13日のフランス軍

前回は5月13日16時から始まったグデーリアン軍団こと第19装甲軍団によるマース川渡河作戦の状況を見ました。

第2、第10装甲師団が激しい反撃を受けて苦戦したものの、日付が変わった14日の0時頃までには歩兵部隊のほとんどがマース川の南岸に渡河して(ただし一番渡河が遅れていた第2装甲軍は14日朝になってもまだ歩兵部隊の渡河は終わって居なかった)一定距離まで侵出、橋頭保の確保に成功しています。この状態ですね。



ここに至るまで、グデーリアン軍団はトーチカ希薄地帯を突破した部隊以外、渡河中&渡河後にフランス軍と激しい戦闘になっていました。ところが敵の防衛線を突破して背後に出て見ると、ほとんどまともな反撃を受けず、それどころか一帯にはフランス兵の姿すら無いのを発見します。それまでの抵抗の激しさに比べ、あまりに対照的だったのでドイツ側は当初、敵が有利な土地に誘い込むため罠を張っているのではないか、と疑いました。

ところが現実には辺り一面どころかさらに8q近く先までフランス軍はキレイに消えて無くなっていたのです。驚くべきことに、一帯を守っていた第55歩兵師団の後方部隊、そしてその東、右翼を守る第71歩兵師団までが、まともな戦闘を一度もしないまま既に潰走済みでした。このフランス軍第55歩兵師団と第71歩兵師団の崩壊が、集団の高速OODAループ運用で敵にパニックを引き起こし、闘わずして壊滅させる電撃戦の本格的な始まりでした。その辺りの状況、一体全体、何が起きていたのかをまずは見てゆきます。

第55歩兵師団

一帯を守っていたのはフランス第2軍の第10軍団に属する第55歩兵師団でした。さらにその東、右翼には前日の12日から第71歩兵師団が入っていたのは既に見た通りです。一線級の部隊ではない二個歩兵師団でグデーリアン率いる三個装甲師団+一個歩兵連隊相手にするのはそもそも無理があったのは事実だと思います。ですが一帯にはトーチカを始めとする陣地があり、さらに砲火力ではフランス側が圧倒的でした。少なくとも一定の脚止めは出来たでしょう。ところがこの日、グデーリアン軍団の渡河作戦開始から2時間後、18時頃には第55歩兵師団の後方部隊は既に崩壊、敗走が始まっており(当然、セダンの防衛線ではまだ戦闘続行中)、最終的には日没の21時頃までに東の第71歩兵師団まで巻き込んで一帯のフランス軍は大潰走状態になります。この結果、グデーリアン軍団の進む先は完全に非武装地帯になり、この日の深夜までにはセダンから8q南の一帯まで進出してしまいます。ちなみに1940年5月13日の月齢を計算すると5.6、三日月だったので月灯りはほとんど使えなかったはずで、盛大に車両のライトを点けての進撃だったと思われます。夜間ではいい的ですが、フランス軍真空地帯を突破する形になったため、ほとんど攻撃は受けなかったようです。

このフランス二個師団の大潰走は、未だに一切の戦闘が発生してない地帯で起こりました。21時過ぎの日没の段階まで、ドイツ軍はセダン対岸一帯のフランス軍部隊相手に戦闘中であり、一帯から8q近く南に居た第55歩兵師団の後方部隊まではまだ距離がありました。当然、ドイツ兵は一人として一帯に侵入していません。同じく東側の第71歩兵師団の担当地区に達した部隊もありません。すなわち前線部隊の戦闘中、後方部隊が全く戦闘をしないまま、潰走してしまったのです。

ワケが判らん、と言う他ない事態ですが、その謎の潰走が始まった13日18時ごろの状況は以下の地図のような状況でした。



18時の段階のドイツ側は、第2装甲師団がようやくマース川河岸に到着したものの敵の砲撃で全く動けず、第10装甲師団の第86狙撃兵連隊も最初の工兵小隊がようやく対岸に張り付いた段階でした。すなわち第1装甲師団の三個連隊だけが対岸に上陸、前進中という状況です。対してフランス軍の状況としては、第55歩兵師団の主力と言っていい三個歩兵連隊(その内一つは防衛戦闘専門の要塞歩兵連隊)と一個機関銃大隊がセダン周辺のマース川沿いで戦闘中でした。

この時、ラフォンテヌ(Lafontaine)将軍が率いる第55歩兵師団の司令部はセダンから約8q南の集落ビュルソン(Bulson)の南に位置する森の中に置かれ、予備戦力の一個連隊、第295歩兵連隊がその付近にありました。さらに師団唯一の砲兵連隊、第169砲兵連隊がビュルソンの集落周辺に展開しています(英語圏の史料だと第45砲兵連隊とする物があるがフランス語圏の史料で見る限り第169が正しい)。これらの後方部隊は前線から直接砲弾が飛んでこない安全な距離に配置されて居たのです(8qは大口径の野砲なら余裕で射程距離内だが正確な位置がバレてない限り狙われる事は無い)。そして司令部一帯のすぐ東に、第71歩兵師団担当地区との境界線がありました。

この後方にあった師団司令部と砲兵連隊、予備戦力の歩兵一個連隊が、3日の18時ごろ、戦わずして突如、潰走を初めてしまうのです。

■フランス軍の指揮

前線から距離を置き、安全な場所に指令部を置くのはドイツ軍も全く同じで、グデーリアン軍団、第19装甲軍団の指揮所は13日から14日にかけて、セダン地区から北東約8qのラシャペル(La Chapelle)に置かれたままでした。ただしフランス軍との決定的な違いとして、軍団長のグデーリアン閣下はほとんど軍団司令部に居らず、常に前線付近に身を置いて情報を集め「判断」を下し、必要な命令を無線機を積んだ戦闘指揮車両から飛ばしてました。軍団長がこれなんですから、師団長、大隊長級の皆さんも最前線に出て戦況をいち早く理解し指揮するのが当たり前でした。すなわちOODAループにおける「観測」を無数の指揮官が行い、その数と同じだけのOODAループが戦場でブン回っていたのです。その処理速度は圧倒的でしょう。



そもそもOODAループというか、基本的な人間の行動として、状況を観測しないと確かな事は何もできません。左から車が来ないかを確認せずに毎回車道に飛び出していたら、いずれ確実に死ぬでしょう。ところがフランス軍の指揮官は戦線後方の司令部、安全な土地で十分な防御が施された陣地から一歩も出ませんでした。軍、軍団長はもちろん、師団長級でも筆者が確認できた史料の範囲で、自ら前線出でて指揮を執った指揮官は確認できませんした。皆で漫画に出てくる軍師のように、本陣で指令を出した後は戦況報告を待つだけなのです。この辺りは無線装備が不十分だったフランス軍の事情もあるでしょうが、それでもお粗末な印象は逃れられませぬ。

既に見たようにグーデリアン閣下は機甲部隊に無線装置を大規模に導入、自らの命令をすぐさま通達させ、司令部の外に出ても指揮を可能としました。さらに一日に何度も自らが前線付近に出たり、配下の各師団司令部を訪れ戦場の状況を確認して居ます。これによって常に最新の「観測」を得てからOODAループが回され、次の「行動」=指令が決定されました。同時に最前線の現場指揮官が目の前の状況に合わせて独自にOODAループをブン回しています。対してフランス側は最新状況が全く判っていないガムランの総司令部から命令が来て、それに合わせ軍団、師団司令部が作戦立案のOODAループを回すだけです。しかもその判断材料は分刻みで変化する最新の前線の情報ではありませぬ。「行動」を決定する情報処理速度、そしてその「判断」の正しさに置いて全く勝負にならぬ、というのが理解できるでしょう。そりゃ勝てないよ、という話になります。



■Photo:Federal Archives


ちなみに余談ですが、日本語史料でよく見られるグデーリアンのあだ名「韋駄天ハインツ」はSchneller Heinz、高速のハインツの意訳ですが、これ英語圏の史料ではよく見るものの、ドイツ語圏の史料ではほとんど見てません。ホントにこんなあだ名があったのかね、という気がしなくもなく。


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