■グーリエの舟橋

第55,71歩兵師団の自主的な潰走により、13日夜までにセダン一帯の防衛戦は崩れ去りました。さすがにフランス側も14日には反撃作戦を開始するのですが、それらは次回見るとして、今回は同日に行われた連合国による航空作戦を見てゆきます。対フランス電撃戦の中で連合軍最大規模の近接支援攻撃となったグーリエの舟橋空襲です。対空砲によって堅固に守られた固定目標を叩くのは極めて困難、というのが明らかになった作戦でもあり、後に全くを同じ地獄をアメリカの戦略爆撃部隊がドイツ上空で経験する事になります。



グーリエ(Gaulier)の舟橋は第1装甲師団の第1狙撃兵連隊が渡河した位置、すなわち最初に渡河が成功、一気に橋頭保を広げた場所に架設された舟橋です。恐らく最も早くから安全が確保されていた位置に設置したのだと思われます。ここに橋が出来た事でゴムボートでは運べなかった大口径砲、装甲車両が初めて渡河できるようになりました。ただし車両一台がようやく通れる幅しかなく、再び大渋滞が発生します。このため最初の戦車、第1装甲師団の戦車が通過したのは14日の朝7時を過ぎてからとなってしまいました。すなわち前回見たビュルソンの第55歩兵師団の壊滅時にはドイツ軍戦車はまだ一両も渡河していなかったのです。



■Photo:Federal Archives

14日朝にグーリエの舟橋を渡る第1装甲師団の装甲車両。影の向きからして対岸が南側。御覧のように大型の組み立て式ボートを並べて浮台とし、その上に橋を渡したものです。

北側に戻るオートバイ狙撃兵に続くのは、フランス軍のヘルメットを被っているので捕虜でしょう。ついにで朝とはいえ、5月14日でもコートを着ているのに注意。野営はそれなりにキツかったと思われます。

14日中にマース川に架けられた渡河橋はこれだけであり、三個師団の車両、大型砲はこの細い橋を渡って南岸に移動する事になりました。第19装甲軍団が持っていた戦車は850両、バイクを含む全車両は2万2千台とされますが、その大半が14日中にこの橋を渡っています(少なくとも戦車は600台が渡河していると思われる)。

ドイツがセダンを突破するのに必須の橋であり、これが破壊されたらグデーリアン軍団はここまでの快進撃にも関わらず進撃が停止してしまったでしょう。当然、これは連合軍から最重要攻撃目標とされ、14日を通じ電撃戦期間中、最大規模の航空攻撃が行われます。ダンケルク撤退戦、すなわちダイナモ作戦の方がイギリス側の投入した航空戦力は大きいですが、フランス軍も参加していた事、撤退作戦では無い事などから、これを最大の航空作戦と考えても問題は無いと思われます。

それほどの航空戦でしたが、実は今に至るまで完全に定着した名称がありませぬ。なので本稿では筆者が勝手にグーリエの舟橋航空戦の名称を与えてしまいます。今回の史料としてはもはや御馴染み、イギリスによる事実上の公刊戦史、「THE WAR IN FRANCE AND FLANDERS」と合わせ、フランス軍歴史資料室(Centre historique des archives/Archives de Vincennes)が保管するフランス空軍の史料を参照しています(ちなみにガムラン将軍の総司令部のあった土地、ヴァンセンヌにある)。ただしここの史料は日本から直接閲覧はできないので、現地研究者の皆さんが公開している文章からの孫引きです。

グーリエの舟橋航空戦 ドイツ側の事情

最初にドイツ側の事情を確認して置きましょう。前日、渡河開始の13日は空軍が全力でグデーリアン軍団、第19装甲軍団の作戦区域に殺到してくれました。対して14日は既に見たように、北のB軍集団を支援するロッテルダム爆撃を空軍が開始した事もあり、航空戦力の多くは別の地域に投入されてしまいます。実際、連合軍側の爆撃が最高潮に達した夕刻前後にグデーリアンは戦闘機による迎撃を要請しているのですが、ほとんど反応が無かったとしています。

ただし「電撃戦という幻」などによると、北に向かったのは爆撃機だけで延べ800機近い戦闘機がセダンに投入された事になっています。この点は、かなりの数の連合軍爆撃機がグーリエ橋に到達している事、グーデリアンは対空砲の活躍にしか触れてない事などから、そこまでの数の戦闘機では無い、と筆者は考えています。実際、この戦闘で大活躍する事になったのが当連載のもう一人の主人公、もはや御馴染み88oFlakでした。



ここまでは本来の目的とは異なる対要塞戦を中心に活躍する事になっていましたが、ここではその本来の任務、対空砲としてその真価を発揮する事になります。グデーリアン軍団には空軍から派遣された第一高射砲軍団(I Flak-Korps)の第102連隊(同軍団には第101、104高射砲連隊もあったがこの時点の所在は不明)があり、さらに各師団が持つ高射砲大隊三つも一帯に配備されました。計72門のこの88oに加え、さらに低空から侵入して来る敵を撃墜する20o機関砲(写真下の黄土色の機関砲)などが200門近くセダン一帯に設置されました。凄まじい対空砲網であり、普通に突っ込んだら生還は困難でしょう。実際、連合軍は記録的な損失を被り、第102高射砲連隊の指揮官はこの時の活躍によって騎士十字章を受ける事になります。

ちなみにこの14日の正午頃にA軍集団のボス、ルントシュテット上級大将がセダンを訪れています(恐らく例によってシュトルヒで)。この時、グデーリアンはこのグーリエの舟橋の上で周囲の状況を見ながら戦況報告を行い、ルントシュテットも上機嫌でグデーリアン軍団の戦果を称賛したようです。連合国側の爆撃が途絶えていた時間帯なんですが、それでも途中で橋から立ち去る事になっています。ちなみに「電撃戦という幻」によると敵からの空襲を見たルントシュテット上級大将が「いつもこんな状態なのか」と聞いて来たので遠慮せずに「そうです」とグデーリアンは答えたとています。ただし筆者の手元にある日本語版の回顧録にはそういった記述はありませぬ。というか、グデーリアン、確かに何度か爆弾落とされてますが、そこまででは無いと思うんですけどね。

ついでながら数学大好きだった参謀総長のハルダーに対し、このルントシュテットは推理小説好きで知られていました。そんな軍人が妙に多い気がします、ドイツ軍。

グーリエの舟橋航空戦 連合軍側の事情

お次は連合軍側の事情を、まずはイギリス空軍から。

ちなみにイギリス空軍の大陸派遣部隊は二つに分かれていました。理由は単純に馬鹿だからです。戦闘機部隊を中心に配下に置くイギリス空軍駐フランス司令部(British Air Forces in France/BAFF)と、主に爆撃部隊を配下に置く前線航空攻撃軍(RAF Advanced Air Striking Force /AASF)であり、共通の指揮系統を持ちません。両者は独立した存在としてイギリス遠征軍(BEF)全体の指揮官、ヴェレカー・ゴート卿将軍の指揮下に置かれました。今回の作戦で登場するのは当然、爆撃機部隊である前線航空攻撃軍(AASF)の方となります。

グーリエの舟橋の戦略的な重要性は明白でしたが、連合軍がどの段階でこれを認識したのか良く判りません。とりあえずイギリス軍は14日の早朝からこれを叩きに行き、午前9時の段階までに10回を超える攻撃を実施しています。グデーリアンによると朝から激しい爆撃を受けたと述べていますが、恐らくこのイギリス軍による攻撃でしょう。

朝の10回に渡る爆撃では一機の損失も出しておらず、当初、イギリス側には楽観的な空気があったようです。ただしグデーリアンによると前日の夜には高射砲部隊の配置を終えていた、としているので、よほど安全な高高度から適当に水平爆撃しただけで帰って来たのかも知れません。

イギリス側はこの後、特に戦果を確認するでもなく、以後、攻撃を止めてしまいます。爆撃を再開したのは午後になってからでした。フランス軍司令部から、セダン地区のドイツ軍橋頭保が拡大している、グーリエの橋を落として欲しいとの要請が来たのです。これを受けて再度、爆撃部隊が出撃します。気の毒だったのはこの間にドイツ側が濃密な対空砲陣地を築いてしまっていた点でしょう。この結果、午後からの出撃は惨劇に近い損失を受け、それでいて一発の命中弾も出せずに終わる事になるのです。

前線航空攻撃軍(AASF)は第71、75、76の三個飛行隊(Squadron )、計71機をグーリエの舟橋に向けて次々と送り出します。ちなみにイギリスの公刊戦史では各飛行隊の規模をより大きなWing(飛行群)と取り違えているので要注意。Squadron(飛行隊)単位です。この点、ちょっと考えれば気がつくとは思いますが。ついでに出撃回数(Sorties)を出撃機数と勘違いしてるのでこれも注意。誰だ、こんなヤツに戦史書かせたの…。

これらは双発のブレニム爆撃機と単発のフェアリー バトルの混成飛行隊だったのですが、ドイツ軍の高射砲陣地のど真ん中に突っ込む事になった結果、壮絶な損失を被ります。飛行隊ごとにその損失をまとめると、

 第71飛行隊  出撃  損失 
 ブレニム  8機  5機
 バトル  15機  10機

 第75飛行隊  出撃  損失 
 ブレニム  なし  なし
 バトル  29機  14機

 第76飛行隊  出撃  損失 
 ブレニム  なし  なし
 バトル  19機  11機

計71機を出撃させて、40機が撃墜されてしまった分けです。すなわち半分以上が帰って来れず、損失率は56.3%という航空戦史上でも稀に見る数字となりました。壊滅した、といっていいでしょう。驚いた前線航空攻撃軍(AASF)は以後、敵戦闘部隊への昼間爆撃を禁止としました。ちなみに14日の夜になってから、ブレニム機28機に護衛戦闘機を付けて夜間爆撃を行っています(ドイツ側の戦闘機を警戒したからで、一定の敵戦闘機による損失があったのだと思われる)。この時は5機が撃墜され、2機が帰還途中で不時着となり、損失は25%となっています(少ないように思えるがこれも凄まじい数字である。出撃ごとに25%を失うなら、28機×(0.75の10乗)、10回目の出撃まで生き残れるのは1.5機である。事実上、ほぼ生き残れないだろう。ちなみにこの日の総出撃機数、99機で計算すると10回目の出撃まで生き残れるのは5.6機である)。



■Photo:Federal Archives

この悲劇的な作戦に投入された二機種の内、双発の爆撃機だった方のブリストル ブレニム。加藤隼戦闘隊の加藤隊長機を撃墜した機体でもあります。昼間の出撃では8機中5機が失われ、62.5%の損失となりました。狂気に近い数字です。

ちなみに迎え撃った側であるグデーリアンはこの日、150機の敵機を撃墜したと述べていますが、さすがにこれは“自軍の戦果は現実の倍以上の法則”による発言で、実際はフランス空軍の1機を含めても48機、1/3ほどの数でした。また戦闘日誌を見ると橋は無事でしたが爆撃によって一定の人的損失も生じていたようです。

こうして地上部隊への攻撃は高くつとイギリス空軍は学びました。このためイギリスの前線航空攻撃軍(AASF)は、俺たちの本来の任務は戦略爆撃だったんだよ、とばかりに翌15日から16日にかけてルール工業地帯への爆撃を行っています。78機もの爆撃機を投入、これが連合軍による最初のドイツ本土への戦略爆撃だったのですが、当然、ほとんど何の効果も無く終わります。そりゃそうだ。

■フラン空軍の事情

ちなみにフランス軍がこの航空攻撃に参加したのは事実ですが、確認できる出撃は午前9時半、午後12時半、日没直前の三回のみです。この内、9時半の爆撃はセダン一帯への爆撃が目的でグーリエの舟橋を標的にしていません。目標をこちらにしたのは午後12時半と日没直前の出撃だけ。しかも最大規模の爆撃(4個飛行隊、恐らく18機を投入)だった12時半の出撃時には橋は落ちた、という誤報が入り現場が混乱、半数近くの機体が別目標に向かい、結局、橋を爆撃したのは10機のみでした(内1機のみ撃墜)。そして次の出撃は日没直前になってしまい、当然、そんな暗闇の中で爆弾落としても当たるはずがありません。

爆撃機8個飛行隊(Groupe de Bombardement)、GB I/12 、 II/12、I/34,、II/34,、I/38 、II/38、I/15、II/15を投入しながら(約40機前後だろう)、グーリエの橋に対する爆撃に成功したのは昼の10機と日没直前の2機、計12機のみだったと思われます。その代わり損害も少なく撃墜が確認できる損失は1機だけ、人的損失は5名のみでした。この結果、当然のごとく貧乏くじを引いたのがイギリス空軍でした。この辺り、フランス国内以上に、フランス空軍役立たず説がイギリスで唱えられている要因の一つでしょう。

さらに言うなら、戦後に公表されたフランス空軍の指揮官の回想録などによると、フランスの対ドイツ戦の間、一度も出撃要請を受けなかった、それどころから司令部に問い合わせても出撃の必要は無いと言われた、と言った証言が出て来ます。邪推するなら、イギリス空軍を磨り潰して自分の空軍を温存し、長期戦に備えたのではないか、とも考えられます。まあ、この時のフランス空軍の役立たずぶりはフランス人にも未だ謎らしいので、詳細は不明ですが…。

といった感じで今回はここまで。


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