戦闘後の戦い

アラスの戦いそのものは 僅か6時間前後、双方合わせてもせいぜい4個師団の戦力の衝突に過ぎませんでした。ドイツ側の一方的な勝利に終わったと言っても、戦線全体で見ればそこまで大きな意味を持つ戦いでは無かったのです。ところがその結果は連合軍、ドイツ軍、その両者に政治的、戦略的に大きな反響を引き起こして行くのです。

まずはイギリス側、特に遠征軍指揮官のゴート卿はこの敗戦とヴィゴンの指導力に疑問を感じ(なにせアラスの戦いの間中、何もせずベルギー地区を漫遊中だった)、完全にイギリス遠征軍の海岸線への撤退、本土への引き上げに方向転換します。以後、数日間は未だ本国の戦時内閣は反撃作戦を諦めなかったのですが、これを無視する形でゴート卿は撤退作戦に舵を切り、結果的にこれがイギリス軍を救う事になります。



先頭を歩く、頭の悪い子供が好きそうな帽子を被った人物がゴート卿ことヴェレカー将軍。軍人の素質としては疑う余地なく二流以下ですが、その弱気な思考が結果的にイギリス軍を救う事になります。

一方、チャーチルはその後も強気の姿勢を崩しませんでした。ただしアラス戦の最中に帰って来ちゃったアイアンサイド参謀長の現地報告がかなり悲観的な内容で(基本はフランス軍とゴート卿の悪口だったが)、さらにアラスの敗北が知らされ、戦時内閣の面々は動揺します。このため急遽、チャーチルが翌22日、パリを再訪し現地の状況を確認した上で撤退に舵を切るのか検討する事にはなったのです(ちなみに負け戦&本人が関わったため、チャーチルの著作ではこの戦いにほぼ言及されていない。よってそれを読んでも何でこんな行動をしたのか、普通は理解できないだろう。誰だ、これにノーベル文学賞与えた馬鹿は)。

ところが既に見たようにこの日はヴィゴン将軍漫遊記が未だ続いており、午後遅くなってからようやく総司令部で面会が行われました。ここでヴィゴン将軍の反撃計画を聞くのですが、アラスからアミアンまで突貫しドイツ装甲軍団の側面を衝く、という極めて平凡な机上の空論でした。それは昨日既に失敗しました、というか今この段階でコムブヘィでフランス軍が空襲受けて壊滅している最中ですぜ閣下、もはやそんな事できる戦力はどこにも在りませんぜ、という内容でした。この辺り遂に頭がおかしくなったのか、と思ってしまう所ですがどうもほぼ二日に渡って絶賛漫遊記中だったヴィゴンは連合軍がアラス周辺で敗北した事を本気で知らなかったようです。ただしチャーチルは少なくとも前日のアラスの敗北は知っていたはずでなぜこの机上の空論にツッコまん、という疑問は残ります。ついでに今その瞬間にフランスがコムブヘィで壊滅中だったのですが、恐らく例の連絡網の崩壊で全く報告が来て無かったと思われます。そしてこの会議中にフランス軍第一軍集団のビヨット将軍が事故死したという報告が来たんですが(これも事故から24時間近くかかってからようやく報告が入った事になる。ただし実際はまだ生きていて二日後に死亡)、それが現地の指揮系統の破綻を意味すると誰も気が付かなったようです(これも既に見たがその後任の辞令が出るまで以後、三日掛かる)。この辺り、チャーチルも未だ第一次世界大戦の時間軸で生きてたんですよね。

結局、この訪問でもチャーチルの強気は崩れず、イギリス遠征軍指令官のゴート卿にフランス軍の反撃に協力せよ、イケイケゴーゴー(意訳だがこれで問題無い)という電文を打って帰国してしまいます(恐らくこの時、副参謀長のディルも帰国した)。ですが以後も状況は悪化する一方で、結局、24日頃にはチャーチルも撤退容認に方向転換します。そのため反撃強硬派の筆頭、アイアンサイド参謀長が25日付で事実上、更迭されてしまいます(ただし話し合いで納得させ本土防衛軍指令官の地位を約束した上で辞表を出させた。26日からディルが参謀長を引き継ぐ)。これでいよいよ、イギリスはダイナモ作戦の始動へと全力で動き始めるのです。

■ドイツの事情

その大混乱の上を行っていたのが勝者であるドイツ軍の上層部でした(笑)。なんでやねん。このため上が馬鹿だと勝てる戦争にも勝てぬ、を地で行く混沌と悪夢がそこで展開される事になります。この時、これまで比較的中立的な立場を維持していたA軍集団のボス、ルントシュテットが反撃恐怖症に感染してしまい、これがヒトラーに余計な共鳴を引き起こし、悲劇的なダンケルク直前の停止に繋がり、連合軍の「戦術、作戦級の完全な敗北からの戦略的勝利」を許してしまう事になるのです。この辺りはかなりややこしいので、次回以降、見て行きましょう。

といった感じで、今回はここまで。

 



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