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■アラスの前の静けさ
今回は電撃戦中最後の激戦であり、ロンメル率いる第7装甲師団にとって最悪の損害を被る事になったアラスの戦いに至るまでを見て行きましょう。
この連合軍の反撃作戦は準備不足、兵力不足から完全な失敗に終わるのですが、以後の戦闘の行方を大きく左右する二つの反応を引き起こしました。まず作戦が失敗した事でイギリスはもはや反撃を諦め、海岸から本国へ脱出する作戦にその軸足を移し始めます。一方でドイツ軍の上層部(ヒトラーを含む)に恐慌状態を引き起こし、これが後のダンケルク手前の一斉停止命令に繋がるのです。すなわち実際の戦果は無かった、戦術的には敗北だったのに、意図せぬ形で連合軍側に戦略的な勝利を引き寄せてしまう結果となります。
この戦いが発生する過程を理解するには、北の連合軍主力がフランス北部平野部の東端に位置するアラス〜コムブヘィ(英語読みでカンブレー)一帯で南下しようとした意味をまず知る必要があります。同時にこれこそが、ドイツ上層部が最も恐れていた事態だったわけです。簡単な図にするとこんな感じですね。

まずは基本の部分の確認から。マンシュタイン&グデーリアンの銀河史上最強頭脳コンビが考えた作戦は単純明快なものでした。
囮役のB軍集団が北のベルギー平野部に盛大に侵攻、連合軍主力をおびき出し、これを戦闘に巻きこみ現地に拘束します。その間に南のA軍集団から強力な火力と高速移動能力を持つ機械化部隊が突出して連合軍主力の背後に回り込み、これでフランス本国との連絡、補給を断ちます。同時に連合軍の攻撃方向はB軍集団側に集中しているため、そのガラ空きの背後を襲う事ができるのです。形としては左右からの挟撃ですが、北は海、南は丘陵地帯で逃げ場が無く、事実上の包囲殲滅戦でした。成功していたら連合軍主力はその大半が捕虜になっていたでしょう。
見事な作戦ですが同時に誰もが直ぐに気が付く欠点がありました。ドイツ側の機械化師団はA軍集団主力から大きく離脱するため、その背後がガラ空きになるのです。この一帯に敵が回り込むとあっさり補給を断たれ(機械化師団に燃料、弾薬の補給は必須である)、さらに敵から逆に挟撃される形になり、強烈なカウンターパンチを食らってしまうのです。マース川を突破された後、連合軍側首脳陣は間もなくこの条件に気が付き、イギリス本国にあったチャーチル&アイアンサイド、フランスでは最高司令官のガムラン、それを引き継いだヴィゴンが同じような反撃作戦を計画します(ただしフランス案は南側からも同時に反撃開始を目論んでいた)。結局、ガムラン案はヴィゴンが廃棄、同じような内容だったヴィゴン案は既に見たビヨット将軍の事故死で詳細不明になって決行されずに終わりました。このためチャーチル&アイアンサイド参謀長によるイギリス案だけが実行される事になります。ただし、そのイギリス案も実行までにドンドン内容が後退して行くのです。この辺りは現地の状況が判らないままイギリス本国で立案された計画が、現実に即して縮小されまくった結果でした。
まずは戦時内閣が決定し、アイアンサイドに託して現地で指揮を執らせた作戦、A号指令
(Order
A)の内容を確認して置きましょう。これは「アラス一帯から敵装甲師団の後方へ回りこんで補給、連絡を断ち、アミアン付近まで南下しドイツ機械化師団の背後を断て、同時にフランス本国との連絡路を確保せよ」という物でした。逆包囲については明確な指示がありませんが、これは作戦の第一段階で、その後フランス軍と協力して改めて挟撃に入る予定だったからだと思われます。ところが現地の状況はイギリスの戦時内閣が考えていた以上に混乱し、かつ状況は悪化していました。このため作戦内容は縮小され続け、最終的にはアラス周辺を掃討して一帯の安全を確保、以後の反撃に備える、といった程度になってしまいます。そして、それですら失敗に終わるわけです。
そもそこもアイアンサイドがフランスに入った20日朝の段階でフランス軍戦車師団はド・ゴールの第4装甲師団を含めて全て壊滅済み、もはや小型戦車を持つ師団しかなく、それすら完全な状態を維持できていませんでした。イギリス側も限られた戦車部隊しか持っていませんから、ドイツ側の装甲師団に抵抗するのは現実的には不可能だったのです。低速の歩兵部隊ではドイツ装甲師団の背後に回り込んでも追いつけず挟撃に持ち込めませんし火力でも圧倒されてしまいます。少なくともドイツ側の補給路は断てるでしょうが、この段階では後三日もあればドイツ機械化師団は連合軍主力のケツに突入できました。補給路の切断はそこまでの致命傷にならず、さらに言えば制空権も取られてますから、燃料だけ空輸という手段もありました(実際、高速で進む装甲師団に追いつくためドイツ側はこれをやっていた)。すなわち、そもそも成算の無い戦いだったのです。
さらに言うなら宇宙最強のマンシュタイン&グデーリアンコンビは、当然、その欠点に気付いており、その上で問題無いと判断していたわけです。なんで、と言えば、既に見たように地形がその盾になるからです。ここで24日ごろまでのドイツ機械化部隊の北上経路と地形図を見て置きましょう。

この進撃の直前、アラスの戦いがあった21日までにフランス北部の平野部、ざっと100q前後幅の一帯には9つの装甲師団、さらに最低でも5個の自動車化歩兵師団が既に入っていました。まさにドイツの機械化部隊で這い出る隙間も無い状態と思っていいでしょう。その平野部の西は海で、戦車も歩兵も沈みますからこの方面からの連合軍の反撃はありえませぬ。そして東の黄色部分は丘陵地帯で一帯を南北に繋ぐ道路は数本しかなく、これさえ封じてしまえば大戦力の移動は不可能でした。よってコムブヘィより東では北の連合軍主力による反撃は有りえず、そこから西に出た後は素早く平野一帯に展開し連合軍主力がドイツ装甲部隊の間隙を突くのを封じてしまったのです(グデーリアンがソンム川沿い一帯でかっ飛ばしたのはこれが理由だろう。ソンム川が障害となり南からの脅威は無視でき、さらに高速展開して隙間を埋めてしまえば北から背後に回り込まれる余地も無くなる)。この陣形のどこから背後に回り込めるんだ、という状態でしょう。
そもそも既にベルギー国内では、B軍集団が連合軍主力を戦闘に巻き込んで拘束中なのです。その状況の中、18日から20日朝までダイル線から西に約40q、スヘルデ川(エスコ―川)流域への不眠不休の撤退を行い、これによって連合軍側は疲労困憊状態に追い込まれていました。そこから南下しての戦闘なんて無茶な相談だったのです。実際、イギリス側も僅か2個機械化歩兵師団+1個戦車連隊しか投入できず、フランス側は虎の子の兵力、プリウー騎兵軍団(12〜15日にダイル線一帯でドイツ側第3,第4装甲師団と死闘を繰り広げたあの部隊)を投入するのですがイギリス側の作戦開始に間に合わず、各個撃破&ドイツ側の航空攻撃の前に敗退します(そもそもイギリス軍はアラスを、フランス軍はその東約35qのコムブヘィ一帯を目標にしており、貧弱な戦力がさらに分散されてしまっていた)。
さらにドイツ側の進撃速度を甘く見ており、同時にまともに一帯の情報を集めて無かった、すなわち「観察」が疎かにされていました。既にアラスに接近中だったロンメルの第7装甲師団&追いついて来たSSドクロ師団の存在に司令部は21日になるまで気が付いておらず、さらに言えばドイツ戦車&機械化歩兵の目撃情報を入っていたのに無視した形跡があります。余談ながら危険を冒して航空偵察もやったらしいのですが、命懸けで撮って来た写真に写った軍勢がドイツ軍かフランス軍か判別がつかない、最悪の場合、避難民なのか軍隊なのかも判らなかった、という想定外の状況で役に立ちませんでした。そういう識別訓練をやって無かったのでしょう。この辺り、イギリス軍もまた、既にOODAループの「観測」段階で勝負になっていなかった、という事になります。
といった辺りがアラスの戦いに至る前提条件です。
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