アラスの戦い

21日の15時30分ごろ、イギリス軍左翼部隊がボーハン地区でドイツ軍第6狙撃兵連隊と接触、本格的なアラスの戦いの開始となりました。続いて16時頃、今度はイギリス軍右翼部隊がワイィー地区でドイツ軍第7狙撃兵連隊と接触、こちらでも戦闘開始となり、そこにロンメルが乱入して大乱戦となってゆきます。まずはその16時前後に置ける戦況地図から確認してゆきましょう。



まず注目して欲しいのが地図の左、西側一帯です。ここにはアラスの北西部、アキュに向かったドイツ第7装甲師団の主力、ロンメルが同行する第25戦車連隊が居ました。ドイツ側の最強戦力なんですが、既に見た小競り合いをしただけで主要な戦闘には参加していません。同じくフランス軍第3軽装甲師団も西側で独自に南下中で、これも第25戦車連隊と接触しながらも小規模な戦闘を行っただけで離脱してしまい、以後、主戦場には登場しません(イギリス軍との同士討ちはやったが)。すなわちこの強力な二つの部隊は、戦闘が終盤になるまで戦闘に参加していないのです。両軍の強力な打撃力が戦闘の最盛期に遊んでいた、という不思議な状態はアラスの戦いの特徴の一つでしょう。

特にフランス軍第3軽装甲師団は約60両の戦車を持つ強力な部隊でした。これがイギリス軍右翼と共同してドイツ軍陣地に突入していれば恐らくロンメル大活躍の右翼戦線(連合軍から見て。以後同様)を突破できたはずです。この時、ロンメル無き左翼戦線は大混乱に陥っており一部は突破されていました。もしロンメルが立ち塞がった右翼も同時に崩壊していれば、アラスの戦いは連合軍の勝利、少なくとも第7装甲師団の壊滅で終わっていた可能性が高いのです。この点、両者の連絡不足、そもそもお互いの戦闘計画すらよく知らなかった状況が悔やまれる所でしょう。ちなみにフランス軍第3軽装甲師団は以後、どこで何やっていたのかよく判らず、どうも一帯の集落をいくつか占拠して動かなかったらしいのですが…。いずれせよ、指揮系統がボロボロですから、どうしようも無いと言えば無いんですけどね。それでも本来、連合軍が負ける要素の無かった戦闘だったのは確かです。

■戦闘開始

戦闘は当初、イギリス軍の一方的な優位で進行します。ボーハンのドイツ第6狙撃兵連隊の周囲には野砲、対空砲陣地があり、さらには第7装甲師団司令部まであったのですが、奇襲を受けて大混乱に陥ります。指令官であるロンメルの不在もあって、ボーハンの集落をイギリス軍があっさり占拠(左翼部隊は歩兵も同行していたのでこれが出来た)、第7狙撃兵連隊を蹴散らしながらさらに南下、一帯に置かれていたSSドクロ師団の司令部付近まで攻撃を仕掛ける状況となります。このため師団司令部は応援要請を求める緊急無電を発信(状況を知ったロンメルが命じたらしい)、その結果、空軍の急降下爆撃部隊に出撃命令が下り、さらに西に居たラインハルト軍団配下の第6装甲師団の一部が東に向かうように指示を受けました。さすがに第6装甲師団の救援は間に合わなかったのですが、二時間後には急降下爆撃部隊が一帯に殺到し、撤退に入っていたイギリス軍にトドメを刺す事になります。

その左翼側のイギリス軍の攻撃が順調に進みつつあった16時ごろ、今度は右翼の戦車部隊がワイィーでドイツ第7狙撃兵連隊と接触、これも戦闘開始となりました(ただしイギリス軍両翼間の連絡は無く、連携して動いたワケではない)。

この時、東のイギリス軍左翼部隊は既に第6狙撃兵連隊を蹴散らし第7狙撃兵連隊の背後に回り込みつつありました(ただしイギリス軍がこの優位を認識していたかハッキリしない。左翼部隊は気付かないまま南進していた可能性が高い)。一帯は3q前後の距離しか離れていない平地ですから、砲撃による戦闘音は聞こえていたはずで、恐らくこのままだと包囲される、というのは第7狙撃兵連隊も気が付いていたと思われます。結果、一帯の歩兵部隊は軽いパニックに陥るのです。

この段階まで、ロンメルは現地に不在だったのですが、第25戦車連隊がイギリス軍右翼歩兵部隊、フランス軍第3軽装甲師団と小競り合いを演じた後、狙撃兵連隊の遅れが心配になり例によって来た道を引き返しワィィーに向かっていました。前日の夜、怖い目にあったばかりなのに、懲りない人ではあります。その途中、第7狙撃兵連隊が戦車を有するイギリス軍から奇襲された事を知り、急ぎ現地に向かうのです。

ここでもう一回、同じ地図を掲載して置きます。



ロンメル自身、敵から砲撃されつつワイィーの砲兵陣地に駆けつけたところ、対戦車砲部隊は正確な射撃を行い、敵戦車を撃破していました(恐らくこの段階ではまだマチルダII戦車は来ていない)。一安心だったのですが、ロンメルが歩兵第二大隊が居たワイィーの集落に入って見ると、敵戦車が接近中であり、その砲撃を受け大混乱状態にありました。このままだと敵戦車部隊に突破されてしまうと見たロンメルは。ここで陣頭指揮を開始しします。既に連隊の背後に左翼の敵が回り込みつつあるのにロンメルも気が付いていたはずで、ここが突破されると第7装甲師団は崩壊、さらにはSSドクロ師団と合わせて包囲される危険性も出て来ます。それだけは避けねばならないのです。

ロンメルは急ぎ集落西側の高地に展開していた高射砲部隊と対戦車砲部隊の元に走ります(これが最初の記述にある砲兵部隊なのかよく判らない。ロンメルの記述だと別部隊に見えるが、一帯にそれほど戦車を撃破できる砲兵陣地があったとは考えにくい)。これらは下から見えないように隠蔽されており、部隊もパニックに陥ってませんでした。その高地から見るとイギリス軍戦車部隊は少なくとも三手に別れてワイィーに向け殺到中で、護衛に残されていたIII号戦車が敵重戦車(おそらくマチルダII)に撃破され、さらに西側に居たSSドクロ師団の部隊が蹴散らされ、撤退するのを目撃します。

ロンメルはまず、複数に別れていたイギリス軍戦車部隊を各個撃破する事にし、最接近していた部隊へ向けて発砲を開始させます。この時はロンメルが目標を指定しながら一斉に発砲させ、砲兵隊の指揮官があれは射程距離外だ、と抗議しても無視、例によってとにかく撃たせまくったようです。ロンメルお得意の、とにかくガンガン撃ちまくれ戦法は今回も効果を発揮、直ぐに数両の戦車が撃破され、敵の進撃速度は鈍りました。最後は敵戦車が陣地の130m前後まで接近しながらもこれを撃破、とにかく敵戦車部隊第一波を食い止める事に成功します。以後、他の方向から接近する戦車隊にも同様に撃ちまくり(陣地に88mm Flakがあり、これを引っ張り出してマチルダIIも撃破している)、最終的にイギリス軍は撤退して行きます(ちなみにロンメルの側にいた将校が銃撃で戦死するのはこの時)。これによって戦線崩壊の危機は回避されたのでした。そしてこの右翼戦線が最後まで持ち応えた事で、突破された左翼側が反撃に出る状況を産み出します。

ロンメルはこの砲撃戦に入る前、師団司令部と無線連絡を取り、ワイィーの状況を報せていました。同時にボーハンの第6狙撃兵連隊もまた奇襲され、危機的状況にある事を知ったようです。このため既に見たように緊急支援を要請する無電を発信させ、さらに突破されたボーハン一帯の南に位置するヌヴィーユの西に88o Flakによる防衛線を構築するように命じます。結果的にこの防衛線がイギリス左翼部隊の進撃を食い止めました。ここで16時20分前後までに20両からのイギリス軍戦車が撃破された結果、左翼部隊は進撃を止められ、間もなく撤退に追い込まれる事になります(結果的にドイツ軍は左右両戦線でほぼ同時に反撃戦に成功した事になる。偶然ではあるが、ロンメルの高速指揮によるものなのは間違いない)。



とにかくドイツ空陸両軍で大活躍した(対空砲部隊は基本的に空軍の管轄)88mm Flak。その対戦車戦での活躍はこの電撃戦から始まり、以後、北アフリカの熱帯でも、極寒のソ連でも、そして連合軍の戦略爆撃に襲われるドイツ本土でも守護神として戦い、終戦に至るまで活躍し続けます。ドイツ最強の兵器は間違いなくこれでしょう。

でもって勝つなら徹底的にやるのがロンメルで、イギリス軍が撤退に入ったのを確認すると、アキュに置きっぱなしにされていた第25戦車連隊に南下を命じました。このため19時ごろから同連隊は南下を開始、これによってイギリス軍右翼部隊の歩兵、さらには一部戦車が退路を断たれ、包囲されてしまいます。ただし、ここで未だ一帯にあったフランス軍軽戦車部隊が登場、ドイツ側との激戦の末、なんとか脱出に成功するのです。ただしフランス側も多大な損失を食らったようですが、具体的な数は不明。

さらに既に18時ごろからドイツ空軍の急降下爆撃部隊の支援が開始され、約2時間に渡り撤退中のイギリス軍戦車部隊を中心に徹底的に叩きまくりました。この点、ロンメルの手記ではオレ様の大活躍で終了、と空軍からの支援に全く触れてませんが、イギリス側の記録ではこれがトドメとなった、と述べられており、相当な損失を出したようです。最終的に88両のイギリス戦車の内、約60両が失われ、完敗と言っていい状況で戦闘は終結する事になりました(歩兵は実質一個大隊しか戦闘に参加していないので数の上では損失は少ない)。

対してロンメルの第7装甲師団は戦史89名、負傷116名、行方不明83名(恐らく捕虜になった)と300人近い人的損失を出し、さらに戦車9両、軽戦車(恐らくI号戦車)数両を失ったとしています(師団の記録で行方不明は173名としているが、その後90人が原隊復帰している)。ただしイギリスの公刊戦史ではこの戦闘で400人を超える捕虜を得た、もっと戦果は大きいだろうとしていますが、その捕虜の大半はSSドクロ師団の兵だったと思われます。

これは電撃戦開始後、最大の損失であり、ロンメルも軽いショックを受けたようです。本人は完全装備の5個師団から攻撃を受けたと思い込んでおり、そこに彼の鬱陶しい自己顕示欲が加わって、連合軍側の攻撃は必要以上に強力なものとしてドイツ軍上層部に報告されました。そしてこれが必要以上のパニックを引き起こす事になるのです。

ただしアラス守備隊となったイギリス軍部隊は以後も撤退せず、翌22日以降もこれを守っていました。もっともドイツ側は攻める気が無く、最終的に第5装甲師団が到着して一帯が包囲されそうになると、自主的に撤退して終わります。

さらに翌22日になってから東のコムブヘィ地区でフランス軍の反撃、プリウー騎兵軍団と2個歩兵師団による反撃が行われるのですが、南下中に発見された結果、ドイツ空軍からの集中的な空襲を食らって目的地に達する前に撤退しています。既に見たようにこの時、コムブヘィにまともなドイツ軍戦力は無く大チャンスだったのですが、制空権無き陸戦は一方的に不利だったのです。

こうして連合軍側の反撃は完全な失敗、事実上の敗北で終わります。 その勝利はほぼロンメル一人の活躍によるものだったのは事実でしょう。ちなみに連合軍側の現地指令官、フランクリン将軍は最後までどこで何やっていたかわからず、作戦全体を統括する存在であるはずのアイアンサイド参謀長はこの作戦中にイギリス本国に帰国しちゃってます…



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