦が無数に残って居ます。なぜか。

それらを線で結んだのが上の写真の黒い線です。はい、全て判りましたね(笑)。
柳ケ瀬の玄蕃尾城を出て、一帯で一番高い山、標高659mの行一山の砦を経由、そのまま南下して羽柴軍の最前線だった同木山砦と神明山砦の背後に回り込む経路を構成してる事が判ります。すなわちこの一連の砦は、柴田軍が封鎖線の裏に回り込むための経路を尾根筋に築き、かつ守るためのものなのが見て取れるのです。これなら街道を迂回でき、羽柴軍の街道封鎖の突破が可能になります。無茶苦茶な戦争をやってるんですよ、柴田軍。

ちなみにチラッと山頂の一部だけが見えてる玄蕃尾城は賤ケ岳から直線距離で約10q先、この地獄の山岳進軍経路の終点である茂山砦まででも約7qあります。この距離の山地にこれだけの土木工事をやってしまったのは純粋に狂気の沙汰でしょう。ただしこの一帯の豪族、東野氏の砦や山城が既にいくつかあり、各砦はその遺構を再利用した可能性もあります。それでも山地の上に街道を造ろうとしたとは思えないので、こちらはほぼ柴田軍の土木工事によるはずです。

実際、一連の砦は南に、すなわち秀吉の陣営に近づくほど簡易になっており、長期に渡って利用された形跡がありませぬ。これは経路が完成すると同時に攻撃が行われた、ゆえに南方にある砦ほど長期利用を前提としていない、と考えると辻褄が合ってしまうのです。

ただし、見れば判るように最後の茂山砦は秀吉の封鎖線を守る神明山砦と同木山砦の背後を狙っています。茂山砦は両者より100m近く高い場所に造られ、さらに神明山砦まで僅か1qの距離しか無く、明らかにその攻略を狙っている立地です。
ところが実際の戦闘は既に見たように、画面右手、賤ケ岳の尾根筋にある大岩山砦で始まるのです。全世界がなんでやねん、というこの始まり方と展開を含め、謎だらけのこの合戦の実態に、ようやく少しずつ近づいて行きすよ…という所で、今回はここまで。

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