■13日の渡河開始
1940年5月13日16時、いよいよセダン地区での渡河作戦が開始となります。16時という時間はやけに遅い気がしますが、何度も書いてるように北緯50度近い一帯の日没時間は21時過ぎ、よって約5時間の猶予がありました。日本人の感覚だと13時くらいに渡河作戦開始だったと思えばいいでしょう。
余談ですが日本語の史料、グデーリアン軍団のマース川渡河を5月15日とするものが昔から履いて捨てるほどあるんですが、元ネタはなんなんでしょうね。ちょっと調べればすぐに判る間違いないなのに。15日はフランス側がグデーリアン軍団の意味を初めて正しく理解した日です。その頃にはとっくにセダン地区からグデーリアン軍団は走り去っておりました。
ただしグデーリアン配下の三師団の内、第2装甲師団は渡河時間に間に合いませんでした。さらにその北で同日渡河予定だった第41装甲軍団ことラインハルト軍団の第6装甲師団も遅刻となります。ラインハルト軍団、渋滞を抜けた後は急速にフランス国境を突破しつつあったのですが、開戦初日の遅れが未だ響いていたのです。ただし第6師団は後にマース川渡河後、北のB軍集団と南のグデーリアン軍団の間隙を突く形になって高速進撃を開始、16日までにはフランス国内でグデーリアン軍団をぶち抜いてしまいます。その辺りの話はまた後で。さらにそのラインハルト軍団とB軍集団の間隙を突いてハイパードライヴ状態で暴走を開始するのがロンメル閣下なんですが、これもまた後で。
ただしグデーリアンの第19装甲軍団も全部隊が到達したわけではありませんでした。中でも牽引で手間がかかる砲兵部隊は後方の渋滞に埋もれ多くが作戦開始に間に合ってません(少なくとも1/3以上は間に合ってないはず)。このため、貴重な砲兵のほとんどは中心部を突破する主力部隊、第1師団に優先的に配属されます。ただし結局、火力不足は補えず、敵のコンクリート製(フランス語でベトン/béton)陣地に苦戦するのですが、その状況下でもドイツ軍は圧勝してしまうのです。
前回見たようにドイツ空軍の空襲の効果も実はイマイチだったので、爆撃、砲撃の恩恵はほとんどないままの戦闘でしたが、それでも勝ってしまうのが電撃戦なのです(ただし第2装甲師団は苦戦というか事実上渡河に失敗するが、作戦開始時間に遅れた段階で脱落していたと見るべきだろう)。
この辺りの状況は1990年の湾岸戦争の左フック、2022年のウクライナ・ロシア戦争におけるハリコフ電撃戦も全く同じでした。砲兵の火力はなんら圧勝に貢献してないのです。朝鮮戦争の時の北朝鮮軍も同じような事をやってるはずですが、この時は両軍、まともな記録を残して無いので(少なくとも信用に値するものは皆無)、断言はできませぬ。いずれにせよ、機動戦を極めると砲火力はそれほど意味をなさなくなります(無いよりは在った方がいい程度で決定的な要因では無くなる)。ただし機動戦、そう簡単に極められるものではないのも事実で、故に人類の戦争の歴史でも数えるほどしか成功例が無いんですが。
■作戦司令
ドイツ軍の作戦記録は戦火による消失、戦中戦後のソ連側の持ち逃げなどで意外に残ってませんがセダン戦に関しては師団級の作戦指令まで現存し、その状況が比較的よく判ります(ただし現物は焼失。残ったのはコピー、一部は関係者による復元。このため添付地図などは失わている)。
既に見たようにシュトルヒで迷子にされたグデーリアンは軍団司令部に戻った後、以前から用意していた命令書類の開始時間だけ変更し17時50分付で各師団司令部に送りました。さらに翌13日の朝、8時15分付で追加命令を送付しており、あまり細かい指示を出さないグデーリアンとしてはかなり入念です。さすがの彼も多少の不安があったのでしょう(厳密には作戦全体の指令とは別に各師団の砲兵大隊を第1装甲師団へ移管する追加指令を12日18時35分付で出している。よって作戦前に三度軍団命令書を出した事になる)。
12日夜の段階までに第1、第10の各師団はマース川渡河地点付近まで進出していました。ただし一部は休みなしで行軍してなんとか間に合い、そのまま渡河作戦に入っています。
そして13日の朝から作戦開始時間に至るまで、グデーリアン閣下は一帯を走り回ってました。まずは主力である第1装甲師団司令部に行って状況を確認、そこから未だに遥か後方に居た第2装甲師団を訪問、そのまま作戦地域を一気に横断して第10師団司令部に向かい、これも状況を点検しています。さらに後方にあった軍団司令部で仕事をして、16時の作戦開始時に第1装甲師団の渡河担当地点に向かい作戦の進行を監視しています。恐らくこの日だけで戦闘地区を30q近く走り回っており(フランス軍は掃討されていたが対岸から砲弾は飛んで来ていた)、その行動力には驚くほかありませぬ。個人的には安土に入る前の信長の戦い方を思い出す所です(余談ながら本能寺前、数年間の信長は病気だったのではないかと個人的には疑っている。それほど活動量が減り、さらにフロイスらの記録に出て来る姿は情緒不安定である)。
ただし50m近い幅を持つ川を機甲部隊がいきなり渡河するのは不可能であり、歩兵部隊がボートで渡河(歩いて渡れる場所は無かった)、対岸の敵拠点を無力化した後、工兵部隊が仮設橋を架ける必要がありました(ゴムボートに板を乗せて繋いだだけの簡易な舟橋で戦車の渡河は無理で、大型ボートを複数連結、土台とする大型仮設橋が必要。当然、その設営には時間が掛かる)。
よって第1装甲師団の渡河地点に最初に進出したのは大ドイツ歩兵連隊、第1狙撃兵連隊(どちらも各三個大隊)、工兵大隊が一つ、そして開戦直後に大活躍したあの第1オートバイ狙撃兵大隊でした。装甲師団の戦いでも、渡河戦は歩兵と工兵が主力となるのです。
同じく左翼(ドイツ側から見た場合)の第10装甲師団では第86狙撃歩兵連隊のみが渡河地点に向かいます(恐らくこれも三個大隊)。本来なら第10装甲師団にはもう一つ、第69狙撃兵連隊もあったのですが渡河用のゴムボートの大半を砲撃で破壊されてしまっており作戦に参加できませんでした(ボートは航空輸送で持ち込んだとされるがグライダーを強行着陸させたのか、落下傘で投下したのかよく判らず)。
ちなみに両師団の渡河作戦に投入された装甲車両は歩兵部隊に付随する自走砲だけで、戦車部隊は安全確保のため、戦線後方に残されました。第一師団の場合、ベルギー国内で最後の戦闘地だったスモワ川一帯、ブイヨンの北側にこれを置いています(ただし一部は川を越えて南岸に居たらしい)。直線距離だと15qほど。この点、第10装甲師団はもう少し近く約7qの距離にあるラ・シャペル(La
Chapelle/13日の午後からは軍団司令部もここに置かれた)に装甲車両部隊を残しました。いずれにせよ敵火砲の攻撃を警戒し安全圏に残したのでしょう。ちなみに遮蔽物のある森林内に車両を入れてもいい、とにかく道路は塞ぐな、とした命令が残っているので、この段階でもまだ渋滞の問題は残っていたようです。
ただし遅刻しまくった上にフランス軍との壮絶な撃ち合いになってしまった第2装甲師団だけは作戦開始から戦車を投入、ゴムボートを渡河地点まで運ぶのに使ったり(フランス側の砲火が凄まじく歩兵だけで進める状況では無かった)、
対岸のトーチカとの砲撃戦に投入したりしています。
■ドイツ側の命令
ここでグデーリアンによる12日夕方と13日朝の軍団指令、さらにそれを受けて出された各師団指令から主な内容を抜粋して置きましょう。
■北のB軍集団の進撃は順調でその目的を果たした(よって敵の注意はそちらに向いている)
■北の作戦から解放された空軍の機体は全て我らクライスト装甲集団の援護に回される。
■第41装甲軍団も同日中にモンテルメ(Monthermé)地区でマース川を渡河するだろう。
(*筆者注・既に見たように実際は間に合っていない)
■渡河作戦部隊は午前中までにその準備を終えよ。
(*筆者注・実際はこれも間に合っていない)
■全師団は16時に渡河作戦開始とする。
(*筆者注・13日朝8時15分の軍団司令でも第二師団の遅れは考慮されていない。ここまで無茶だと準備してあった命令書を書き直す時間が無く、そのまま送付した可能性が高いと思われる)
■空軍の支援攻撃は別の時刻表の通り行われる。
(*筆者注・前回掲載した表組に加えて砲兵の砲撃目標、煙幕の展開位置まで指定されたものが添付された)
■対空砲部隊は渡河地区に展開し、周囲の対空防御に務めよ。
(*筆者注・88o
Flak部隊である。これによる対空砲網が後に見るゴーリエの舟橋を巡る激戦を乗り切る要因となった)
■通信大隊はクライスト装甲集団司令部、さらに第41装甲師団との無線による連絡を維持すること。また攻撃部隊内の連絡用電話線の設置も行う事。
(*筆者注・師団に通信専門の大隊があった上に(フランス軍は中隊だったから1/3以下の規模)、作戦命令でも丁寧にその任務を指定しているのがドイツ軍らしい)
■渡河の順は指定通りに行う事。
■弾薬、燃料補給場所、野戦病院、捕虜収容所、車両修理部隊の配置場所の指定。
(筆者注・具体的な地名は省略する)
■砲兵大隊の配属は以下のように変更する
(筆者注・先に見たように部隊が完全に揃わなかったので主力の第1装甲師団に優先的に回された)
〇第1装甲師団渡河地点
第73砲兵連隊(筆者注・この部隊のみが本来の第1装甲師団の砲兵戦力)
二個大隊(編成は三個大隊だが、渋滞で遅れた第2大隊を欠く)
さらに他師団より接収した六個大隊、計八個大隊が第1装甲師団渡河地点の火力援護に就く。
(筆者注・以上、ほぼ三個連隊に近い。ただし全数が揃っていたわけでは無い)
〇第10装甲師団渡河地点
二個大隊
〇第2装甲師団渡河地点
二個大隊
(筆者注・一個大隊12門として計140門前後だが各大隊も全中隊が揃っていたわけではない。実際に展開したのは100門前後だろう。対するフランス軍は対岸で主力だった第55歩兵師団に174門、さらに一帯を担当する第10軍団配下の砲を戦闘開始までに現地周辺に集めていた。最終的にどれだけの数になったかは不明だが、最低でも倍以上の火力差はあったろう。さらに言えばドイツ軍は砲弾を運搬する部隊も渋滞に巻き込まれていた。このため装甲集団の総司令官だったクライストによると一門あたり12発前後しか砲弾が無かったらしい。要するに火力支援はほとんど無いに等しかった。そしてそれでも圧勝するのが高速機動戦、すなわち電撃戦なのだ)
■フランスの不運
最後に迎え撃つフランス軍側の事情もいくつか。
まずグデーリアン軍団を正面から迎え撃ったのは第55歩兵師団なのですが、その東には第71歩兵師団が居ました。居たんですがこの師団が配置に着いたのがよりによって前日の12日で、元々第55歩兵師団が布陣していた土地に入ったのです。恐らく兵力の密度を上げようとしたんでしょうが、この結果、第55歩兵師団の一部はグデーリアン軍団の渡河作戦開始直前まで新たな陣地への転換作業中だったと見られます。12日の段階でドイツ軍の攻勢が近いのは判っていたはずなのに、なぜこんな混乱を引き起こすような移動をやったのか、正直よく判りませぬ。
そして陣地そのものにも問題がありました。フランス軍陣地はマース川南岸にコンクリート製のトーチカ、防御陣地を築く事で形成されていたのですが、なぜかセダン中心部から北にはこれが造られませんでした。これまた理由は全く不明。このため川の南岸、約4q近くに渡り空白地帯が出来ていました。この点にドイツ軍が気がついていたかは不明ですが、六つの渡河予定地点の内(第69狙撃兵連隊は前述のように作戦不参加なので実際は五つだが)、二つがこの空白地帯を突く事になりました。しかもよりによって最精鋭の第1装甲師団がここで渡河してしまったのです。
最後になぜかフランス軍はセダン地区に地雷をほとんど敷設してませんでした(ベルギー国境からセダンまでには一定の地雷原があった)。自国内の、しかも街中という事で躊躇したのかも知れませんが、この結果、ドイツ側は渡河後、一気に進撃してしまいます。電撃戦において敵火力はさほど脅威では無いんですが(こちらの進撃速度に砲兵の展開が間に合わない)、待ち伏せ攻撃である地雷にはかなり脆弱だったりします。実際、後のアフリカ戦、独ソ戦だと地雷原が勝敗を決めた例は珍しくありませぬ。さらに2022年から始まったウクライナ・ロシア戦争でもロシア側が地雷によって、ウクライナ側の機甲部隊の動きを封じ長期戦に持ち込んでいます。
以上のような不利に加えて、前回見たような指令系統の問題から来るOODAループでの不利があったわけで、まあ負けるべくして負けた、という部分はかなり大きいのです。
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