■ドイツ側の状況
では渡河の翌日である14日、日の出時間までのドイツ側の状況を見て置きましょう(詳細は省くが北緯が上がっても日の出の時間はそこまで早くならない。この時期でも6時30分ごろ)。前日13日の22時付でグーデリアンは各師団に命令を送付、それぞれの目標とするべき地点を指定しています。これは例によって最低限の「絶対的な指針」、すなわちこの地点まで進出せよ、という指示だけを与え、後は各部隊の指揮官の「観察」、そして独自の「行動」を容認している事を意味します。
この命令方式だと、現場で不測の事態が起こっても「とにかく目的地まで到達する手段を考える」という対応が各部隊で取られ、上官の指揮を待って行動が止まる事がありません。この高速OODAループがドイツ軍の強みだった訳です。無論、グデーリアンも必要とあらばかなり細かい指示も出していますが、基本的には電撃戦期間中、この方向で全部隊を指揮していました。
ではこの13日夜22時付のグデーリアンによる目標指示命令を以下の地図で確認して行きましょう。青で示したのが主な河川、運河、灰色のが主要道路です。この辺りはまだアルデンヌ丘陵地帯の一部なので、道路を外れた機甲部隊の進撃は困難と思ってください。
この日の深夜までに、西側に位置する第2師団装甲師団は何とか西のドンシュリー(Donchery)地区で渡河を始めています。ちなみにこの一帯はフランス軍の大きな組織単位である軍の管轄境界線があり、第2装甲師団が渡河したドンシェリーまでがフランンス第2軍、その西はフランス第9軍の管轄でした。軍組織が異なると指揮系統とも異なるため、グデーリアン軍団が両者の境界線を高速突破してしまった事は、結果的にフランス軍の指揮系統の混乱の一因になりました。
次に東にあった第10装甲師団もヴァダランクゥー(Wadelincourt)地区からさらに南下しています。そして敵の最弱点を突いて渡河していた第1装甲師団は歩兵とオートバイ狙撃兵だけで一気に南下、シェエリー(Chéhéry)地区まで到達していました(翌朝を待って集落に入ったが既に見たように日没前に一帯のフランス兵は潰走済みだった)。ただし繰り返しになりますが最強の兵器である戦車は4日の朝7時まで渡河を開始していません。
では各師団の目標地点を確認して行きましょう。ちなみに地図中の線と矢印はグデーリアンが命じた経路で、実際の進撃路とは異なっています。これは以後解説するフランス軍の反撃、予想外の無傷の橋の発見などが絡んで来た結果でした。
まずはドンシェリーの一帯でようやく渡河を開始した第2装甲師団。これには南西のオミクー(Omicourt)を経由し、10qほど西にあるプワ-テホン(Poix-Terron)までの進出を命じています。ちなみにマース川沿いにそのまま西に進める道があるんですが、グデーリアンは最後までこれを利用していません。地雷原などがあったのか、当時はこの道は北西の海岸線まで繋がっていなかったのか、とりあえず理由は不明。
次いで最南端にまで進出していた第1装甲師団にはストンヌ(Stonne)、ルシェンヌ(Le
Chesne)経由で西に約30qの街、リテル(Rethel)に向かうように命じました。後で見るように、これはフランス軍反撃部隊の進出経路と完全に重なっており、このため14日の朝から第1装甲師団はフランス軍の最初の反撃を迎え撃つ事になります(詳しくは後述)。さらに想定していたより北側でアルデンヌ運河を渡れる橋が確保された事もあり南下経路は放棄されて、本来、第2装甲師団が使うはずだった経路で第1装甲師団は西に向かう事になります(まだ第2装甲師団が完全にマース渡河を終わって無い時間だったので先に通過できたのだと思われる)。
最後、東の第10装甲師団には当初想定されいてた前線の最南端、ビュルゾンまで進むように命じていますが、朝の戦闘で第1装甲師団と大ドイツ歩兵連隊がこれを制圧してしまったので、さらに南のストンヌを目指す事になります。既に見たようにビュルソン一帯にはフランス第55歩兵師団の司令部があったのですが、グデーリアンがこの点を知っていたかは不明です。いずれにせよ既に潰走済みで戦術的には無意味ですけどね。
ちなみに朝の段階まで、大ドイツ歩兵連隊は第1装甲師団と行動を共にしていますが、以後は第10装甲師団と共に一帯に残される事になります。
他の二師団と異なり十km単位の先まで進撃を命じなかったのは、第10装甲師団はスダン地区の防衛を目的としているからです。にこれは開戦前の作戦立案時から決まっていた配置、南からスダンにやって来るであろうフランス軍を迎え撃つための配置でした。この防衛任務に第10装甲師団が任じられたのは練度、装備の点で軍団内では予備戦力的な存在だったからでしょう。その第10装甲師団が電撃戦最大の死闘、ストンヌを戦い抜く事になるのはグーデリアンとしては完全に想定外だったはず。その辺りもまた後で。
■グデーリアンの企み
以上の指令を見れば判るように(笑)、グデーリアンは橋頭保を確保した後、これを維持しつつ後続の歩兵部隊を待つ…などといった気は微塵もありませんでした。既に13日の夜の段階でさらに西に向けて30q先まで進撃を命じていたわけです。
連載当初に指摘したように、参謀本部はもちろん、クライスト装甲集団の司令部でも高速進撃のセダン渡河後の行動について、明確な作戦司令は出していません。暗黙の了解として少なくとも機械化歩兵師団を待て、といった感じだったのです。ですが当然、我らが光速魔法将軍グデーリアン閣下はそんな呑気な事をする気はさらさら有りませんでした。開戦前から第10師装甲団だけを橋頭保確保のため残し、残りは西に前進する作戦を立て演習でもその訓練を済ませていたのです。
ちなみにこの第10装甲師団と大ドイツ歩兵連隊の切り離しは、マンシュタイン将軍の計画案にあった攻勢防御、北西に向かう高速部隊を守るため、こっちから攻め込んで周囲の敵を引き付けちまえ、という貴族の坊ちゃんが考えた作戦の中では最高に乱暴な防衛作戦を受け継いだもののようにも見えます。
この南部攻勢防御部隊ですね。この点、グデーリアン閣下は特に何も言ってませんが、恐らく影響はあったはず。
この時、最速でスダンに到達するであろう後続の歩兵部隊としては、クライスト装甲集団の機械化歩兵(トラックやバイクで移動する高速歩兵)部隊、14自動車化歩兵軍団(2個自動車化歩兵師団)がありました。ただしその到着は15日以降になりそうで、その間、この橋頭保を守るのが第10師団と大ドイツ歩兵連隊の任務となります。
この点、フランス側も第55歩兵師団が単独で守っていた一帯ですから無茶な話では無いように見えます。ですがこの時、一帯を守るフランス第2軍配下の第10軍団は予備戦力として極めて強力な部隊をランスに至るまでの地区に持っていたのです。虎の子の装甲師団が1つ(全フランス軍で四つしかない)、機械化歩師団が1つ(これは全フランス軍で唯一の師団)、さらに騎兵師団、軽騎兵師団が各一の計四個師団(騎兵師団は軽戦車等が配備された準装甲師団)、さらにグデーリアン軍団の真正面には二個歩兵連隊、二個戦車大隊の予備兵力が残されていました。
本来ならグデーリアン軍団が全力で戦わねばどうしようもない規模の敵です。ですが、これらはほとんどはまともな戦闘も無いまま、第55歩兵師団と第71歩兵師団のように消えて無くなります。ホントに消えて無くなるとしか言いようが無い事態になるのです。数少ない例外が今回取り上げる14日朝の戦闘、そしてストンヌの攻防戦、戦車戦でした。特にストンヌ戦におけるフランス軍の激しい抵抗にドイツ軍は驚くのですが、実はバラバラに投入された数個大隊規模の戦力、すなわち装甲連隊ですら無い部隊でしかありませんでした。本来なら師団単位のフランス軍装甲戦力が一帯には投じられていたので、もしまともにこれらが戦闘に参加していたら、おそらくグデーリアン軍団は西に向けて旋回中にその横腹に強烈な一撃を食らい、場合によっては致命的な打撃を受けていたでしょう。
ですが、そうはなりませんでした。この辺りはボイドの言う「テンポ(行動速度)」の差によるフランス軍の劣勢によるものです。お次はこの点を見て行きましょう。さあいよいよ、全く戦わずして魔法のようにドンドン消えてゆきますよ、フランス軍(笑)。
■ドイツ側の事情
14日朝、南のシェエリーを抑えたという第1装甲師団からの連絡を受けたグーデリアンは急ぎその師団司令部に向かいました。この時、第1装甲師団の司令部はシェエリーの北、約2qの位置にある301高地にあったようです(ちなみに301高地はプロイセン-フランス戦争でモルトケが前線司令部を置いた場所らしい)。その途中で数千人からのフランス人捕虜を見かけた、としているので、一帯で戦ったフランス兵は撤退する事が出来ずに降伏した者が多かったのだと思われます。
この時、戦車部隊を含むフランス軍が北上中との情報を同師団司令部は受け取っており、まさにこれを迎え撃とうとしていました。敵は東西に別れ、シェエリーの南にあるコナージュとビュルソに向け北上中と朝7時50分の段階で友軍の偵察機が知らせて来たのです。念のため、再度地図を載せて置きます。
現地でこれをを知ったグデーリアンは全体の状況を確認した後、一度後方に下がります。そこでグーリエの舟橋の渡河は第1装甲師団の部隊を最優先とする指示を出し戦闘を支援するのです。この辺りがグデーリアンの指揮の見事さで、戦闘は現地指揮官に委ね、自分はその後方支援に徹します。そして一見地味な後方支援は軍団指揮官であるグデーリアン以外には出来ない重要な仕事でもあるのです。グデーリアンは以後も前線の戦闘の指揮に介入することなく、未だ歩兵の渡河が完了していなかった第2装甲師団指令部を訪れるなど軍団全体の総合指揮に専念します。
第1装甲師団は情報を得た直後、午前8時ごろには早くも迎撃部隊を発進させる事を決定していました。ただし先にも見たように戦車部隊はこの朝7時過ぎ、ようやく渡河を開始したばかりでした。このため第2戦車連隊第1大隊所属の第4戦車中隊が戦線に投入できる唯一の戦力で、おそらく15両前後しか戦車が無かったと思われます。それでも第1装甲師団の司令部は迷うことなく、これを東のビュルソンに向けて送り出します。フランスの第55歩兵師団の本部が置かれていた事から判るように、一帯の交通の要衝であり、地形的にも高台のここを抑えるのが最優先と考えたからでしょう。
ですが今すぐ投入できる戦車部隊はこれで全てでした。このため西のシェエリーには前日の渡河戦で活躍した第1狙撃兵連隊に所属する対戦車砲小隊二つを送り込みます(恐らく牽引はトラックかバイク、歩兵も徒歩ではない移動だったと思われる)。貧弱と言っていい37o対戦車砲しか持たない2個小隊ですから、これまた絶望的な戦力でした。それでもこの二つの弱小戦力、両者を合わせても一個大隊にもならない戦力が、フランスの二個歩兵連隊、二個戦車大隊の反撃を食い止めてしまいます。なぜか。それはまたしても戦わずしてフランス軍の多数の戦力が忽然と消えてしまったからです。
開戦時にドイツの対戦車砲の主力だった37o対戦車砲、3.7cm PaK
36。どう見ても貧弱な印象の細い砲身ですが、実際、完全な能力不足で、フランスの小型戦車相手でも装甲の薄い部分を狙わないと貫通しませんでした。二個小隊だと6門ですから、その戦力でフランス戦車大隊を迎え討ったコナージュ(Connage)の戦闘(後述)はエライ事になるんですが、それでもドイツ側が勝ってしまいます。
この14日朝の戦闘はドイツ側の戦力不足もあって一時的に激戦となるのですが、実はフランス側は当初予定していた半分の戦力しか戦闘に参加していません。もし予定された全戦力がこの場に投入されていたら、恐らくドイツ軍は蹴散らされて居たでしょう。そしてこれらも全てOODAループの回転に基づく作戦速度、テンポの違いが産んだ悲劇でした。
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