アラステキ

アラスの戦いに関するイギリス側の記録では「戦時内閣の意向」を受けたアイアンサイド参謀長が現地に飛んで作戦を主導した、とだけ述べられているのが普通ですが、本来、イギリス遠征軍指令官であるゴート卿の頭越しに作戦を指揮する権限を参謀長は持っていません。その権限を持つイギリスの戦時内閣にあって軍の作戦に介入、作戦まで立てちゃう人物はチャーチルしか居ませんから、これが首謀者と見ていいでしょう。作戦は失敗に終わるので、本人の著作では例によって一切、触れられてませんけども。

ちなみに16日の段階でチャーチルが現地に送り込んだ連絡担当、ジョン・ディル副参謀長はフランス軍の最高司令部、すなわちパリ周辺に居たため、この作戦にはほとんど関係していません。

そのイギリス側が動き出したのはドイツ軍が海岸線に到達する前日(厳密には前々日)、5月19日の段階でした。ダイル線からの撤退で疲労困憊したイギリス遠征軍にはもはやドイツ装甲部隊へ攻勢を掛ける力はない、海岸線への撤退を検討すべし、との報告が現地で指揮を執るゴート卿から戦時内閣宛てに提出され、議論を引き起こしたのです。徹底抗戦派のアイアンサイド参謀長がこれに反対、チャーチルが同調したとされますが、アイアンサイドにそこまで強力な権限は無いので実際はチャーチルが主導した可能性が高いと思われます(ただしチャーチルは同じ19日からダイナモ作戦、ダンケルクの奇跡に繋がる海上作戦の準備も始めているから、積極作戦一辺倒というワケでも無かった)。

このため急ぎフランス軍総司令部に居たガムラン将軍宛てにチャーチルが至急電報を送り付けます(既に見たようにヴィゴンの到着が遅れており19日の夜まではまだガムランが指揮を執っていたらしい)。その中でコムブヘィ地区から西に出たドイツ装甲部隊はA軍集団から切り離せる、南下して攻撃するべきだ、と進言しており、この段階ではイギリスが主導する気は無かったようにも見えます。その後、19日夕方から開かれた戦時内閣による会議でA号指令 (Order A)作戦が決定、この指令を持ってアイアンサイド参謀長は翌20日、現地に飛ふ事になったのです。

ただし、この作戦は既に実行不可能だった、という点を以前に見た20日夜までのドイツ装甲師団進出図で再度確認して置きましょう。



19日にはグデーリアン配下のドイツ第1装甲師がソンム川沿いのペロンヌに進出、そのままアミアンへと向かい、翌20日の朝に攻撃を開始していました。その北側にはラインハルト軍団の第6、8装甲師団があり、第3、第4装甲師団も一帯に急行中でした。すなわち、イギリス軍が準備できた貧弱な兵力でアラスからアミアンまで進撃するのは既に事実上不可能だったのです。もはやドイツ装甲師団が密集する一帯に突入する自殺行為であり、ソンム川に到達する事は出来なかったでしょう。

この点、ドイツ軍の9個装甲師団がフランス北部平野一帯に入りつつあること、それがペロンヌ周辺まで既に到達した事を、既に18日深夜の段階でゴート卿はフランス側から知らされていました(その情報を受けて戦時内閣に撤退を進言したと思われる)。さらにアラスが20日の段階で攻撃を受けたという報告も21日朝までには遠征軍本部届いていたとされます。よってそう簡単には突破でき無い事をイギリス軍は知っていたはずなのですが、なぜか作戦は決行されてしまうのです。この辺りは、アイアンサイド参謀長の暴走ではないか、と個人的には考えております。



20日の朝に現地に飛んだイギリス陸軍参謀長、アイアンサイド将軍。叩き上げの軍人に多い喧嘩っ早い短気な男でした。その性格が災いしてフランス軍司令部と激しく対立、後にヴィゴンからは名指しで批判されています。そもそもチャーチルもそれほど信任しておらず、このため作戦失敗後の5月25日に辞任を申し出て参謀長の地位を去る事になります(事実上の更迭)。その一方で、直ちに本土防衛軍(Home Defence )の指揮官に任命された上、元帥への昇格内定を与えられており、チャーチルも気を使っているのが伺われます。ただし、その本土防衛軍司令官も僅か二か月後に更迭されていますから、余程敵が多い人物だったのでしょう(その後、約束通りに元帥に昇格したが速攻で退役するハメに追い込まれ、以後、事実上軍から追放されたような状態で終戦を迎える)。まあ、軍人としては普通に二線級の人物で、アラスの戦いに関わらなければ、この記事で取り上げる事は無かった人ですね。

そのアイアンサイド参謀長は20日朝早くからフランスへ飛び、8時にはイギリス遠征軍の司令部を訪れゴート卿と面談しています。ここでゴート卿は予備戦力は無く、その作戦は不可能だろうと述べたようですが、命令とあっては逆らえませんでした(ちなみにB軍集団に追われながらエスコ―(スヘルデ)川へ撤退戦中のイギリス遠征軍は大混乱の中にあり、その報告が殺到している最中だった。それでもアイアンサイドは作戦を止めなかった)。

ただしイギリス遠征軍はその背後をドイツ装甲部隊に突かれる危険性には気が付いており、第5歩兵師団の指令官、フランクリン(Harold Franklyn)将軍を指揮官に抜擢、自動車化歩兵師団二つ(第5、第50歩兵師団)と一個戦車旅団(第1戦車旅団)を与え、アラス周辺に移動するように命じてありました。後にフランク部隊(Frankforce)と呼ばれる集団ですが、両歩兵師団は配下部隊の貸出等で正規戦力は保持しておらず、実際の兵力は遥かに小規模でした。第1戦車旅団は一定の戦力を持っていたたものの、配下の三個連隊の内の一つを本国に残したまま、しかも現地への長距離移動で戦車に故障が多発してしおり、これも強力な部隊とは言い難いものでした。それでもこれ以上の戦力を割く余裕はイギリス遠征軍には無かったのです。この部隊を反撃に利用する事をゴート卿が申し出て、アイアンサイドはこれを受け入れます(アラスに守備隊もあったが予備兵力の寄せ集めで戦闘にも参加していない)。

同時にゴート卿は遠征軍だけでは戦力が足りない、フランス側の協力が不可欠と述べたため、次にアイアンサイドはフランス第1軍集団の司令部を訪問、ビヨット将軍にその支援を要請します(すなわち現地指揮官のゴート卿の頭越しに作戦の指揮を執り始めている)。ただしフランス軍も大混乱の中にあり、さらにヴィゴンの訪問を翌日に控えていたため、ビヨット将軍は独断では動けず、あまり協力的では無い様子でした。これを見て短気なアイアンサイドが激高、ビヨット将軍の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけてしまったのです。これでフランス側とは一気に険悪な雰囲気になるのですが、最終的にビヨットがパリに居るヴィゴンに電話をかけ、承認を得る事でその協力が決定したのでした。この点、フランス側も攻勢の準備をしていたようで(ガムラン案の影響か?)、虎の子のプリウー騎兵軍団ををアラスの東、コムブヘィ付近に移動させる予定となっており、その投入が決定されたようです。

ちなみにアイアンサイドは自分からもヴィゴンに電話を入れ、わざわざフランス軍が非協力的な事を非難しており、これで英仏間の空気は最悪な状態になってしまうのでした。チャーチルが速攻でこの男をクビにしたのも無理のない所でしょう(作戦から僅か4日後の25日に事実上の更迭)。実際、これ以降はまともな協調体制は取られなくなってしまいます。

この決定を受けたイギリス側の作戦指揮官、フランク部隊を率いる事になったフランクリン将軍は20日の内にフランス側の主力、プリウー騎兵軍団の指令部を訪問し協議に入りました。フランス第1軍指揮官のブロンシャー(Blanchard)将軍、さらに途中から第1軍集団のビヨット将軍も参加したようです(第1軍集団の配下にあるのが第1軍。ちなみにブロンシャー将軍はビヨット将軍の事故死後、第1軍集団の指揮官となるが正式な辞令が出るまで三日近く掛り、結局、何も出来ずに終わる)。

幸い、アイアンサイドと違って常識的な人物だったフランクリンは冷静に話し合いを進めます。最終的にフランス側はコムブヘィ周辺で歩兵二個師団とプリウー騎兵軍団を中心に独自の反撃作戦を行う、アラスにはプリウー配下の第3軽装甲師団から応援を出す、という辺りで話がまとまったようです。ただし不幸にしてイギリスの反撃作戦は「21日決行」ではなく「21日以降に開始」とフランス側に伝えられており(アイアンサイドの間違いではなくフランス側の勘違い説もあり)、この誤りは最後まで修正されませんでした。このため、両者の足並みは揃わず、結果的に戦力の分散投入という最悪の事態を招いてしまいます。

さらにこの時、フランス軍の悪癖、戦車と見れば支援火力としか考えず、プリウー配下の軽戦車部隊からこれをかっさらって行く歩兵師団が続出していました。このため今回もその再結集に大幅な時間が掛かってしまい、これも作戦開始の遅れの要因となっています(騎兵軍団に返還しなければ軍法会議と脅してまでして、ようやく取り戻した)。

それらもあってフランス側の協力は最低限で終わるのですが、その辺りも含めて詳細は次回に見ましょう。今回はここまで。



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