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■フランス側の事情
ではお次に本来の当事者であるフランスの状況を確認して置きましょう。クライスト装甲集団によるセダン突破後のフランス政府と軍部の混乱は既に見ました。首相であるレイノーが軍部の無能に怒り爆発、18日の段階で国防相のダラティエごと首脳部の一斉更迭を行ったのです。驚くべき事にこの大混乱はドイツ軍の海岸一帯への到達が成された20日になっても続いていました。それどころか21日のアラスの戦い至ってもフランス軍の最高司令部は何ら機能してません。アラスの戦いはイギリス側の提案と主導で現地のフランス軍を巻き込む形で決行されたのです。新たにフランス軍総司令官となったヴィゴン将軍は連絡を受けてはいましたが何ら作戦に関与していなかったのです。この辺りの状況を確認して置きましょう。

新たにフランス軍の最高司令官に任命されたヴィゴン将軍(Maxime
Weygand/よく見る日本語表記ウェーガンは英語読みで誤り)。ちなみにこの段階で既に73歳、ガムランより7歳ほど年上でした。写真は参謀長就任時、1930年ごろの撮影なので、電撃戦時はもうちょっとお爺ちゃんでした。
ヴィゴンは第一次世界大戦の時、フランス軍の参謀として活躍した人物であり、ガムランの前任のフランス陸軍参謀長(Chef
d'état-major de l'armée de
terre)でもありました。ただしフランスらしい政治的なゴタゴタで1930年1月から僅か1年の在任期間で終わっています。対して後任のガムランは以後、電撃戦に惨敗するまで9年以上、その地位にありました(ちなみに第3、4,5全ての共和制における参謀長の最長在任記録である)。いかにも両者に確執がありそうな関係ですが特に対立があった、という話は見つけられず。その後、1935年に一度軍を退役したのですが、1939年、第二次大戦開戦直前に軍に呼び戻され、フランス軍中東方面(Levant)の責任者としてレバノンのベイルートに派遣されていました。ちなみにこの大混乱時、ガムランは最高司令官からは外されたものの、どうやら参謀長からは解任されてないらしいのです(第3共和制時代の参謀長は記録上ガムランまでで終わっている)。よってヴィゴンは参謀長の肩書を持たないままフランス軍の最高司令官になった可能性が高いです。陸海空全軍の指令官なので、陸軍参謀長の肩書は必須では無かったのでしょうかね。
とりあえずヴィゴンは18日にガムランの後継に指名された時、パリどころかフランスに不在でした。その帰国は天候の問題もあって19日の深夜になってしまいます。そして国外に居た事もあって、不幸にしてヴィゴンは戦況の緊急性が全く理解できていなかったのでした。そもそも第一次世界大戦世代の軍人であり、1935年で一度軍を退役してますから、ドイツ側の高速電撃戦を理解する能力は無かったとも思われます。このため翌20日から総司令官としての職務を開始しながら、クライスト装甲集団&ロンメル第7師団にケチョンケチョンにされて崩壊しつつあった第9軍、さらには北部で包囲されつつあった連合軍主力に対し、何ら対策を行いませんでした。少なくとも20日までの段階では前任者ガムランが準備した反攻作戦計画を破棄した以外、何かした様子がありません。それどころか、20日は丸一日かけてフランス政府関係者へのあいさつ回りをやっていたらしいのです(内相だったモンデル(Mandel)などとの面談記録が残っている)、これでこの日は終わってしまったようです。その間にドイツ軍は英仏海峡の海岸に到達、包囲された北部の連合軍主力はスヘルデ川(エスコ―川)
への撤退戦の大混乱の中にありましたから、最高司令官がこれではもはや絶望しか無いと言っていいでしょう。
ちなみにこの20日の朝、本国からイギリス遠征軍の本部に飛んできたアイアンサイド参謀長はこういった状況を知り、さっさとフランス軍総司令部を見限ったようです。このため、翌日のアラスの戦いはアイアンサイドが主導し、ヴィゴンが北部の連合軍指揮官を集めて会議中に、それを無視する形で決行される事になります。
翌21日、ヴィゴンは包囲された連合軍主力部隊の指揮官達と面会するため現地に飛びます。フランス第一軍集団の司令官であるビヨット将軍、イギリス遠征軍のゴート卿、そしてベルギー国王と政府関係者に会うためです。そしてこの面談が終わるまで、何もする気が無かったのは確かです。いや、ホントに絶望しか無いんですよ、フランス軍。この間にもA軍集団は海岸沿いの平野部に続々と集結しつつあり、北のB軍集団は連合軍主力の追撃戦に入っていたのですから。
ここで再度、電撃戦開始時の連合軍側の指揮系統を確認して置きましょう。ちなみにベルギー軍は独立した指揮系統を持っており、フランス軍とは連絡を取りながらも、完全な指揮下には置かれていなかったようです。

総司令官のガムランと同時に、副司令官&北東方面軍司令官のジョルジュ将軍も解任された、とする資料がある一方で、例のディル副参謀長は20日頃、ヴィゴンとジョルジュ将軍に面談したという報告を戦時内閣に出しており、どうもハッキリしません。ただいずれにせよ、北東方面軍司令部は現地と連絡を断たれた後、重要な役割を果たさなくなるので、この点は考えなくていいでしょう。
この段階で連合軍主力を指揮していたのは、現地に司令部があった第一軍集団のビヨット将軍でした。ただし第一軍集団配下の第9軍はクライスト装甲集団とロンメル第7師団によって既に壊滅に追い込まれ、第2軍はゴタゴタな上に南方にあって連絡が断たれてしまっていました。よってその戦力は第1軍のみです。ちなみにイギリス遠征軍もその配下に入ったらしいのですが、以降はほぼ独自の行動するので、あまり意味は無いでしょう。
21日、ヴィゴンはそのビヨット将軍の司令部に向かったわけですが、陸路は既に断たれており、飛行機で飛ぶことになりました。ところがフランス北部の制空権はドイツ軍が掌握しており、その飛行は大きく海側に迂回、さらにアラス近郊で既に戦闘が始まった事もあって着陸地点まで変更されてしまいます。当初はアラスの北西約40kmにあるノホ・フントゥ(Norrent
Fontes)に朝9時に到着する予定だったのですが、より北部のカレー近郊の飛行場に変更されます。さらにそこからの南下はあきらめ、75q近く東に位置するベルギーのイープル(Ypres)でビヨット将軍とベルギー政府関係者と会う手配を行うのです(既に見たように避難民で溢れる一帯の移動は一苦労だったはず)。このため、その会議の開始は15時となってしまいました。これはアラス一帯で激戦が行われていた真っ最中であり、すなわちその段階でも、連合軍最高司令官は開始時間が遅れまくっていた関係者との面談に向かう以外、何もしていないのです。
さらにこの訪問に関して、イギリス側の指揮官であるゴート卿は当日の朝まで知らず(前日中に通達が届かず、当日になってから連絡に成功した)、しかも電文には「翌日」到着、とだけあったので余計な混乱が生じます。それでもこの日の午後にはノホ・フントゥの近くにあったプメスク(Premesques)の集落まで移動し、ヴィゴンを待つ事にしたようです。ところが今度はフランス側がこの移動を知らず、イーブルでの会議に呼び出すための捜索に手間取る事になります。そして最終的に連絡が付き、彼が到着した段階でヴィゴン将軍は既に現地を離れて居ました(ヴィゴンは17時ごろに離脱したので、ゴート卿の到着はその後となる)。すなわちこの日のゴート卿は一日かけて一帯を駆け回るだけで貴重な一日を潰されてしまった事になります(この間、イギリス軍部隊の指揮は現地にあった参謀長、アイアンサイドが執っていたと思われる)。
この段階でヴィゴンはドイツ装甲部隊への反撃作戦の構想を持っており、現地で説明を行うつもりでした。ところがゴート卿はその話を聞くことが出来ず、ベルギー軍はヴィゴンとの協議でドイツB軍集団を抑える守備に回る事になりました。すなわち反撃作戦の詳細を説明された現地指揮官はビヨット将軍ただ一人となってしまいます。ところがそのビヨット将軍は会議から急ぎ司令部に戻る途中、現地の混乱した交通状況の中で事故に巻き込まれ重傷を負ってしまいます(二日後に死亡)。すなわち反撃作戦の内容を知る現地指揮官は誰も居ないという、悲劇を通り越してもはや喜劇と言うべき状況となるのです。当然、以後、ヴィゴンの反撃計画は何ら進展しないままで終わります(ちなみに将軍階級の交通事故による死去は後のパットンなども含めて決して少なくない。個人的には実態はほとんどが他殺か自殺で、軍が交通事故として発表しているだけだろうと思っている。この時のビヨット将軍も完全にノイローゼ状態だったらしいので自殺の可能性は否定できないと思う)。
さらに急ぎ現地を離れたはずのヴィゴン本人も交通渋滞と飛行機の危険性を避けるため途中から船を利用したため、パリに辿り着いたのは翌22日の午後15時過ぎでした。ちなみにこの日、チャーチルが再度パリを訪問していたのですが、これもヴィゴンの帰還を待たされる事になったようです。そして帰還してからヴィゴンはその反撃計画、作戦位指令1号を発令するのですが、既に見たように現地では誰もその内容を知らず、それは何ら実行に移される事なく終わります。この段階でアラス地区での反撃作戦も失敗に終わっており、以後、イギリスは完全にフランスを見限る事になります。それまでドイツ軍装甲部隊への反撃を強く支持していたチャーチルもまた、ダンケルクからの撤退戦に方針を変更してしまいます。
結局、レイノー首相が行った軍上層部の更迭とヴィゴンの任命は余計な混乱を引き起こしただけで終わるのです。ヴィゴンは就任から三日に渡る時間を無駄に浪費し、そしてその失われた時間によって何も出来ないまま終わります。その中で、唯一行われた反撃らしい反撃が、イギリス側の主導したアラス戦でした。次回からはこの戦いに至るまでの流れを見ましょう。
では今回はここまで。
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