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■アラスの戦いへの道
グーデリアン軍団こと第19装甲軍団の第2装甲師団が20日の夜(実際は日付が変わって21日の午前2時ごろだったらしいが)、ついに英仏海峡の海岸線に到達したのを、前回の記事で見ました。さらに続々と後続の装甲師団がフランス北部の狭い平野部に集結中であり、これによって北のベルギー平野部にあった連合軍主力はフランス本国の指揮系統から切断され孤立、その補給路も断たれる事になります。そしてこの主力が失われれば、英仏連合軍側に強力な打撃力を持つ戦力はもはや無いのです。よってこの段階でほぼ戦争の決着はついた、と見て良いでしょう(余談だが「電撃戦という幻」ではこの辺りの日付が一日間違えているので注意。第2装甲師団は19日にアベビルに入り、その一部が20日の午前1時に海岸線に到達、となっているがそれぞれ20日、21日が正しい。なんでこんな初歩的な間違いをしているのか不明。日本語版でもそのまま翻訳されてしまっている)。
まずは21日の正午、電撃戦中最後の激戦となるアラスの戦いが始まる直前までの一帯の状況を確認しましょう。
最初に連合軍側の配置を見ると、ベルギー国境の小さな町、モールド(Maulde)からダイル線まで繋がる線がイギリス遠征軍とフランス第1軍の担当地区の分割線となっていました。ちなみに、この地図では見えませんが、イギリス遠征軍の北にはベルギー軍が居ます。ただしこれは頼りにならない上に28日にベルギーが降伏してしまうため、イギリス遠征軍はその左側面、北側の状況に悩まされ続ける事になります。でもってあれ、フランス第7軍もここに居たのでは?と気が付いた人もいるかもしれませんが、その悲劇については後ほど説明します。
ただし両軍の境界線は、フランス国内の戦闘は想定しておらず曖昧なままだったように見えます。この時、ロンメルが向かっていたアラス周辺にはイギリス遠征軍(B.E.F.)の司令部と配下の各軍団の司令部があったのですが、17日にフランス軍総司令部が出した命令ではアラスはイギリス遠征軍の守備範囲に含まれていません。ただしフランス側の担当とされた様子もなく、以後もイギリスの守備隊が置かれ途中からフランス軍のアルジェリア兵が加わっただけでした(アルジェリア兵について公式記録は見つけられなかったが「フランス敗れたり」に記述がある)。もはやこの段階で命令系統はグダグダだった可能性も高いです。
ここにあった遠征軍司令部は19日になってから、海岸沿い、カレーの南西約30qに位置する港湾都市、ブローニュ・シューメール(Boulogne-sur-Mer/ナウシカ海洋センターのある街。名前はギリシャ神話から取ったと主張)と約50km北のアズブゥーク(Hazebrouck)に移動したようですが、どういった分割だったのかは不明。とりあえずドイツ軍が雪崩れ込む直前まで、その司令部本部がアラスに置かれていた状況こそが、マンシュタインの作戦に連合軍側が完全に裏をかかれた証の一つと言えるでしょう。
ついでにこの段階で連合軍の移動に取って最大の障害になったのはドイツ軍の存在よりも民間人の難民でした。ソンム川の南岸を目指して一帯の住民の脱出が生じており、このため鉄道は超満員でもはや乗車は不可能、主要な幹線道路には家財道具を抱えた民衆で溢れかえり、身動きが取れない状態だったとされます。
お次はドイツ側の状況です。海岸線に到達した第2装甲師団を含むグデーリアン配下の三個師団は、前進許可を待って21日は動きが取れず、さらなる無駄な時間を浪費する事になってしまいます。この辺りの状況についてはまた後で見ましょう。対して同じクライスト装甲集団に属するラインハルトの第41装甲軍団はさらに前進して居ました。その配下の第8装甲師団はエダン(Hesdin)に、第6装甲師団は
ル・ボワル(Le
Boisle)まで進出、その南のアベビルに進出していた第2装甲師団と合わせ、すでに英仏海峡から30q、半日もあれば到達できる距離に装甲三個師団による強力な前線が構築されたのです。さらにそこからソンム川沿いのアミアンに居る第1装甲師団までがクライスト装甲集団による最前線となります(既に第2装甲師団の一部が海岸線に進出しているので連合軍主力の封鎖線は完成済みと考えていい)。
ここで再度、同じ地図を載せて置きます。
当時銀河最強のドイツ装甲師団9個が結集した一帯、海沿いの平地は西の英仏海峡と同時に、南はソンム川が天然の要害となっており、さらに自動車化された歩兵師団が既に到着、装甲師団が突破した一帯の要衝を占拠しつつありました(装甲師団に拠点占拠能力は無いから前進後、歩兵を送り込まないと兵力不在の真空地帯が生じ、敵の再占領を許してしまう)。よって両装甲集団が南の連合軍側の反撃を受ける可能性はほぼゼロ、北側は既に見たようにこれも地形的に無理でした。それでもヒトラーを頂点とする心配性のドイツ軍司令部は再度迷走する、というのはまた後で見ましょう。
この段階で爆誕していたもう一つの装甲集団、ホート装甲集団はもう少し内陸部にありました。まず例の中世城塞都市、ル・ケスノワからようやく離脱した第5装甲師団は急ぎ西進を開始、アラス一帯へと向かっている途中でした。B軍集団から新たに配属された、第3、4装甲師団はこの段階でも居所がハッキリしないのですが、後にロンメルの第7装甲師団の西で北上を開始するので、恐らくアラス西方に向かって移動中だったと思われます。
最後にホート装甲集団の先頭を疾走していたロンメルの第7装甲師団は、ヒトラーの言う事を大人しく聞いて居た結果(ヒトラーでも止められなかったロンメルという話は虚言癖のあるリデル・ハートの著作による。信じちゃダメよ)、
ようやくこの日のからフランス北部に向けた侵攻を開始、アラスの北西10qにある土地、アキュ(Acq)一帯を当面の目標とました。恐らくエスコ―川(Escaut/イギリス軍はベルギー国内の呼称、スヘルデ川(Schelde)と呼ぶ事が多い)をこの地点で渡河するためだったと思われます。
この時アラスの街にイギリス軍の守備隊がある事は知っていたと思われ、ロンメルは市街部から約3〜5kmほど離れた街道を分散して一気に通り過ぎようとします。恐らくこれまでの戦訓からイギリス側は手を出して来ないか、パニックになって逃げ出すと考えたのでしょうが、不幸にしてここにはドイツ装甲師団の裏をかくべく、イギリス側の反撃戦力が集結しつつありました。この戦力がロンメル軍団と正面から激突、さらにフランスの第3軽装甲師団(B軍集団配下だったドイツ、第3、第4装甲師団とアニュ&ジャンブルで死闘を展開した部隊)とSSのドクロ師団を巻き込む大乱戦になってしまいます。この辺りは次回に見ましょう。とりあえず、両軍にとって予期していなかった戦闘であるのだけは覚えておいてください。
そしてここで突然、という感じで登場するのがナチス親衛隊、本来ならナチス党の私兵に過ぎない武装親衛隊のSSドクロ師団でした(SS
Division
Totenkopf/後の第3SSドクロ装甲師団)。この自動車化歩兵師団は、開戦時に予備部隊として後方に居たのですが、16日の段階で前線への投入が決定され、ロンメルが二日ほどアラスの手前で足踏みしている間に追いついてしまったのです。ちなみにTotenkopfをどう訳すかで印象が変わりますが(直訳するなら頭蓋骨だがその旗は海賊旗のようでドクロが適訳だろう)、とりあえず正式名称です。ユダヤ人強制収容所に関連していたSS-Totenkopfverbände(SS-TV)を母体に編成された部隊なのでこの名があります。ただしこの時はまだ後の残虐なエリート部隊の面影は全く無く、単に実戦経験のない素人部隊でした。このためアラスでは散々な目に会う事になります。そもそも軍の組織ではなく、あくまで私兵の集団に過ぎない連中の初の実戦がいきなり壮絶な戦車戦だったのですから、この辺りは仕方のない所でしょう(隊員には元軍人も居たが)。
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