■清州会議 清洲会議では生き残った織田家の一族の処遇、そして有力家臣団による織田家の統治機構の設立が決められます。 ちなみに確認できる範囲内でこの会議に参加した信長の息子は第二子の信雄と第三子の信孝だけでした。第四子(天正記では五男とされるが後の一人が誰か不明)の秀勝は羽柴秀吉の養子だったのですがこの段階でまだ13歳で参加せず(後に病死)、それ以下は問題外とされてしまったようです。 とりあえずこの会議の結果を理解するには参加者、不参加者、それぞれがどういった人物だったのかを知る必要があります。よってこの辺りをざっと表にしてみましょう。 ●信長の息子たち
●家臣団 この時期の織田家は軍団長型組織の運用で全国制覇を狙っていました。この点はこちらの記事を参照してください。 織田家の中で有力な地位にあり、軍事力も把握していた軍団長六人の内、この段階では佐久間信盛は失脚して不在、光秀は反乱を起こした張本人ですから、残るのは秀吉、丹羽長秀、滝川一益、そして柴田勝家の四人となります。 この四人が織田家の家臣団を統べる事になる、というのが自然の流れなのですが、最も遠くに居た関東方面担当の滝川一益は、距離がある上にそもそも織田家に反感が強い土地だったため、身動きが取れなくなります。 さらに北条氏と一戦を交えて敗北してしまったため、その軍勢の多くも失ってしまいました。軍事力による背景を失った滝川は発言力も削がれたらしく、清洲体制とでもいうべき四家老、宿老から外されてしまいます。 対してそこに割って入ったのが池田恒興(つねおき)でした。 誰だそれ、という感じの人物であり、実際、政治的な駆け引きで政治の表舞台に引っ張り出された人物と見るべきでしょう。信長の乳母であった養徳院の息子だったため、信長とは縁が深い人物でした。ただしそれだけであり本能寺の変の段階では単に大坂北部の摂津を守っていた人物です。 これが本能寺の変の後に秀吉と合流、山崎の合戦に参加したことで清洲会議にまで呼び出されます。山崎の合戦での縁、そして以後の行動などから見ても秀吉派であり、おそらく秀吉がこの池田を引っ張り出したのだと筆者は推測しています。実際、以前から秀吉と仲が良かった丹羽と合わせ、宿老の内、三人が秀吉派となり、以後、織田家の政治を牛耳ります。まあ半年も持たずにこの体制は崩壊しちゃうんですけども。 ちなみに、やはり人間には分と言うものがあるようで、池田は歴史の表舞台に跳び出した直後、二年後に起こる小牧長久手の戦いで嫡男と共に戦死してしまいます。ただし次男の池田輝政(てるまさ)が家督を引継ぎ、後に江戸期まで生き残って播磨姫路藩の初代藩主となりました。姫路城を現在みられるような形にした人ですね。 とりあえずざっと、この辺りの紹介もして置きましょう。
この会議によって嫡男の三法師は岐阜城の信孝の元に置かれる事になりました。 これは事実上、信孝が織田家の頭領代理である、という事を意味するはずでした。はずでした、というのは速攻でこの清洲体制は崩壊してしまい、ほとんど政治体制として機能しなかったからです。 また明確な記録は無いのですが、この会議で秀吉は北陸に帰る柴田への譲歩として、自らの地元、長浜城を譲り渡したと思われます。実際、この直後に柴田の養子である柴田勝豊が長浜城に入るのです。これは賤ケ岳一帯を含む北陸への道を柴田側が確保した、すなわち安土、岐阜、そして京への通行路を確保したことを意味します。秀吉としては大幅な譲歩でした。ところが秀吉は速攻で勝豊を凋落、長浜城を取り戻します。この結果、琵琶湖方面への出口を塞がれた柴田軍団がこれを突破しようとして発生するのが賤ケ岳の戦いなのです。 ちなみにこの清須会議で柴田勝家が三男の信孝を織田家の家督相続者に推したのに秀吉が反対、幼い三法師を推して会議は紛糾、最後は秀吉の駆け引き勝ちで自分の思うがままにできるようにした、という良く見る話は俗説です。 前記の資料の内、川角太閤記にのみ見られる記述ですが、この本では会議が岐阜城で開かれた事になって居たり、そもそも三法師の名前を吉法師(信長の幼名である)と間違えていたりと筆者の勘違いと創作が入り込んでます。それ以外の資料には三法師が嫡男として織田家を相続する事に関して議論になった、という話は微塵も登場しませぬ。よって俗説として切って捨てていいでしょう。 はい、なんだか本人も驚愕の長い前フリになってしまいましたが、今回はここまで。 |