|
■ロンメルがまたもやって来る
ではいよいよ、5月21日に展開されたアラスの戦いを見てゆきます。ただし両軍ともそこまで強力な戦力を投入したワケではなく、さらに不期遭遇戦に近い状況もあって、乱戦状態のまま展開、それほど大規模な戦いにはなりませんでした。最後はロンメルがその指揮能力と強運を発揮して戦場を支配、戦闘そのものは僅か半日ほどで終わってしまいます。むしろその後、イギリス軍とドイツ軍の上層部に与えた心理的な影響の方が大きいのですが、それも含めて見て行きましょう。
いきなり余談ですがアラスの街とその北に位置するヴィミ(この日の午前中にイギリス軍のフランク部隊が集結した集落)までは、第一次世界大戦の激戦、アラスの戦い(1917年4月〜5月)の舞台であり、このため両軍とも一帯の地理についてはかなり詳細に知っていました。ちなみに狙ったのか偶々なのか、ロンメルはかつてのドイツ軍側の陣地を徹底的に避けて連合軍側陣地を突破するような形で移動してます。ロンメル、第一次世界大戦では早々と負傷して、地獄の塹壕戦には巻き込まれて無いので(だからこそ生き残ったのだが)、その辺りに特に思い入れは無いはずですが。
では21日の戦闘に至るまでの、ドイツ軍側の動きから見ましょう。5月16日のヒトラーによる口頭介入で、第7装甲師団の進撃がル・キャトまでで一時的に止まったのは既に見ました。その後、アラスの東南約35qに位置する重要拠点、コムブヘィ(英語読みでカンブレー)まで進撃許可が出たためロンメルは第3戦車大隊だけを先行させ、18日の日没前にこの部隊は現地に入りました。再度、地図で確認して置くとこんな状況ですね。
コムブヘィはベルギー南部から続く丘陵地帯の終着点、すなわちフランス北部平野の開始地点となるため、チャーチルを始め、連合軍側の首脳部からその反撃の起点と見なされていた街です。ところが特に強力な守備隊などは置かれておらず18日の段階でロンメルがこれを制圧してしまったのでした。この点、ロンメルの記述だとあっさりコムブヘィを占拠したように見えますが、連合軍側の記録だと翌19日までは持ち応えたとされます。実際、ロンメルはコムブヘィ一帯でほぼ丸一日を浪費しているので、ドイツ側の記録が残って無い戦闘があった可能性は高いです。ただしドイツ側はこの一帯をそれほど重要視しておらず(あくまで連合軍主力の包囲が目的なのだ)、ロンメルは後続部隊の到達を待たずに立ち去ってしまうのです。このため、一時的に戦力空白地帯となってしまい、そこに22日(アラス戦の翌日)、フランス側が反撃を仕掛けるのですが、あっさりドイツ空軍から叩かれ撤退に追い込まれて終わります。
話をロンメルの進撃に戻します。コムブヘィ到達後の18日夜、ヒトラーによる総統指令第12号が出され、19日以降、さらに西のアラス周辺まで進撃する事が認められました。これを受けたロンメルは19日の夜になってから西のアラスを目指し出撃します。すなわち総統指令を受け取ってから24時間近く経過してからで、補給、休息はル・キャトで十分に取ってますから、ロンメルの性格からして考えにくい停滞だと思われます。やはりイギリス側が主張するようにコムブヘィで一定の戦闘があったと見るべきでしょう。
19日の夜からアラスに向けて進撃を開始したロンメルは、その市街に入る事を避け、南へ迂回しながらこれを包囲するつもりでした。対戦車砲等が隠れる場所だらけで見通しが効かない市街地は戦車戦には向きませんし、無理に攻めなくても、包囲され補給を断たれた敵は撤退すると読んだのでしょう(既にル・ケスノワを離脱したドイツ第5装甲師団も向かっており、SSドクロ師団も追いつきつつあった)。
ちなみにロンメル進撃開始時点、19日の夜は未だアイアンサイドのフランス上陸前(20日午前8時)ですから、当然、連合軍の反撃に備えた部隊は一帯にはありませんでした。ただし例のフランス最後の虎の子部隊、プリウー騎兵軍団の先行偵察部隊がアラスの北、スヘルデ(エスコ―)川の北岸にあったらしいのですが、正確な位置は不明です。フランス軍はアラスよりもコムブヘィの確保に力を入れてましたから、かなり東側に位置したと思われますが(翌20日なってその司令部に連合軍側指揮官が集まって作戦を検討したのは前回見た通り)。当然、ロンメルもアラス一帯で激戦になるなど夢にも思っていませんでした。
この辺りの動きを地図で見て置きましょう。まずは決戦前日、19日深夜から20日の段階までの動きを。
まずはアラス中心部から南約3qにある集落、街道から外れた位置に在るボーハン(Beaurains)に日付が変わった20日深夜1時ごろ、先行した第25戦車連隊が到達します。極めて素早い進撃でしたが例によってロンメルは大好きな第25戦車連隊と共に先頭に立ってかっ飛ばしたため、後続部隊のほとんどを置き去りにしてしまいます。
アラス包囲に歩兵&砲兵部隊は欠かせません。よって師団の持つ第6,第7の2個狙撃兵連隊(機械化歩兵の部隊)と第78砲兵連隊が居ないと何も出来ず、これを急がせるためロンメルはまたもや指揮車両に戦車1台だけを護衛に付け、街道沿いのヴィス・ナ・フトワ(Vis-en-Artois)まで引き返したのです。ところが分断された第7師団の間にいつの間にかフランス軍の戦車部隊が入り込んでおり、ロンメルはこの街でその中に飛び込んでしまう形になりました。あわてて隠れて難を逃れ、間もなく両歩兵連隊が到着したため助かるのですが、恐らく彼にとって電撃戦中、最大の危機の一つだったでしょう。
イギリス側の記述によると、これはフランス軍の騎兵軍団の偵察部隊だったとされます。確かに既に見たようにスヘルデ(エスコ―)川の北岸にこの部隊が居たのですが、夜間に、アラスから10q以上先にある地点まで偵察に行くだろうか、という疑問はあります。実際はコムブヘィ北部一帯から撤退して来たフランス軍部隊で、例によってロンメルがこれをぶち抜いて進撃しちゃったんじゃないかという気もしますが。とりあえずロンメルを捉える大チャンスを逃したのは確かで、イギリス側の戦史にフランス軍はんがここでキチンと仕事していてくれれば良かったのにどすえ、的な皮肉が書かれる事になるのでした。
その後、追いついて来た第6狙撃兵連隊を第25戦車連隊と同じボーハンに入れ、師団の戦闘指令所もここに置きました。砲兵部隊もこの一帯に展開、おそらく20日から街への砲撃を開始しています。もう一つの第7狙撃兵連隊はさらに南西のワイィー(Wailly)に入れ、そこから東のヌヴィーユ(Neuville)までの
一帯には対戦車、対空砲陣地が築かれました。この高射砲陣地は恐らく本来の任務、敵の爆撃機への警戒のためだったと思われるのですが、これが翌21日の戦闘でイギリス軍が投入した当時最強戦車、歩兵戦車Mk.II、あの「マチルダII」との死闘で活躍する事になります。
こうして20日の朝からアラス包囲戦に入ったロンメルは、現地で新たな命令を受け取ります。アラス一帯から90度の方向転換を行い北上を開始、連合軍主力のケツを抑えろ、というものでした(連合軍主力包囲にノリノリ状態だった数学大好き参謀総長ハルダーから出たと思われる。その狙いは正しく的確な指示だった)。ただし本来は東側に第5装甲師団が付き、アラスを東西から挟むように進撃する計画だったようですが、既に見たように第5装甲師団はル・ケスノワ攻防戦で到着が遅れており、そしてロンメルはそれを待つような人間では無いのでした。
翌21日、ボーハンの北西約14qに位置する小さな集落、アキュ(Acq)でスヘルデ(エスコ―)川を渡河、北上を開始する事にしたロンメルは今回も第25戦車連隊に先行して一帯を確保する事を命じ、今度もこれ同行しました。この間、後続の歩兵&砲兵部隊は置き去りにされたため、第7装甲師団は直線距離で約14q、実際は道路沿いに約20q近い距離に薄く展開している状態でした。この極めて危険な状況の時、イギリス軍の奇襲を食らってしまいます。しかも戦車連隊は全てアキュに移動済みであり、残された脆弱な狙撃兵と砲兵部隊が、強力なイギリスの戦車部隊に襲われたのです。不運と言えば不運ですが、ロンメルが前方にばかり気を取られて、側面のアラス側の警戒を怠っていたのが原因でもありました。ただし偵察がお粗末だったのはイギリス側も同じで、このため両軍に取って不期遭遇戦のような形に成り、ここから大乱戦となって行くのです。
次に連合軍側の状況を見て置きましょう。
イギリス軍の主力として投入されたのがフランクリン将軍率いる通称フランク部隊、二個歩兵師団(機械化)、一個戦車旅団でした。ただし実際は書面上の数字とはかけ離れた小規模な戦力しか持っていませんでした。まず歩兵師団はどちらも規程の三個旅団を持たず、二個旅団の兵力しかありませんでした。さらに第5師団は一個旅団(第13旅団)をフランス軍の支援に取られてしまい、作戦開始時の戦力は第17旅団のみ、すなわわち全一個旅団に過ぎない師団とは名ばかりの部隊でした、このため後方の予備戦力とされ、攻撃部隊に参加するのは第50歩兵師団のみとなりました。
それだけでも十分に貧弱なんですが、さらに驚くべきことにフランクリン将軍は第50師団配下の二個旅団(第150、151)から、第150旅団を引き抜きアラス守備隊の増援に回してしまうのです。その上、最終的には第151旅団(三個大隊)からも一個大隊を引き抜き予備戦力として温存に回します。すなわち実際に戦闘に参加したのは僅か二個歩兵大隊であり、書面上の二個歩兵師団とはかけ離れた戦力しか持ちませんでした。攻撃部隊には野砲中隊×1、対戦車砲中隊×3、ほかにオートバイ偵察兵などが加わったのですが、それでも数の上ではアラスの街の守備に回った兵の方が多かったと思われます。
なんでこんな事をやったのか理解に苦しみますが、イギリス軍は接敵するまでロンメルの第7装甲師団の位置を把握しておらず、さらにSSドクロ師団の存在にも気がついていませんでした。よってまさかアラス周辺でいきなり戦闘になるとは思っていなかったのでしょう。さらにフランクリン将軍が受けていた命令は反撃の足がかりとしてのアラス一帯の確保だけであり、それ以上の指示は受けていませんでした。よってその防衛に主眼を置いてしまったのかもしれませんが、それでも消極的過ぎるという批判は避けれないと思われます。
ただし、そこにイギリス遠征軍の虎の子部隊、第1戦車旅団が付けられました。これが攻撃部隊の主力と考えていいでしょう。ただし第1戦車旅団もまた配下の三個連隊(第4、7、8王立戦車連隊)の内、第8戦車連隊を本国に置いて来ていて規程規模の兵力を持ってませんでした。さらに整備不足のまま戦車に不向きな長距離移動で現地に駆け付けた結果、多くの故障車両を出してしまいます。このため実際に戦闘に投入された戦力はマチルダ I
(A-9)戦車 58両、マチルダ
II (A-12)戦車16両、その他軽戦車14両、合計88両だけでした(通常一個連隊で54両の戦車があったはずなので、本来なら軽戦車を別にして108両前後の戦力があった)。さらに言えば軽戦車は事実上戦力にならず、実質的には74両だけと言っていいものとなります。

わずか16両のみが投入されたマチルダ
II戦車。転輪まで装甲板で覆っているのが、この戦車の特徴の一つです。
とにかくあらゆる兵器に適当な名前を付けるイギリス人、この戦車もII号歩兵戦車 (Infantry Tank Mark
II)、マチルダII(Matilda
II)、マチルダ・シニアという幾つかの名称を持ちます。A12という開発番号もあるんですが、これはほとんど使われません。ちなみに先代のI号歩兵戦車がマチルダの名を持つので、この戦車はマチルダII、あるいはマチルダ・シニア(Matilda
senior)と呼ばれるのです。ただし電撃戦後、先代のIは使い物にならんことが判明して退役したため、以後は単にマチルダの名で呼ばれるのが一般的です。ちなみに歩兵戦車2号なのでMk.IIという表記ですが、マチルダとしては二代目となるので単にIIという表記になります。さらに歩兵戦車とは別に巡航戦車にもMk.I、Mk.IIがあるので、混乱しやすいのがイギリス戦車。とりあえず本稿ではマチルダII戦車の表記で統一します。
その強力な装甲と長砲身の2ポンド(40o)砲の武装により、恐らく電撃戦の時点では最強戦車の地位にあったのがこの戦車でした。フランスのシャールB1
bisも強力でしたが無駄にデカく取り扱いが面倒な上、側面の換気スリットという明確な弱点があったので、総合力ではこちらが上でしょう。
実際、僅か16両しか投入されていないのにも関わらず第7装甲師団を恐慌状態に陥れます。最終的に毎度おなじみ88oFlakが引っ張りだされ、何とか撃破に成功しますが、一時的にロンメル第7師団師団の右翼(連合軍から見て左翼)は突破され、危機的な状況に陥りました。余談ながらロンメルは後に北アフリカでこのマチルダ戦車相手に死闘を展開する事になり、バトルアクス作戦では88oの力を借りて60両を超える撃破を記録するのですが、最初の戦闘では大苦戦だったわけです。
ちなみに写真の変な迷彩はイギリス軍お得意の砂漠迷彩で、電撃戦時はもっと地味な塗装でした。
|