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■連合軍側の状況
今回は、連合軍主力(イギリス遠征軍、フランス第1軍、第7軍(第1軍団を除く))がベルギーの平野部で包囲されつつあった時、連合軍側の上層部、政府と軍司令部がどういった状況で、どういった行動を取ったかを見て置きましょう。まあ、前回も述べたように基本的にグダグダだったんですがね。
■イギリスの政治状況
フランスで戦われたフランスでの戦争だったんですが、この辺りの資料に関してはチャーチルの「第二次大戦」、事実上の公刊戦記である「THE
WAR IN FRANCE AND
FLANDERS」、「モントゴメリー自伝」など、イギリス側の方がよく残っているので、基本的にそれらを参考にしてゆきましょう。ただし「THE WAR
IN FRANCE AND
FLANDERS」は事実関係を整理せずに羅列しただけ、時系列もメチャクチャ、前後で内容が矛盾するのも珍しくない、という本であり、あまり人にはおススメできませんが。負け戦の記録ってのはこうなりがちなんですかね。日本のアレ、戦史叢書もヒドイ内容ですが、その上を行く記述になっています。ちなみにフランス側の資料としては「フランス破れたり」、後は公文書を基に記述されているフランス語版のWikipediaが参考になります。ちなみにフランスの公文書館、Archives
Nationalesのネットからの検索はかなり不便かつ不十分で、2025年現在の段階では事実上、使い物になりませぬ。
まずイギリスの政治的な状況から。後にドイツが敗北する1945年5月まで、「チャーチル戦時内閣(Churchill
war
ministry)体制」が維持されるのですが、首相のチャーチルは電撃戦が開始された5月10日に就任したばかりでした。前任はチャーチルとは犬猿の仲だったチェンバレン首相ですから、同じ保守党とは言え微妙な力関係でした(チェンバレンはチャーチルの採用に積極的では無かった。このため保守党党首は辞任せず、そのまま枢密院議長に転任。10月に健康上の問題で退任し、直後の11月に病没)。ただしこれまた犬猿の仲だったレイノー首相とダラティエ前首相の対立下にあったフランスよりは安定していおり、チャーチルはこの危機をなんとか乗り切ったと評価していいでしょう。まあ問題も多かったのですが、その大半は彼の責任外です。
特にドイツ軍が来るかもしれぬ、という恐れのある中、自ら何度もパリに飛んだ行動力は高く評価されるべきしょう。これによって情報の「観察」という点で極めて有利となり、イギリス側のOODAループの回転を高速化しました。時間的にキワどかった連合軍の撤退作戦、いわゆる「ダンケルクの奇跡」が成功した最大要因の一つがこれだと思います。この点、パリからほとんど動かなかったフランスの政府関係者、それどころか軍上層部の呑気さとは際立って異なる点でした。まあ、基本的にイヤな奴なんですけどね(笑)。筆者的には死んでも一緒に仕事したくない人物です。

“サー”・ウィンストン・チャーチル(Winston
Churchill)。
人間的にはカスでクズですが、政治家としては有能で愛国心が強く、頭も切れました。戦争が無ければただのハイテンションなキチガイで終わった可能性が高い人物ですが、この人材をこの段階でキチンと利用できたイギリスの運の強さは驚くべきものがあります。
当時の為政者の中では最も軍事的な経験と知識があった人物の一人で、この点はヒトラーよりも上だったと思います。ちなみにヒトラーは第一次世界大戦の時、最前線で使われる下っ端兵だったのに対し(戦略的な視点の欠如はこれが主要因だろう)、貴族の端くれだったチャーチルは騎兵将校として複数の戦争を経験してます。ただし全て植民地戦争、さらには従軍記者としての参戦であり、実戦経験も指揮官の経験もほぼ無いと考えるべきでしょう。実際、その知識と経験に反して軍事的な才能は無いに等しく、政治家に転向した後に彼が口を出した戦略、戦術は大半が大失敗に終わっています。第一次大戦のガリポリ半島戦、第二次大戦の戦艦HMS
プリンス オブ ウェールズのシンガポール派遣などですね。ちなみに後で見るアラスの戦いを引き起こす事になる連合軍の反撃作戦を最初に主張したのもチャーチルでした。この点、チャーチルの自著では不利な事実を述べてないので要注意。この辺り、確かに嘘はついて無いんだよね、これが有能な政治家のやり方か、と思わせる部分となります。ただし第一次世界大戦の新兵器、戦車の開発に大きな貢献があったのだけは事実ですが、これは戦術でも戦略でも無いですね。
■イギリスの軍人事情
一方で、イギリスの軍組織、中でも主力であった陸軍は面倒な問題、二つの指揮系統による複雑化という問題をダンケルクの撤退戦に至るまで抱えていました。イギリス本国陸軍における最高の役職である帝国参謀長(Chief
of the Imperial General
Staff/ちなみに1964年以降は帝国の文字が抜ける)と、ベルギー&フランスの現地に在って強力な指揮権を持つイギリス遠征軍(B.E.F.)指揮官が並立して存在し、その力関係は微妙なものがあったのです。少なくとも現地の作戦指揮については遠征軍の指揮官が完全に独立した地位にあり、本国からの命令は参謀長ではなく、戦時内閣から直接与えられる形に成っていました。ついでに言うと海軍、空軍の指揮系統はまた独立していたいのですが、こちらはそれほど重要な役割を果たして無いので、今は考えなくていいでしょう。本来なら遠征軍指揮官が全ての指揮を執るべきなのですが、これにチャーチルが積極的に介入、本国の陸軍高官を次々に現地に送り込んだため、その指揮系統は最後まで混乱します。
とりあえず電撃戦の開始時、5月10日の段階で本国、帝国参謀長の地位にあったのがアイアンサイド(William
Edmund Ironside)将軍、イギリス遠征軍の指揮官だったのがヴェレカー(John
Vereker)将軍でした。ちなみにヴェレカーはアイルランド貴族の爵位、ゴート卿(Viscount
Gort/ゴート子爵)を持ち、多くの資料ではこちらの名で登場するため本稿でもそれに従います(後にイギリスからも爵位を贈られるが、ややこしいので考えなくていい)。面倒なことに、この二人もまたフランス軍の最高指令官ガムラン将軍VS現地司令官ジョルジュ将軍のように出世競争でライバル関係にありました。第二次大戦が始まった時、両者共にイギリス遠征軍指揮官の地位を望んだのですが、アイアンサイドが敗れています。ちなみにこの段階ではゴート卿が帝国参謀長であり、アイアンサイドはその地位を譲られる形となりました。さらに両者とも軍人としてはほぼ無能という点もフランス側と共通でした(政治的、事務的な能力はあったが戦争屋ではない)。この点が電撃戦中のイギリス軍における最大のアキレス腱になってしまいます。
実際、チャーチルはこの二人の能力を評価しておらず、副参謀長の地位にあったジョン・ディル(John
Dill)を16日の最初のパリ訪問に連れて行き、そのまま連絡役として現地に残しています。その後、5月26日付でアイアンサイドに代わり参謀長にこのディルが就任するのですが、この人も後にチャーチルと対立、1941年12月に更迭される事に。その跡を継いだのがブルック(Alan Brooke)で終戦後までその地位にありました。
ちなみにアイアンサイド、ディルの二人はチャーチルによって参謀長の地位を奪われるのと引き換えに元帥の地位に就いています。この手の気配りによる元帥がイギリス陸軍には多く、その地位はその実績と能力を反映していない事が多いですね。ディルはその後、ワシントンD.C.にイギリス軍の代表として送られ、1944年11月に現地で客死しています。アメリカ側の軍人のトップ、マーシャルと親密な関係を築いたと言われ、英米間の協調に大きく貢献したのは確かのようです。このためイギリス軍の元帥ながら現地のアーリントン墓地に埋葬されました。ちなみにアーリントン墓地にあるアメリカの軍装ではない怪しい騎乗軍人の銅像はこの人です。
とりあえず電撃戦が始まった5月10日の段階ではイギリス遠征軍の指揮官、ゴート卿が間違いなく現地イギリス軍の指揮官でした。ですがその敗北が決定的になりつつあった20日から参謀長のアイアンサイドが現地に飛び、その作戦行動に干渉を開始します。この辺りはチャーチルがバックにありました。ドイツ装甲部隊に反撃するべきだとする本国のチャーチル&アイアンサイドに対し、現地にあったゴート卿は冷静に無理と判断しており、海岸線への撤退案を19日の段階で本国に打診していました。これがチャーチルが彼を見限る要因となったと思われます(ちなみに「電撃戦という幻」にはアイアンサイドが独自の司令部をローンス(Lens)に持ったような記述があるがこれは誤認。ローンスに司令部を置いていたのはフランス第1軍集団(第1軍、第2軍、第9軍を配下に置いていた軍集団)のビヨット将軍。「電撃戦という幻」は後半に入るとその記述に怪しい部分が幾つかあるので注意。日本語版の場合、翻訳の問題からさらにいろいろ怪しくなる)。
この点、後にアラスの戦いの敗退によってチャーチルもまたダンケルクからの海上撤退に傾いて行く事になるのですが、ゴート卿の判断が軍事的に優れていたというワケではなく、単に彼の消極性の方がこの時点では現実に即していただけでしょう。実際、その指揮能力は後にモントゴメリーからも非難されています(お前が言うか、と思うけども)。
この二つの指揮系統(ゴート卿VSアイアンサイド&チャーチル)に加え、ドイツ軍による電話線キル切る大作戦で連絡網が寸断された結果、イギリス側の指揮系統は混乱に見舞われます。さらにフランス側との連絡が事実上断たれていた事で、イギリス側には南のドイツA軍集団の進撃に関する情報がほとんどなく(恐らく16日にパリに飛んだチャーチルが初めて詳細を知ったイギリス人だろう)、前線の部隊には危機感が薄かったのです。実際、16日の段階でダイル線の西、約40qのスヘルデ川(エスコ―川)流域のヘント(Gent)地区まで撤退せよ、とフランス軍総司令部から伝えられた時、なぜ後退するのかと驚いたとされています(この段階でイギリス遠征軍とフランス第1軍が守るダイル線は未だB軍集団には突破されいなかった。それは現地に拘束されている事を意味するのだがイギリス軍側はこれを全く理解できていない)。いずれにせよドイツB軍集団と戦闘中ですから撤退は容易ではなく、ようやく18日になってから夜間に移動する形でスヘルデ(エスコ―)川の防衛線に向け移動が開始されます。この撤退戦は困難を極め、そもそも開始が遅すぎた、と言えるでしょう。この結果、その反撃作戦は完全に時期を失した形で行われる事になります。
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