5月14日の始まり

13日16時に開始されたセダン地区におけるドイツ軍の渡河作戦は、一部で激戦になったものの橋頭保を確保した後は順調に進んでいました。日付が14日に変わった段階での状況を確認すると、このような感じです。



第一装甲師団と大ドイツ歩兵連隊はフランス第55歩兵師団司令部があったビュルソンの手前、シェエリーまで約8q進出していました。これは前回見たように第55歩兵師団の後方部隊が自主的に壊滅した結果です。この時、第55歩兵師団司令部は前線部隊に連絡なしで撤退してしまったので、残存部隊はありましたが組織的な抵抗はもはや不可能であり、それほどの障害にはなりませんでした。そして第1装甲師団の快進撃はこの日も続く事になります。

対して西の第2装甲師団は最初の渡河に手間取ったこともあり、渡河地点のドンシェリー地区(南岸も北岸も同じ集落)から動けていません。東の第10装甲師団は渡河地点より1q以上南下していますが、こちらもまだ一帯の敵を完全に掃討できず、さらにフランス第71歩兵師団の自主撤退から取り残された部隊が意外に頑強に抵抗したため、14日の朝になってからもやや進撃は停滞しています。

ちなみに全軍団の戦車はこの段階までに一両もマース川を渡河していません。朝7時に第1装甲師団からようやく渡河を始めるのです。ちなみに次回に見るように、これはフランス軍の最初の反撃に対してギリギリのタイミングでした。それでも一帯を掌握し、完全な橋頭保を確保したと見ていいでしょう。

5月13日夜から14日昼までのフランス軍

この間、フランス軍側はどこでどうしていたのか。ここで基本的な事を確認して置くとグデーリアン軍団を正面から迎え撃ったのはフランス第2軍に属する第10軍団の部隊でした(第55、71両歩兵師団は第10軍団の配下にある)。



何度も指摘しているように、フランス側の致命的な欠陥はその情報速度でした。13日朝からドイツ空軍が盛大にマース川対岸のフランス軍陣地を爆撃したのは既に見ました。驚くべきことに、40q程南に置かれていた第2軍司令部は16時過ぎ、ドイツ軍が渡河作戦を開始した段階でも、現地が爆撃されている事すら知らなかったとされます。当然、その上に位置するジョルジュ将軍のフランス北東方面司令部も、そして最高意思決定機関であるガムラン将軍のフランス軍最高司令部(GQG)もセダンの異変の詳細を知らぬままでした。念のため、連合軍の指揮系統も再度、確認して置きましょう。



前日からセダン地区にドイツ軍が現れていたのはさすがに最高司令部に情報が入っていましたが、ガムラン将軍も配下の幕僚もこれを真剣に検討した形跡がありません。あくまで敵の主力は北、ベルギー平野部のB軍集団、という先入観から抜けられなかったのでしょう。ちなみにこの13日、ガムランは総司令部のあったパリ郊外のヴァンセンヌ(Vincennes)城から東に約50qの距離に位置するラファ・テ・スジュアー(La Ferté-sous-Jouarre)の北東方面司令部(すなわちこれまたパリ近郊である)に赴き、ジョルジュ将軍に会っています。訪問理由は不明ですが、いずれにせよこの段階ではジョルジュ将軍も何ら情報を持っておらず、そのまま面談は終わってしまったようです。

最終的に最高司令部がセダンを突破されたと知ったのは21時、ほぼ日没直前だったとされます。ちなみにジョルジュ将軍がこの13日の22時ごろ「セダンが突破された。小さいものだが憂慮すべき事態だ」とのみ簡単な報告で終わらせたのは事実のようですが、フランス軍総司令部がどう受け止めたのかは良く判らない部分があります。この辺りの記述は、フランス側の史料とイギリス&ドイツ側の史料で食い違いを見せる部分です(ドイツ側&英語圏の史料ではフランスが何ら反応を示さなかった事になっているがフランス側の史料では必ずしもそうでは無い)。

ただし、この段階におけるフランス軍最大の過ちは、グデーリアン軍団の渡河を過小評価した事では無く、その目的が英仏海峡に向かって連合軍主力を包囲する事だ、と気が付けなかったことでした。次にこの点をちょっと詳しく見て置きます。

1940年5月14日 北緯49度41分

グーデリアン率いる第19装甲師団がマース川の渡河を開始してから24時間後、14日の16時までにフランスの敗北が決定的になります。グデーリアン軍団、そしてラインハルト軍団が英仏海峡に向けて快進撃を開始し、以後、最大の敵であるドイツ軍司令部と戦いないがら(笑)、連合軍主力の退路を絶ち、その完全包囲に持ち込んでしまいます。

ちなみに13日の段階でベルギー国内でロンメル師団もマース川渡河に成功してるんですが、この点はまた後で。

多くの史料が示すように、フランス側がその敗北を悟ったのは翌15日になってからでした。これはマース川を渡ったクライスト装甲集団が一斉に北西の海岸線に向かって疾走している事に気がついたからです(なぜかそこにロンメル師団が加わるのだが)。フランス側は13日の段階でドイツ軍のマース川渡河に気がついており、さらに14日の段階でこれが思った以上の戦力である事にも気がついてました。それでもまだ大丈夫、と思っていたのは、最高司令官ガムラン将軍を始めとして、ほとんど全員がドイツ軍はそこから南東の古都ランスを経由してパリを、少なくともフランス内陸部を目指すと考えていたからでしょう。そこには一定の予備戦力があり、脚止めなら十分に可能なハズだったのです。

既に触れたように古くはモルトケのプロイセン・フランス戦争(プロイセンは後にドイツ統一の核となる国)、そして第一次世界大戦と既に二度もドイツ軍はセダンを超えてフランスに侵入してるんですが、どちらの時もパリ方面を目指していました。すなわち南西方向に進むのがこれまでのお約束だったのです。このため、フランス側はセダンに現れた強力な敵部隊はパリを目指すと思い込んでいたように見えます。実際、一帯の防衛を担当していた第2軍はその予備戦力をセダンからランスに至る一帯に展開させていました。パリ方向に向かう敵を迎え討つ気だったからでしょう。ですが不幸にしてドイツ軍はパリに興味がありませんでした。そんなのは敵の軍隊を殲滅してしまえば、後からいつでも無抵抗状態で占領できるからです。

さらに第一次世界大戦の時の記憶から抜け出せていなかったフランス軍は、ドイツ軍の進撃速度は歩兵に合わせると思い込んでいました。グデーリアン軍団はどこかで歩兵との合流を待つため停止すると考えていたようなのですが、我らがグーデリアン閣下は歩兵など後から勝手について来いと北西方向に無停止爆走してしまうのです。これで連合軍主力は完全に背後を突かれる形になります。軍隊には攻勢方向があり、その裏面は極めて脆いのです。ボクシングの試合中、背後から相手のセコンドがバケツを持って殴りかかって来るようなもので、打つ手がありませぬ。



この点、フランスが勘違いするのも無理はない、という部分があるのも確かです。セダンからパリまでは200qほどしかなく、途中の都市ランスまでは100qほど。従来の戦争なら敵は首都包囲を目指し、その拠点にするためにランスを攻める、と考えるのは常識的には無理の無い話でした。マンシュタイン殿下は敵主力の背後に高速で至るため、この経路を選択したのですが、結果的にフランス軍に思わぬ混乱を引き起こしたわけです。

ただし包囲殲滅大好きなモルトケ&プロイセン軍参謀本部の思想を引き継ぐドイツ軍の作戦を知らな過ぎ、という面も否定できず、勉強不足の感はあります。ナポレオン三世はまさにこのセダンでプロイセンの超必殺技、鉄道による高速兵員移動による包囲殲滅で捕虜となっているのです。第一次世界大戦時にフランス軍は大規模な包囲殲滅を食らわずに終わってますが、東のタンネンベルクではロシア軍が人類史上最高規模の包囲殲滅戦をドイツ軍から食らいました。にも関わらず私が確認した範囲で、14日の朝までに北の連合軍主力が危ないと考えた人物はイギリス軍も含め見つけられませんでした(リデル・ハートを含む英語圏の皆さんの研究がピント外れなのはこの点を理解してないからだろう)。よって敵を知らな過ぎ、と言わざるを得ない面はやはりあるでしょう。何度も言いますが軍が馬鹿だと国が亡ぶんですよ。

このためドイツ軍がベルギー国境沿いに北西に進むと言う想定は全く成されていなかったのです。フランス北東方面の防衛陣地、要塞の火力は全てベルギー側を向いてますから、その背後を疾走する敵には無力であり、そもそも一帯の全軍は北のドイツB軍集団を迎え撃つためダイル線まで進出してしまってました。もはや連合軍真空地帯と言ってよく、ここに突っ込まれた段階で連合軍側に打つ手はありません。よってグデーリアンの目的に初めて気がついた15日になってフランス軍は自らの過ちと敗北を悟る事になるのです。
 


NEXT